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部屋に戻ると、砂時計の青が微かに揺れていた。
流れ落ちる砂は、残りの半分も切っている。
彼女の心臓は速く打ち、息がわずかに荒い。
もう後戻りはできない。
——同僚を取り戻さなければ。
その思いが頭を支配する。
数日前の朝、誰もいなかったはずの人物が、自分の記憶の中では確かに存在している。その顔、声、仕草、すべてが鮮明だ。誰も知らない世界で、ひとりだけ覚えている自分。
洋子は砂時計を手に取り、静かにひっくり返した。
青い粒が再び落ち始める。
空気がざわつき、部屋の輪郭がわずかに揺れた。
時間の流れが・・・零時界が発生し、瞬間が逆戻りする。
——数分前、昨日、先週……
彼女は意識を集中させた。
消えた同僚が、机の前に座っている光景を思い浮かべる。
脳裏で繰り返し映像を描き、記録層を誘導する。
その瞬間、確かに彼は現れた。
目の前に、息をする姿がある。
声を出して笑う。
洋子は胸がいっぱいになった。
「戻った……戻ってきた!」
だが、喜びは長く続かない。
机の隅で、いつもならそこにあるはずの別の同僚の影が消えている。
彼の記憶が、別の誰かの存在に押しやられ、薄れていくのが分かる。
「……また?」
恐怖が背筋を這い上がる。
砂時計の操作は、過去の記録を“再生”する行為だ。
しかし再生された瞬間、別の記録が上書きされる。
存在の連鎖は完璧ではない。
自分の観測が誰かを消すのだ。
洋子は手を震わせながら、何度も砂時計を返した。
同僚を呼び戻し、消えた存在を復活させる。
何度も何度も繰り返す。
だがそのたび、別の人物の輪郭がぼやける。
笑顔が消え、声が消え、存在の痕跡が薄れていく。
「……私は、誰を取り戻すこともできない……」
絶望が、胸に重くのしかかる。
砂時計の青は鮮やかで、美しい。
だがその美しさは、残酷な現実の象徴でもある。
彼女の行為は、時間を修正することではなく、
他者の存在を選択的に削る行為だった。
ノートを開く。
ペンを握り、震える手で走り書きする。
〈観測記録 第31項〉
——時間の修正とは、他者の存在を犠牲にする行為である。
——干渉が続くほど、失われる記録の層は増え、消える存在も増える。
——選択する者が、意識的に存在を決める瞬間が発生する。
書きながら、洋子は青い砂を見つめる。
その流れが、まるで血のように見える。
流れ落ちる粒は、数えきれない“他者の断片”。
触れることも、戻すこともできない。
——誰かのために動けば、誰かが消える。
その現実に、洋子は背筋を凍らせた。
砂時計の青は、彼女の心を映す鏡のようだ。
光は美しいが、その光に触れるものすべてが、既に選択されている。
彼女は一度、手を止める。
息を整え、机の上に両肘をつく。
目を閉じると、無数の記録が波紋のように広がるのが見える。
消えた同僚、消えた友人、見えない誰か。
そして、自分自身の存在もまた、揺らいでいる。
「……もう、やめなきゃ……」
声に出して呟く。
しかし、手は止まらない。
青い砂がまだ落ちている限り、彼女は干渉を続けることができる。
過去を修正する誘惑に抗うことはできない。
そのとき、部屋の空気が変わった。
光の粒子がわずかに浮かび上がり、耳鳴りのような音が響く。
砂時計の砂が、いつものように重力に逆らって逆流し始めた。
世界が微かにねじれ、現実の輪郭が揺れる。
洋子は恐怖と興奮の入り混じった気持ちで、再び意識を集中させる。
消えた同僚を呼び戻すため、青の粒子の中に手を伸ばした。
指先に触れた感覚は、冷たくも暖かくもない。
記録の粒子そのもの——それは、存在の断片だった。
手を伸ばすたび、別の記憶が微かに揺らぐ。
微笑んでいた誰かの輪郭が消え、声が遠くなる。
洋子はその感覚に耐えながらも、指先を砂に差し込む。
救いたい人が目の前に現れる一瞬のために、別の誰かを犠牲にしてしまう。
「……これが、代償……」
息を切らしながら呟く。
その瞬間、彼女は理解した。
時間の修正は、他者の存在を置き去りにする行為だ。
美しい青の砂は、残酷さを包み隠す仮面に過ぎない。
ノートに再びペンを走らせる。
〈観測記録 第32項〉
——砂時計を用いた時間遡行は、観測者の意志と世界の記録層の相互作用で成り立つ。
——成功の代償として、他者の存在が犠牲になる。
——干渉を止めなければ、失われる記録は増え続ける。
砂時計の青は、残り少なくなっていた。
彼女の手の中で、粒子が光を帯びながら、音もなく落ちていく。
その落下は、時間の終わりを告げる鐘のようでもある。
洋子は深く息を吸った。
手の中の砂の冷たさを感じ、世界の輪郭を確かめる。
誰かを救おうとすれば、別の誰かが消える。
その現実を受け入れることが、彼女の次の試練だ。
「……私は、誰も犠牲にせずにはいられない……」
視線を上げると、月光が窓の外で青く輝いていた。
その光が、砂時計の青と共鳴する。
世界は美しくも残酷だ。
その中で、自分は選択の連鎖の中心に立っている。
青い砂が、最後の一粒まで落ちる前に、洋子は覚悟を決めた。
——次に砂を使うとき、何かが決定的に変わる。
世界は再構築され、消えた人々の記憶は永久に形を変える。
それを承知のうえで、彼女は砂時計を抱きしめた。
深い夜の静寂の中、青い粒が光を帯びて、落下を続ける。
その音も、光も、誰のものでもない。
すべては、観測者——洋子の意識に委ねられていた。