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次の日の放課後。部室のドアを開けた瞬間、奈央は自分でも驚くほど、周囲を見回していた。
(……いるかな)
そんなこと、今まで一度も思ったことがない。
練習に来て、たまたま会えば話す。それだけだったはずなのに。
「奈央さん」
名前を呼ばれて、心臓が一瞬跳ねる。
振り向くと、そこにいるのは昨日と何も変わらない広瀬くんだった。 ギターケースを肩にかけて、いつもと同じ表情。
「お疲れ様です」
「う、うん。お疲れ様…」
声が少しだけ固くなった気がして、私は慌てて咳払いをする。
(落ち着いて。何もない。何も起きてない)
昨日の「かわいいっすね」は、ただの評価だ。
ギターの弾き方の話。
音楽的な意味。
そう、分かっている。
なのに。
「今日も練習します?」
その一言が、やけに近く聞こえた。
「する、けど」
「分かりました」
それだけ言って、広瀬くんはアンプの電源を入れる。
態度は昨日と同じ。
声のトーンも、距離も、視線も。
何一つ、変わっていない。
変わってしまったのは、私のほうだった。
ギターを構えると、昨日よりも指先が強張る。
コードを押さえるたびに、余計なことが頭をよぎる。
(変じゃないよね、今日の音)
自分の演奏を、こんなふうに気にしたことはなかった。
「じゃあ、昨日の続きからいきましょう」
広瀬のカウントで、音を出す。
一音目。
二音目。
自分でも分かる。
昨日より、ぎこちない。
「……あ」
指がずれて、音が濁る。
「大丈夫です」
すぐに、いつもの声。
「今のは、ここ意識すれば」
淡々と説明されて、私は頷く。
近い。
昨日と同じ距離なのに、今日はやけに意識してしまう。
(昨日までは、こんなことなかったのに)
ふと、顔を上げると、広瀬くんと目が合った。
「?」
不思議そうな顔。
「……なんでもない」
視線を逸らすと、胸の奥が落ち着かない。
広瀬くんは、私の様子が変わったことに気づいていない。
気づく理由もない。
「奈央さん」
呼ばれて、また心臓が跳ねる。
「今日、ちょっと弾きにくそうですね」
ただの指摘。
いつも通りの、音の話。
「そう、かな」
「はい。昨日より少し力入ってる気がします」
昨日。
その言葉だけで、また思い出してしまう。
(かわいいって……)
「昨日は、力抜けててよかったです」
昨日のことを、何の含みもなく言われて、
奈央は一瞬、言葉を失った。
「……そ、そう」
広瀬くんは、メモを取るみたいに軽く頷くだけ。
「今日も、そこ目指しましょう」
それだけ。
あまりにも普通で、あまりにも無自覚。
(なんで、私だけ……)
練習が終わるころには、すっかり日が落ちていた。
「お疲れ様でした」
「うん、お疲れ様」
それだけのやり取りなのに、
胸の奥が少しだけ、名残惜しい。
広瀬くんは他の部員に呼ばれて、すぐにそちらへ向かう。
その背中を、私はぼんやりと見送った。
昨日までなら、何も感じなかったはずなのに。
(これって……)
考えかけて、首を振る。
違う。
まだ、違う。
でも確かに、
昨日の一言を境に、世界の見え方が少しだけ変わってしまった。