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 オイゲンがアイガーで遭難した事実をウーヴェが他の友人達に伝えたのは、その知らせを受けた翌日だった。

 仕事が終わった頃合いを見計らい、重い気持ちのままメールで友人達に一斉に報せを送ったが、デスクから立ち上がってお茶の用意をリアに頼もうとした瞬間にカスパルからの着信があり、デスクに手を着いたままじっと携帯を見下ろしているが、沈黙を続けられるはずもないことに気付いて携帯を耳に宛がう。

 「Ja」

 『ウーヴェ、今のメールはどういうことだ!?本当なのか!?』

 「………ああ。昨日叔父のドナルドが教えてくれた」

 カスパルの切羽詰まった声にウーヴェが拳をぎゅっと握ってデスクに押し当て、皆にも同じメールを送ったこと、葬儀などは当分行われないことなどを伝えると、歯軋りと感情を堪えたような後に近いうちにお別れ会をしようと言われて静かに頷く。

 「…場所と時間をセッティングしてくれないか、カール」

 『ああ。それは構わない。俺から皆にメールをしておく』

 「頼む……」

 カスパルに皆への連絡などを頼み、今伝えておくべきかどうかを悩むがどうせ話をするのだからと溜息をついたウーヴェは、どうしたと問いかけるカスパルにオイゲンが抱えていた家庭の問題について手短に説明をすると、低い唸り声の後でそんなに深刻だったのかと答えられて見えないのに頷いてしまう。

 「俺もドナルドに聞かされるまで分からなかった」

 『中に入らないと家の事などは分からないもんなんだな』

 「そうだな…確かに外からでは分からないな」

 そんな悲しくも現実的なことを呟いて同時に沈黙してしまった二人だったが、ウーヴェがもう一度日取りを頼むと声を掛けると、カスパルが暫く悩んだ末に二人はどうすると問いかけてくる。

 「二人?」

 『リアとリオンだ』

 「二人には俺から話す。もしも出ると言ってくれたら出て貰おうと思う」

 二人の出欠についてはこちらから確かめておくから皆への連絡を頼むと念を押して通話を終え、デスクに尻を乗せて溜息をつくとドアがノックされてリアがお茶の用意を持って入って来る。

 「お疲れ様、ウーヴェ」

 「ああ、リアもお疲れ様」

 何も事情を知らないリアが笑顔でウーヴェを促して応接セットへと向かうのをぼんやりと見つめているとどうしたのと振り返られて苦笑し、お気に入りのチェアへと移動してその肘置きに腰掛けると、リアの顔を見つめながら足の間で手を握り合わせる。

 「…リア、オイゲンが…山で遭難したそうだ」

 「え?」

 「アイガーに独りで登って、クレバスに滑落したらしい」

 ザックとヤッケの切れ端が引き上げられたと告げ、驚きに動きを止めてしまった彼女に目を伏せ、恐らく遺体を引き上げることは不可能だから埋葬などは行わないだろうとも告げると彼女の手が小刻みに震えるが、何度か深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうとする。

 「いつ聞いたの?」

 「昨日ドナルドが来ただろう?その時に聞いた」

 昨日の来客者がオイゲンの叔父であることと、お茶を持ってきた時のウーヴェの様子から良くない報せを持ってきたのだろうと彼女も予測はしていたが、まさか遭難という命に係わる事象が起きたとまでは考えられず、ソファに腰を下ろして落胆したように溜息をつく。

 「…残念ね」

 まだまだ若く医者としてどこまで登り詰められるか楽しみだったのに本当に残念だと目を伏せるリアに本人に代わって礼を言いながら手を組みかえたウーヴェは、一度大きく息を吸った後で彼女を呼び、視線が重なった時を狙って口を開く。

 「…少し時間をくれと言ったのを覚えているか?」

 「ええ、覚えているわ」

 先日のやり取りを脳裏に浮かべながら頷くリアに目を細め、そもそもの発端を簡潔に説明するとリアの目がみるみるうちに大きく見開かれ、震える手が口を覆い隠す。

 「…そのことについて話をしようと、もしかすると許せるかも知れない、そう思っていたけど…」

 自分がもたもたしているうちにオイゲンは手の届かない場所に行ってしまったと、彼女から視線を逸らしながらウーヴェが自嘲すると、口ではなく顔を両手で覆ってリアが肩を震わせる。

 「ひどいわ…っ」

 彼女の掌から零れる非難が何に対するものなのかをぼんやりと考えるが、どうか頼むから彼の事を憎んだり嫌ったりしないでくれと告げ、伏せられた顔を見つめながらどうか頼むと繰り返す。

 今告げたようにウーヴェはやはりどれだけ考えようとも彼に対する憎悪の感情を持つことは出来なかった。だからではないが、己の最も身近にいるこの貴重な存在である友人とそれ以上に大切な恋人にも憎悪の念を持って欲しくなかった。

 「どうして許せるの…?」

 「何故だろうな…。俺も良く分からない」

 確かに彼がしたことはひどいことだし最悪精神を破壊しかねないことだと思うが、あんな暴挙に出てしまうような精神状態に追い込まれていたことを思えば責める気持ちにもなれず、また自分にはこうして話を聞いて支えてくれる人がいるのだから平気だと小さく笑みを浮かべると、リアがぎゅっと目を閉じて口を両手で覆う。

 「あなたは…優しすぎるわ」

 自分ならば相手が例えどれ程精神的に落ち込んでいたからと言っても、心身に深い傷を負わせた人を許すことが出来ないと告げる彼女に苦笑し、リオンも同じことを言っていたが本当に何故か憎めないんだと肩を竦め、だからどうか彼を憎まないでくれと告げて膝に両手をついて立ち上がる。

 「……リアにも心配を掛けた」

 「あなたが元気になって笑えるなら、私は良いわ」

 あなたの顔から笑顔が消えないのであれば私はこれ以上何も言わないと、肉親以上の理解を示してくれるリアに頷き、彼女の前に膝をついてその手を取る。

 「ありがとう、リア」

 膝立ちになって彼女の頬にキスをしそのまま細い身体を抱きしめると、小さな溜息が肩に零れた後で背中をそっと抱いてくれる。

 リオンとはまた違うその温もりが与えてくれる安堵感は、きっと幼いころ姉に同じように抱きしめられた事を体が覚えているからだろうと密かにリアを姉と同列の扱いをしていたウーヴェだったが、ありがとうと小さくもう一度礼を言う。

 「リオンに話はしたの?」

 「…ああ。ケリを付ける前にいなくなったことは残念だと言っていた」

 互いに少しだけ照れたような笑みを浮かべて離れると、リアが涙を指先で拭って同じように笑みを浮かべてカップを手に取った為、ウーヴェもチェアに腰を下ろしてカップを手に取る。

 「…他のお友達には知らせたの?」

 「ああ。メールで皆に報せた」

 当然だが自分との出来事を話すつもりはないが、遭難してしまったことは別の話だと目を伏せながら告げ、皆でお別れ会をすることになるだろうと伝えると、良ければ私も参加させて欲しいと言われて目元を和らげる。

 「是非参加してくれ。あいつも喜ぶ」

 「そうね」

 本当にウーヴェは優しいとリアが心の中で呟いた時、デスクにおいたままの携帯が着信を伝えた為、デスク前に戻って携帯を見ると他の友人達からのメールが届いており、内容をざっと確かめてシャツの胸ポケットにしまう。

 「…詳しいことが決まればまた教える」

 「お願いね、ウーヴェ」

 例え数える程しか会っていない人だとしても、やはりあなたの友達だからお別れを言いたい気持ちを教えられてありがとうともう一度礼を言ったウーヴェは、明日の診察予定を確かめる為にデスクに座ると、彼女も休憩時間の終わりを察してテーブルの上を片付け始めるのだった。


 ウーヴェが友人達にオイゲンが遭難したことを伝え、すぐさま行動を取ったカスパルのお陰でその週末にいつも皆で飲んで騒いでいたいつもの店のいつものテーブルに集合する事が出来た。

 少しだけ遅れて店に入ったウーヴェは、他の面々が沈んだ顔でビールにも手を付けずに座っている様に目を細めつつブースの仕切りをノックする。

 「…遅くなった」

 「平気だ。リアも今来たところだ。リオンは仕事か?」

 「ああ」

 一足先に来ていたリアに一つ頷いたウーヴェは、マウリッツの横に腰を下ろして手にした袋をテーブルの中央にそっとおき、皆から見える位置に直近の登山で写してきたであろう満面の笑みを浮かべているオイゲンの写真をそっと置く。

 「これは?」

 「ドナルドから預かった。────オイゲンの形見として持っていて欲しいそうだ」

 袋の中から鄭重な手付きで取りだして皆の視線が集まる中央に並べたウーヴェは、そのどれもが登山に必要不可欠なものであり、ひいてはそれがオイゲンを表すものだとも告げると、皆で持っていてくれと目を伏せる。

 「まずウーヴェが先に選べば良い」

 「俺はギムナジウムの卒業の時に貰ったものがある。だから皆が選んでくれ」

 ウーヴェの控えめな申し出に皆がそれぞれ顔を見合わせるが、カスパルが何気ない動作で使い込んでいるアーミーナイフを手に取ると次いでマウリッツが震える手でカラビナの束をそっと取る。

 次いでミハエル、マンフリートがそれぞれ自らが思うオイゲンを表すに相応しいものを手に取るとウーヴェがリアの顔を窺うように見つめる。

 「良ければリアも持っていてくれないか」

 「良いのかしら…?」

 「ああ────俺たち以外にも…オイゲンを覚えていてくれる人がいるのは嬉しい」

 その言葉に背中を押された彼女が手にしたのは、彼が踏破した山々の写真が納められた小さなアルバムだった。

 「これを…いただくわ」

 「ああ。ありがとう、リア」

 後に残されたものを袋に纏めようとした時、じっと無言で見つめてくるマウリッツに気付いて目を細め、それらを一纏めにしたあと、テーブルの下でマウリッツの手に握らせる。

 「ウーヴェ…?」

 「……良ければ持っていてやってくれないか、ルッツ」

 「え…?」

 マウリッツの目が何を語っているのかまでは理解出来なかったが、自分の知らない関係が当然ながらオイゲンとの間にあったのだろうと思案し、その気持ちからそっと握らせるが、マウリッツがこみ上げてくる感情を堪えるように唇を噛み締めたことに気付いて目を伏せる。

 「…ルッツ…どうか持っていてやってくれ」

 「………分かった……総て預かっておく」

 ウーヴェとマウリッツの会話を片耳に入れながらも口を挟まなかったカスパルは、気分を切り替えるように手を一つ打つと、店員を呼んでビールと料理の注文をする。

 テーブルのカゴからそれぞれがプレッツェルを手に取り、ビールが運ばれると同時にグラスを片手にカスパルを見る。

 「俺たちの中で出世頭だと思っていたオイゲンだが、神様の元で一足先に出世する気になったらしい」

 「本当だな」

 「次に会ったら偉そうな顔をしてるんじゃないのか?」

 カスパルの言葉にミハエルとマンフリートが声を挙げ、その言葉にマウリッツが小さく笑いながらその通りだろうと答えると、ウーヴェも目元を弛めてそっと頷く。

 「だからこっちでせいぜい出世して、肩書をジャラジャラぶら下げてあいつに会いに行こうぜ。────いつか天国で再会するオイゲンに」

 カスパルの言葉にリアが意外な顔をして口を閉ざすが、その言葉が彼の送る言葉だと気付いて瞬きをすると、笑っているオイゲンの写真に向けて皆が静かにグラスを掲げる。

 その一杯を飲み干す間は誰も口を開かず、全員が飲み終えて溜息をついた後でグラスをテーブルに置き、神様の元で出世するなんて抜け駆けだぜ、とカスパルが写真立てに心底悔しそうに呟いて周囲の頷きを得ると、皆の注文を聞いて店員にビールを頼む。

 「いなくなったバツだ、あいつの恥ずかしい話を暴露してやれ!」

 「そうだそうだ!」

 「暴露されるのが悔しかったら出てこい、オイゲン!」

 リアの前で彼女の感覚からすれば信じられないが、遭難して形見分けすらした友人の暴露話で盛り上がり始めたカスパル達に呆気に取られるが、ウーヴェが穏やかな顔でそれを聞いていることから、これが彼らなりの友との惜別の儀式なのだと納得し、お代わりのビールを飲む。

 「大学近くの食堂のムッティがいただろ?あの人を口説いてたって噂が流れたことあったよな」

 「あー、あったあった!いくら年上が好きだからって自分のばあちゃんと同じ年頃の人を口説くなって笑ったよな」

 皆が通っていた大学近くに学生を相手にした安くて美味い昔ながらの食堂があり、そこのオーナーが自分たちの祖父母と変わらない年配の男女だった。

 そこに足繁く通っていたオイゲンを揶揄うためにカスパルが、あそこのムッティ-通称ママ-が気に入っているようだと噂を流したのだが、あっという間にそれは彼女をオイゲンが口説いていたという形になって大学内を回遊したことがあった。

 ただ実際はオイゲンが登山に出かける為の資金稼ぎにその店でアルバイトをしていて、空腹を抱える若者を見かねた夫婦が賄いを食べさせてくれていただけだった。

 その事実を知りながらも面白おかしくカスパルが吹聴した結果、オイゲンが一人顔を赤くしたり蒼くしたりしていたことを思い出して笑いだしてしまう。

 話の切っ掛けが一つ出てきた為に次から次へと学生時代の恥ずかしい話や武勇伝などが飛び出し、その一つ一つがオイゲンが過ごした学生時代を伝えてくれていて、リアもついつい話にのめり込んでしまうが、話が一段落ついた時に我に返ってウーヴェを見れば、いつもと全く変わらない穏やかな顔でマウリッツと何事か言葉を交わしては懐かしそうに目を細めたりその通りだと笑って頷いていた。

 その様子から本当にオイゲンが憎悪の対象になっていない事を知り、己の前言を守るようにウーヴェが笑っているのならば大丈夫だともう一度胸に囁くのをウーヴェもそっと彼女に気付かれないように見ているのだった。

 

 今夜は本当に珍しくマウリッツが意識を無くす寸前まで飲んでしまい、彼の荷物を一纏めにしたカスパルがいつかとは逆にマウリッツの身体を支えながらウーヴェが呼んだタクシーに乗り込んで窓を開ける。

 「…ウーヴェ、オイゲンのことで何かあればすぐに連絡をくれ」

 「ああ。…カール、ルッツを頼む」

 今日の酒のペースは異常なほど早く、あれだけ飲めば酔っ払って前後不覚に陥っても仕方がないと、シートに寄りかかって蒼白な顔で目を閉じているマウリッツへと目を向けたウーヴェがカスパルに頼むと伝えると、同じ顔でマウリッツを見たカスパルも無言で頷く。

 オイゲンが遭難したと聞きお別れ会を開いたものの、今夜ここに参加した者の中で彼が本当に遭難して天に召されたと思っているものは実は誰もいなかった。

 その事を証明するようなカスパルの言葉にウーヴェも頷き、そちらも何か分かれば教えてくれと告げて今度はリアの為に呼んだタクシーに彼女を乗せた時、コートのポケットから軽快な映画音楽が流れ出す。

 「……Ja」

 『ハロ、オーヴェ』

 「ああ。仕事は終わったのか?」

 『うん、終わった。そっちはどうだ?』

 タクシーの窓を開けて顔を出す彼女にお休みと告げて頬にキスをし、運転手にお願いしますと合図を送り、走り去るクリーム色の車体が小さくなるのを見送っていると、携帯から訝るように名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 「ああ…悪い。今リアをタクシーに乗せた所だ」

 『そっか…オーヴェはどうするんだ?』

 「今から家に帰る」

 ミハエルとマンフリートもそれぞれ帰路に就き残るは自分だけになったウーヴェは、タクシーを呼び止めて乗り込み、自宅の住所を告げて携帯の向こうで今からそっちに向かうと告げるリオンに目を丸くする。

 『ダメか?』

 「いや…そっちが早ければ待っていてくれ」

 『了解』

 今タクシーに乗り込んだこと、車内だから通話を終えることも告げると耳に小さなキスの音が流れ込む。

 それを微かな笑顔で受け止めたウーヴェは、ちらりと運転手が自分を見た気がしたが、気にすることなく携帯をポケットに戻し、シャツの下で密かに自己主張をする鍵に手を宛がうのだった。


 タクシーを降りて自宅に向かったウーヴェは、まだリオンが到着していないことに気付いて急いでベッドルームで着替えを済ませ、リビングに向かおうとした時に壁際のデスクに置いた小さな鍵を見つけて歩み寄る。

 その鍵はリビングの暖炉の上に飾ってある木箱を開ける為のものなのだが、これをドナルドから受け取った日からここに置きっぱなしにしていたことを思い出し、手にとってリビングへと向かうが、控えめにドアベルが鳴らされたことに気付いて鍵を手にしたまま玄関へと向かう。

 ドアを開ければ少し寒くなってきた為にブルゾンの襟を立てているリオンが、それでも寒さを感じさせない笑顔を浮かべて立っていた。

 「お疲れ様、リオン」

 「うん。オーヴェもお疲れ様」

 オイゲンのお別れ会は無事に終わったかと問われ、皆で大騒ぎをしながら別れを告げたと伝えるものの、誰一人としてオイゲンが死んだとは思っていないことも告げてリオンに苦笑される。

 「…身体が見つかるまでは…な」

 「そーだな…それもアリだな」

 本当に故人になっていてもそうすることで彼の存在を忘れないのであればそれはそれで良いのではないかと肩を竦めるリオンにウーヴェも同意を示すように頷きそのままリビングに向かっていくが、暖炉の前に立った時に鍵を手にしたままであるのを思い出し、古い木箱を手に取る。

 「その鍵はどうしたんだ?」

 「…万が一のことがあった時に俺に渡して欲しいと叔父に預けていたそうだ」

 「ふうん…開けないのか?」

 その鍵と木箱はワンセットなんだろうとリオンに問われて頷くものの、やはりどうしても鍵を使って箱を開ける気持ちになれなかった。

 アビトゥーアを無事に終わり、卒業という節目の日に手渡された、己にとっての天国への扉と彼が称した木箱。

 この中にはこれを手渡した当時のオイゲンの気持ちがこもった何かが入っているのだろうが、天国の扉と称したことを思い出し、その天国とはあの夜ウーヴェが眉を顰めたような不吉な意味ではなく、自らの思いを伝え、それが叶った状態の事を指しているのではないかと気付くと、この鍵を使うってそれを開放する事に躊躇いを覚えてしまう。

 もしもこの中に納まっているのが今ウーヴェが想像したように、言葉ではなく暴力行為として伝えられてしまった好意だとすれば、やはりどうしてあの時伝えてくれなかったのかという疑問や腹立たしさが芽生えてくる。

 これを渡した時に言葉で思いを伝えられていれば、その願いを叶えられない事に謝罪をしつつ友達でいようと答えただろうが、自分が恋愛対象として見られていたと知っても昨日までの友人を嫌悪したり侮蔑の目で見るつもりは一切なかった。

 そのウーヴェの心の在り様を結局理解してもらえていなかったのかというやるせなさが不意に沸き起こり、伝える勇気を持って欲しかったと胸中で呟いたウーヴェは、木箱を元の場所にそっと置いて横に古びた鍵を置くと、じっと様子を見守っていたリオンを振り返って笑みを浮かべる。

 「このままここに飾っておく」

 「開けないんだ?」

 「ああ……開けたとしても俺はオイゲンの為に天国の扉を開けてやることは出来ない」

 例えその入口に必要な鍵を手渡されても使えないんだと告げたウーヴェは、お前がそう考えるのならば好きにすればいいと額にキスを受けた後に囁かれ、リア同様肉親以上に理解してくれる恋人に心から感謝の言葉を告げるが、リオンが何かを考え込むように顎に手を当てたことに気付いて首を傾げる。

 「どうした?」

 「うん……あのさ、その箱、開けないんだよな?」

 「…ここにあると不愉快か?」

 リオンの心の一端を読み取ったウーヴェが若干の不安を混ぜて問い掛けると、リオンの伸びている前髪が左右に揺れ、割り切ったような笑みを浮かべる。

 「不愉快じゃねぇけど、鍵と箱が一緒にあったら開けてしまいたくなる」

 多分その中にはオイゲンがお前に宛てた何某かのものが入っているだろう、そう思うと駄目だと分かっていても開けてしまいたくなることを苦笑混じりに告げるとウーヴェの目が見開かれる。

 「その中身が天国への扉って言ったんだろ?──お前と付き合えるのなら確かにそれは天国の扉だし鍵でもあるよな」

 ただその天国はオイゲンのものであって俺やお前のものではない。

 お前が彼のために扉を開けてやれないと告げた理由と同じで、自分もそれを出来れば見たくないと告げて肩を竦めたリオンは、ウーヴェの手に鍵を握らせて掌を閉じさせると、お願いだから俺の目の届かない場所にこれを保管してくれと目を伏せる。

 「お前の親友の形見だ、捨てろなんて言わないし壊すつもりもねぇけど…出来れば見たくないな」

「……うん」

 「ダンケ、オーヴェ」

 「それは…俺の言葉だ」

 今回のことでどれだけ己が護られていたのかを改めて気付き、そしてまた護ってくれることで前を向いて歩き出す力をくれただろうかと告げると、驚くほど澄んだ青い瞳に見つめられて息を飲む。

 この真っ直ぐな瞳と一歩を踏み出す勇気をくれる強さと温もりを持つリオンがどれ程大切な存在であるのかが今回の一件でもわかり、言葉では言い表せない気持ちが溢れそうになる。

 言葉に出さなくても伝わる思いは確かに存在するだろうし、自分たち二人の間では言葉以上に目を見つめることで心を伝えあっているが、上手い下手はあっても感情を、心を言葉にする術を持っているのだ。

 ならば今胸に溢れる思いを言葉にするべきだろうと、それをせずに結局切羽詰まって暴行した友人の顔を脳裏に浮かべ、言葉で伝えてほしかったと胸の奥で呟いたウーヴェは、じっと見つめる青い瞳に気持ちを切り替えるように笑みを浮かべ、すべての思いを表せるただ一言を驚いたように丸くなった目に語りかける。

 「─────俺の太陽」

 「…うん」

 短い告白に更に短いそれが返ってきてじわりと暖まった胸に軽く手を宛ったウーヴェが笑みに目を細めると、目尻にうっすらと涙が滲む。

 「…泣くなよ、オーヴェ」

 「泣いて…ない…っ」

 「あー、はいはい」

 本当に俺の陛下は素直じゃないと、いつもの軽口を叩きつつもしっかりとウーヴェを抱き寄せたリオンは、眼鏡をそっと外して暖炉の上に置くと、こめかみと目尻のホクロにキスをする。

 ギムナジウムと大学という掛け替えのない時間を一緒に過ごし、最後は悲しい別れを迎えてしまったオイゲンを友人以上に思うことは出来ないが、それでも今まで通り友人だと木箱に語りかけたウーヴェは、顎の下に回されている太い腕に手を重ね、溜息を吐いて背後の胸板に寄り掛かるように軽く力を抜くと、しっかりと支えられて安堵に目を閉じる。

 彼の願いを叶えられなかった以上、リオンと今までよりももっと互いを理解しあい、時には辛く悲しい出来事に打ちひしがれそうになりながらもそれでもこうして抱き合い、重ねた手を離さないようにすることを脳裏で白い歯を見せる友に誓い、顔を寄せてくるリオンの頬に手を宛うのだった。


 そんな二人を暖炉の上から大小様々な石と小さな木箱が静かに見守っているのだった。




Über das glückliche Leben.

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