テラーノベル
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夜、スンホはコンビニの明かりを背に、約束された場所の前に立っていた。
裏通りの小さなビル。
明かりの消えた雑居階段。
3階の奥の部屋。
あそこに入れば、金になる。
手順は知っている。
相手の指示に従って、自分の名前を偽って、ただ渡すだけだ。
バレなきゃいい。
バレても、前みたいに逃げ切れるかもしれない。
スンホはポケットの中のスマホを握りしめた。
階段を一段、二段と上る。
金属の手すりが冷たい。
喉の奥が乾いて、心臓が嫌な音を立てる。
(ここまで来たんだ、もう戻れない……)
自分に言い聞かせるように、つぶやく。
でも――
3階の踊り場に立った時、部屋のドアの隙間から聞こえた男たちの笑い声が、スンホの耳に刺さった。
あの声を知っている。
かつて自分を使い捨てた、あの人間の声だ。
(無理だ……)
膝が勝手に震える。
スンホは後ろを振り返った。
薄暗い階段の下に、遠くコンビニの明かりが見えた。
(戻れ。戻れ……)
心臓の音が、階段のコンクリに響いていた。
一歩後ずさる。
ポケットのスマホが震えた。
誰かが何度もメッセージを送ってくる。
(もう、無理だ……)
スンホは踊り場を降りた。
手すりに手をかけて、階段を駆け下りる。
その足音が自分の意思を後押ししてくれるようだった。
裏通りに出たとき、喉の奥がかすかに震えた。
「하…(はぁ……)」
息を吐き出し、コンビニの明かりの下で立ち止まった。
スマホを見た。
着信履歴を削除する。
震える指でアドレス帳を開き、
残っていた古い番号を一つずつ消していく。
涙は出なかった。
ただ、夜風が冷たかった。
それでも――
ほんの少しだけ、息が楽になった気がした。
(もう二度と……戻らない)
スンホは小さくつぶやき、
コンビニのドアを開けて、コーヒーを買うことにした。
まだ夜は長いけれど、
その小さな一歩が、明日の朝に繋がっていると信じたかった。
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