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放課後の軽音楽部の部室は、いつも少しだけ散らかっている。床に転がるシールド、譜面台に置きっぱなしの楽譜、誰のものか分からないピック。
それらを見て、私は「今日もだな」と思いながら、ギターケースを壁に立てかけた。
「奈央さん、今日もギターやります?」
広瀬くんの声は、いつも通りだった。
特別な抑揚もなく、ただ確認するだけの調子。
「そうだよ」
「分かりました」
それだけ言って、彼は自分のギターを手に取る。
そこに変な間はない。
先輩と後輩が、同じ部活で、同じ時間に練習する。それだけ。
奈央は椅子に腰かけて、ギターを構えた。
指先はまだ慣れなくて、弦を押さえるたびに少し痛む。
「……やっぱりFがきつい」
独り言みたいに呟くと、広瀬がすぐに覗き込んでくる。
「最初はそうです」
それも、ただの事実みたいな言い方。
「ここ、人差し指、もうちょっと立てた方がいいです」
言われた通りに直そうとして、うまくいかずに眉をひそめる。
「難しいな」
「大丈夫です。ゆっくりで」
急かすこともなく、評価することもなく。
広瀬は、隣で同じコードを押さえて見せる。
音はきれいで、安定している。
「……すごいね」
そう言うと、広瀬は少し首をかしげた。
「そうですか?」
「うん、普通に」
「ありがとうございます」
それだけ。
照れもしないし、嬉しそうでもない。
部室の奥では、別のバンドが音合わせを始めていた。 ドラムの音が響いて、空気が少し震える。
その中で、二人は並んで、黙々と練習を続ける。
「じゃあ、ここからもう一回いきましょう」
広瀬がカウントを取る。
奈央は深呼吸して、弦に指を置いた。
ぎこちないけれど、さっきよりは音が出る。
コードチェンジも、ほんの少しだけスムーズになった。
最後の音を鳴らし終えた、その直後。
「――今の、かわいいっすね」
広瀬が、何の前触れもなく言った。
「……え?」
指が、止まる。
「今の弾き方です。ちょっと力抜けてて」
続く説明は、いつも通りだった。
淡々としていて、感情の色はない。
なのに。
「……かわいい?」
思わず聞き返すと、広瀬は不思議そうに瞬きをする。
「はい」
「え、私?」
「奈央さんのギターの弾き方です」
あまりにも自然に言われて、否定もできない。
「そ、そういうの……」
何て言えばいいのか分からず、言葉が途切れる。
「変でした?」
「いや、変じゃないけど」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
理由が分からない。
後輩だし。
部活だし。
ただの評価だって、頭では分かっている。
でも、さっきまで普通だった空気が、
その一言で、少しだけ違って見えた。
「……もう一回やるね」
そう言って視線を逸らすと、広瀬は「はい」とだけ答えた。
本当に、それだけ。
何も起きていない顔。
何も考えていない声。
私はギターを構え直しながら、
さっきの言葉を、頭の中で何度も繰り返してしまう。
( かわいいって……どういう意味?)
音を出しながら、
もう前みたいに、何も考えずにはいられなかった。
この瞬間、確かに何かが変わった。
でも、それに気づいているのは、
まだ私だけだった。