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部屋は静まり返っていた。
砂時計の青は残りわずかで、粒は数えるほどしかない。
洋子は両手でそれを抱え、深く息をついた。
——これが最後のチャンスだ。
すべてを元に戻すためには、残された砂を使い切らなければならない。
手が震え、胸が詰まる。
しかし、心の奥底で確信していた。
これが唯一の方法だと。
彼女は砂時計をひっくり返した。
青い粒が落ち始め、部屋の空気がゆるやかに震える。
時間の流れが、逆に引き戻される感覚。
——昨日でも、一昨日でもない、もっと前へ。
光が微かに揺れ、机や椅子の輪郭がわずかに溶ける。
音が遠のき、時計の針が逆回転する。
呼吸のリズムも、体内の血の流れも、まるで逆行しているようだ。
——最初に彼らと出会った夜まで戻る。
記憶の中の光景が、現実と重なる。
あの夜、公園の木々の間から舞い落ちる奇妙な光の粒。
掌に握った、透き通るコバルトブルーの砂。
そして、現れた輪郭の定まらない存在たち。
洋子は目を閉じ、すべての感覚を集中させた。
粒子の流れが指先をかすめ、空間全体が青く輝く。
視界の端で、世界の層が薄く揺れ、現実と記録層の境界が溶けていく。
——ここまで戻っても、何も変わらない。
青の砂はまだ落ち続け、過去の記録は次々と再生される。
洋子は手を広げ、粒子の中に身を任せる。
その瞬間、声が響いた。
──君が選んだ。
響きは空間全体を満たし、言葉ではなく波として伝わる。
洋子は息をのむ。
「選んだって……どういうこと?」
──私たちは導いたに過ぎない。
──選択したのは、君自身。
──干渉の結果、すべての因果が決まった。
光の存在が、揺らめく青の粒の間に浮かぶ。
輪郭は曖昧だが、確かに意思を持つ存在であることが分かる。
洋子の心の奥に、冷たい恐怖と熱い興奮が同時に走る。
——私は、自分で選んだのか。
彼女は指先で砂の流れを止め、わずかに握った。
青い粒は手の中で光を帯び、まるで世界そのものを宿すかのようだ。
すべての記録が、この掌の中に集まる感覚。
瞬間、世界のすべてが彼女の意識に連動した。
砂を落とすたび、過去が巻き戻り、失われた記憶が呼び起こされる。
しかし、前と同じ過去は二度と現れない。
小さな揺らぎが重なり、世界は微妙に異なる形で再構築される。
——だからこそ、犠牲もまた変動する。
洋子は気を失う寸前まで砂を操作した。
指先に残る感触、掌の中で光る青の粒、世界の輪郭がゆがむ感覚。
すべてが一体となり、彼女は無音の中に漂った。
そのとき、視界が急に変わる。
公園の木々、夜の空、舞い落ちる光の粒
——すべてが最初の夜のまま再現されていた。
——しかし、違和感がある。
空気が少し重い。光の粒の動きが、以前より遅い。
世界は戻ったが、完全には元に戻っていない。
彼女はそっと砂時計を握り、青い砂を見つめた。 残量はほとんどなく、あと数分の遡行しかできない。
砂は青い光を帯びて、透き通るように輝く。
——あの時の感覚が、まだ掌の中に残っている。
洋子はそっと呟く。 「これで……本当に戻ったの……?」
青の粒が微かに震え、わずかに光を放つ。
彼らの存在は、姿を現さない。
——けれど、確かにそこにある。
自分が砂時計を握る限り、記録層は反応し、世界は彼女の選択に連動する。
呼吸を整え、部屋の明かりに目をやる。
机、椅子、時計——すべてが元通りに見える。
しかし、どこかが微かに違う。
空気の匂い、光の角度、時計の針の回り方。
ほんのわずかに、以前の世界とは異なっている。
洋子は砂時計を握り直し、最後の砂を掌で包んだ。
——もう使うことはできない。残りの青は、観測されることを待つだけだ。
彼女は息を吐き、机の上にそっと置く。
窓の外を見上げると、月光が青く淡く輝く。
世界は静かに呼吸しているようだ。 あの夜の出来事、砂時計、青の干渉者——すべてが、記録として残る。
そして、すべては彼女の選択によって決まったのだ。
洋子は静かに立ち上がり、深く息を吸う。
心の奥底で、確かな覚悟が芽生えていた。
——これからは、観測者ではなく、記録を受け入れる存在として生きる。
——時間を流れとして受け入れ、干渉を止める。
青い砂が微かに光を放ち、静かに残量を告げる。
その光は、決して消えることはない。
——そして、彼らの存在もまた、確かにそこにある。
洋子は砂時計に手を添え、静かに呟く。
「ありがとう……そして、さようなら……」
掌の青が淡く光を放つ。
世界は元に戻り、しかし少しだけ異なる“現在”が存在している。
すべての選択が記録され、失われたものもまた、別の層で生き続けるのだ。