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パン屋の朝は早い。そして、忙しい。
毎日変わらないルーティンをこなしている間は、あまり頭を使っていなかったのだろう。昨夜、何時ベッドに入ったのか、覚えていないことに気がついたのは、朝食を作り終えた時だった。
リビングのソファーで寝ていたマーカスが、起きてきたのだ。
仮にも貴族の令息がソファーで、平民がベッドで寝るなどと良いのだろうか、と思ったが、マーカスは己を貴族とは名乗っていないのだから、後であれこれ言ってきたとしても問題はない。
あれ? 私、ソファーを使って、って言ったっけ?
ベッドの方が良い? とも言っていない。
そもそも、そんな押し問答をした記憶がない。
マーカスの方を見ると、軽いストレッチをして、体をほぐしていた。
今更、文句言わないわよね。衣食住の“食・住”は提供したんだから、言わせないわ。
気を取り直して朝食をテーブルに運ぼうと、手を伸ばした。すると、皿に触れた感触がないのにもかかわらず、すぐ目の前に、まさに運ぼうとしていた皿が現れた。
「これ、運んで良いんだよな?」
私が驚いた顔をしたせいなのか、マーカスは困ったように確認を求めてきた。
まだ、頭が正常に動いていないらしい。
朝食を二人分、作ったっていうのに。
でも、まさか貴族の令息が、手伝ってくれるなんて、誰が想像するだろうか。私はしないし、期待もしていなかった。
しかし、私が承諾すると、マーカスは慣れた手つきで、もう一枚皿を手に持ち、テーブルまで運んでいった。
考えてみると、十七歳で家を出て、今は十九歳なのだから、つまり二年もの間、放浪生活をしていたんだよね。貴族の令息が、しかも後ろ楯もなく旅をしていれば、色々あっただろうし、何でも一人でやらなければならなかっただろうな。
「いくらこれから世話になると言っても、全部俺に運ばせる気か?」
「うっ、さっきまで寝ていたんだから、それくらいしてくれても、良いと思うわよ」
前回撤回。皮肉を言う男には、これくらいで十分!
マーカスは小さく笑みをこぼし、キッチンに置いてあった最後の皿を取って、アンリエッタの後を追った。
***
パン屋の朝が早いのは、ギラーテの街が早いからでもある。
学者の街だからと言って、侮るなかれ。彼ら学者、もとい研究者には、時間と言う概念があまりない。いや、全くといっていい程ないのである。
だから、朝が早いのではなく、朝までかかってしまった、なってしまった、と表現した方がいいかもしれない。
「いらっしゃいませ」
オープンの札に切り替えると、今日の朝のお客さんが、待っていたとばかりに入ってきた。
先程挙げた徹夜明けとおぼしき研究者がふらふらと、幾人かやってきて、トレイにパンを乗せていく。食事よりも睡眠では、とは言いづらく、会計を済ませて出ていった。
また、研究室に籠るのか、心配になった。大事な常連さんなのだから。
入れ替わりに今度は、冒険者風の男がやってきた。
「あいつか?」
急に背後から耳元で囁かれ、体がビクリとなった。
そうだ。今、カウンター内には私だけじゃなかったんだ。
マーカスは、店内にいる深緑の髪色の男を凝視していた。明らかに、気に食わなさそうな顔をしている。
私は、溜め息を吐きたい気持ちを押し止めながら、
「違う」
マーカスを後ろの方へと押した。近すぎるのと、まだ出番じゃない、と言う意味を込めて。
すると、後ろからガシャンと大きな音が聞こえて振り向くと、こっちも不満げな茶色い瞳と目が合ったように感じた。けれど、それは気のせいだった。私を通り越して、後ろにいる者へと視線は向けられていた。
まったく、と思いながら、それを少し懐かしいとも感じてしまう。私も最初は、彼にそんな態度で接せられていたからだ。
「もう、乱暴に置かないで。壊れたらどうするつもりよ、ジェイク」
名前を呼ばれたジェイク・ジェンダーは、尚も答えない。
そう。ジェイクは極度の人見知りなのだ。どんな相手でも、最初はこのように態度が悪い。
それに気がつかなかった私は始め、別の理由で嫌われていると思っていた。
「今日は、エヴァンさんはどうしたの? ジェイク、一人なわけ?」
こっちには、遠慮なく溜め息を吐いて、話題を変えた。いや、これが本来の用件とも言える。
そもそも、ほぼ毎日朝パン屋に来るのは、兄のエヴァン・ジェンダーだ。ジェイクはその間、家で待っているか、外にいるかのどちらかで、滅多に顔を出すことはない。
代わりに、昼か夕方の方に顔を出すことが多いのだ。
どちらにしても、私にとっては有難い兄弟でもあった。
「兄貴は外で、ポーラと何か相談しているっぽいから、俺だけ」
「そっか」
ポーラ。ポーラ・フォーリーは、ジェイクたち兄弟とパーティーを組んでいる女性である。
彼女と話し込んでいるのならば、冒険者関係の仕事のことなのだろう。
タイミングが悪い。この街で気軽に頼める冒険者は、エヴァンさんしかいないのに…。
「兄貴に用なら、連れて来ようか」
「……うーん。ポーラさんと相談している最中なら悪いわよ。だから、暇な時に寄ってもらえるように、頼める?」
「……そいつが関係してんの?」
ジェイクが顎で、未だアンリエッタの後ろにいるマーカスを指した。
まだ機嫌が悪そう。器用に人見知りするんだから。
「あー、えーと」
そうだった。マーカスについて、どう紹介するべきか。いや、それは昨日話し合ったんだから、その通りに……。
「「実は……」」
まさに説明しようとした瞬間、自分の口から出た言葉と同じ響きが、すぐ後ろから聞こえてきた。しかも、タイミングが合ってしまい、ハモるような形になってしまっていた。
それが恥ずかしくて少し俯くと、突然マーカスに肩を掴まれた。
「……実は私、アンリエッタの兄で、マーカスと言います」
だ、誰? 今、“私”って言った? 昨日も今朝も、“俺”って言っていたような気がするんだけど。しかも、ジェイク相手に敬語を使うなんて……。
「あんま似てないけど、兄妹なんていたんだ」
「ジェ、ジェイクだって、エヴァンさんとあんまり似ていないじゃない? 髪と目の色以外は」
見た目も中身も正反対じゃない。
「はっ。悪かったな。どうせ、俺は兄貴と違って、出来が良くないんだよ」
「そこまでは言ってないでしょ。何でも卑屈に捉えるのは、ジェイクの悪い癖よ。似てない兄弟もいる例えとして、分かり易いと思って言っただけなんだから」
「……分かってるよ」
ジェイクの気持ちが理解できる分、アンリエッタは苦笑いした。
前世の私と兄の関係も、似たり寄ったりだったからだ。
何もかも違い過ぎていて、母親に本当に血が繋がっているのか、確認したほどである。
他人を羨まず、兄を常に羨んでいた。兄は自由で何もかも許されているのに、どうして私だけダメなのかと。同じ兄妹なのに……と。
とりあえず、今はマーカスと偽装関係なので、これくらいのフォローで大丈夫だろう。ジェイク相手なら、深く追及はしてこないはずだから。
マーカスからの視線を感じ、アンリエッタはハッとなった。
「ご、ごめん。えっと、ジェイクって言って、常連さんの弟なの」
そう紹介したが、ジェイクは会釈さえもしなかった。
まぁ、期待なんてしてなかったけど、何だろう。少し腹立たしい。
落胆も苛立ちも、相手に対して何かしら期待をするからだと、聞いたけど違ったかな。
「そうか。それじゃ、親切にしないといけないよな」
「お客さんには、親切に、よ?」
「お客さんには、だろ?」
何故だろう。マーカスの“お客さん”と言う響きが、不穏に感じるんだけど。きっと私同様、ジェイクの態度が悪かったから、機嫌を損ねたんだろう。
マーカスの不敵な笑みを見ながら、そう思うことにした。
***
朝の七時半から開けていた店を、今日は八時半に閉めることにした。
ジェイクが、普段エヴァンさんが買っていく量よりも、多めに買っていってくれたからだ。おそらく、ポーラさんの分が含まれているのだろう。
完売しなくても、完売近くなったら店を閉めることにしている。たった二、三個のパンの為に開けているのは、効率が悪いからだ。
余ったパンは、その日の昼食に。昼なら、夕食に。夕方なら、夜食……ではなく、次の日の朝食にしている。
効率と生産性を重要視しなければ、一日三回はお店を開けることはできない。ちなみに今更だが、お店の名前は『ジルエット』という。
「すまない。もう店仕舞いだったか?」
閉店の準備をし始めた矢先、ドアからエヴァンが現れた。アンリエッタは顔を綻ほころばせたが、次の瞬間ハッとなり、眉を顰めた。
それはジェイクが、きちんとエヴァンに伝えたのか分からなかったからだ。
何故かと言うと、ジェイクには前科がある為、どうしても疑わざるを得なかった。
あれはまだ、エヴァンと知り合ってから少ししてからの頃。パン屋だけでは心もとなく感じたアンリエッタが、エヴァンにそのことを相談した。
すると、何か得意なことはないのか、と聞かれたアンリエッタは一瞬、神聖力が頭を過ったが、それは秘密にした。
冒険者であるエヴァンに知られたら、同行を求められてしまうかもしれないと思ったからだ。それによって、教会に見つかる可能性が、1%でも増えてしまうのが怖かった。
アンリエッタが育った孤児院はマーシェルに属している。騎士の国であるマーシェルの教会は、神聖力を持った子供は重宝されていた。何故なら、教会の後ろ楯でもある聖騎士団の助けとなるからだ。さらに力が強い者は、国の騎士団へと出向させられ、教会と国のパイプ役をやらされることもある。
だから、大事になる前に逃げた。いや、大事になりかけていた、というのが正確だった。
もう探していないと良いけど……。
ともあれ、他に得意分野を探してみたところ、パン屋兼自宅の裏に、小さいが畑を作れるスペースがあることに気づき、そこで薬草を育てることにした。その薬草に神聖力を注げば、より性能の良い物が作れるのではないか、と思ったからだ。
それを提案すると、エヴァンはさっそく畑作りから苗まで、色々と準備を手伝ってくれた。
ジェイクという、もう独り立ちしていても良い年齢の弟を、未だに面倒を見ているだけのことはある、と尊敬した。
だが、そのジェイクが問題だった。
その日、薬草の出来を見て欲しいから、エヴァンさんを呼んできて、とジェイクに頼んだ。が、何時間経っても、エヴァンはやってこなかった。
忙しいのか、それとも見捨てられてしまったのか。
落胆は大きかった。
しかし、次の日の朝、パンを買いに来たエヴァンにより、事が発覚した。
ジェイクが伝え忘れていたと言う事実を。
その日以来、アンリエッタはジェイクをエヴァンの弟だからと言って、信用するのを止めた。歳は一つ下だが、五、六歳下の子供だと思うようにした。
「うん。もう、数も少ないしね。もしかして、買い足しに来たの? ポーラさんが来ているって、ジェイクから聞いたよ」
ジェイクが伝えていないことを前提で、返事をした。
「違う、違う。……その、なんだ。何か困ったことでも、あったんじゃ、ないのか?」
エヴァンが少し辿々しく言いながら、店内で空いたトレイを片付けてくれているマーカスに視線を向けていた。
どうやら、ジェイクは“用件”ではなく、“マーカス”の方を伝えたらしい。期待を裏切らないヤツめ!
おおよそ、ジルエットに知らない男がいた! とか、兄を名乗る男が居座っている! とか、そんなところだろう。
アンリエッタは誤解のないよう、エヴァンにマーカスのことを説明した。
元々行商をしている親の護衛をしていたが、その必要がなくなった為、私の手伝いにやってきたこと。しかし、私の手伝いがあまり必要ではないようなので、この街で仕事をすることにしたこと。護衛をしていたことから、私が冒険者としての仕事を薦めたこと等々。
「そんなわけで、エヴァンさん。頼めませんか?」
「それは大丈夫だ。まぁ、なんだ。とりあえず、問題なさそうで良かった。ジェイクが『怪しいヤツが居座っている。アンリエッタは抵抗できないみたいだから、助けに行ってくれ』と言ってきてだな」
何だそれは。的外れも大概にしろ!
「どうも、初めまして。アンリエッタの兄で、マーカスと言います。エヴァンさんには、アンリエッタが随分とお世話になっているようで、その上私まで面倒をかけることになるとは、申し訳ありません」
マーカスが店の奥から出てくると、さっそくジェイクの訂正も兼ねて、丁寧に挨拶した。
本日二度目になるマーカスの敬語に、慣れないのもあってか、平静を装うのが大変だった。
貴族なのだから、全然おかしくないはずなのに、どうしてかな。
「エヴァン・ジェンダーだ。こちらこそ、ジェイクが迷惑をかけたんじゃないだろうか。あいつは良くも悪くも、自分の都合良いように解釈するところがあるから」
「それはお互い様では? それに、警戒されるのは慣れているので。むしろ、あなたが私に警戒しない方が、気になりますね」
「俺のはクセだ。せこいと思うだろうが、ジェイクが俺にとって、物差しになっているんだ」
エヴァンは苦笑いしながら答えた。
いつまでもジェイクが心配で、一緒にいるのかと思っていたが、この二人は互いに一方通行ではなかったことに驚いた。
人付き合いが悪いジェイクをフォローするエヴァン。
お人好しで人を見る目がないエヴァンの物差しになるジェイク。
羨ましいと思う反面、
「それくらいエヴァンさんの役に立たないと、割に合わないんじゃないですか?」
迷惑賃が高いように感じてしまう。
そしてもう一つ、気になることがあり、アンリエッタは口に出した。
「でも、ジェイクって誰にでも、同じ態度を取っていません? 私にも、マーカスと変わらない態度でしたよ」
「そこは兄の特権というやつだよ」
するとエヴァンは、はにかみながら、アンリエッタの頭を撫でた。
いつの間にかアンリエッタの後ろにやってきたのか、なるほどと言いながら、マーカスはアンリエッタの肩を掴んで、後ろに軽く引っ張った。
「す、すまない」
「いえ、一応可愛い妹なので」
そんな兄妹アピールは必要? とマーカスに視線を向けると、笑顔で返された。
そう。必要ならしょうがない。
「両親からも、念を押されて来ているんですよ。女独り身で、しかも店まで出しているので、心配しない方がおかしいと思いませんか?」
まぁ実際、ギラーテに店を出すと宣言した時、初めは反対されたし、心配もかけた。度々、ギラーテに寄る時も、困ったことはないかと言われていた。
でも、本当に助けがいる時に助けてくれたのは、エヴァンさんだったから、そこまで線を引くようなことをしなくても……。
「マ、マーカス」
「うん?」
後ろを向いて、抗議をしようとした瞬間、一言も言わせてもらえず、エヴァンに遮られた。
「アンリエッタ。いくらこの街の治安がそんなに悪くなくても、そこそこ危ないことは変わらないんだ。まぁ、これからはお兄さんがいるから、心配ないだろう」
「やっぱり、絡まれたりしていたのか」
「え?」
やっぱり、って何? そう思っている間に、マーカスに真剣な顔で、肩を掴まれた。
はっ。兄妹アピールね。兄妹アピール。
「えっと、開けている時間が短いから、あまり変なお客さんは、いなかったから大丈夫よ」
「本当か?」
「今朝だって、変なお客さん、いなかったじゃない」
マーカスからしたら、ジェイクが変なお客さんに見えるかもしれないが。とりあえず良い兄アピールは、この辺で止めて欲しい。
「まぁまぁ、マーカスさん落ち着いて。妹が心配だった気持ちは、同じ兄として分かるけど」
さすがジェイクと違い、兄妹ということを、信じてくれたようだった。いや、そういう所が、ジェイクと似ているのかな。
マーカスの手をぽんぽん軽く叩いて、もういいと無言で伝えた。
「……マーカスで構いません」
「なら、俺もエヴァンで」
その後二人は、しばらく店内で話し合っていた。
マーカスの手腕に感心しながらも、同じような手で丸め込まれたことに、アンリエッタは溜め息をついた。