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◇ ◇ ◇
定時で仕事を終えた愛理は、実家の玄関前に立ち、家の様子を窺う。
都内でも緑が残る地域にある愛理の実家は、会社からだと電車の乗り継ぎが悪く1時間半はかかる。
すっかり辺りは暗くなり、家には明かりが灯っていた。
久しぶりに実家へ帰って来たけれど、自分の価値を認めてくれない家族へ、これから離婚の話しをするかと思うと、気持ちが沈む。憂鬱な気持ちで玄関を開けた。
「ただいま」
「あら、愛理、珍しいじゃない。急にどうしたの?」
めったに寄り付かない愛理の訪問に母は、目を丸くしている。
「仕事で福岡に行ったからお土産持ってきたの。それと、話しもあって……」
「なんの話かしら、いい報告だといいんだけど」
そう言って、お土産を受け取り、いそいそと台所へ向かう母の背中に声をかけた。
「……お父さん居る?」
「テレビ見てるわよ」
リビングの扉の向こうから、テレビのアナウンサーが興奮しながら何かをまくし立てている音声が聞こえてきた。野球でも見ているのだろうか、ひいきのチームが勝っていれば、父の機嫌が良いのにと思いながら扉を開く。
「お父さん……久しぶり」
声をかけると父は、TVから愛理の方へと視線を移した。
「こんな夜にどうしたんだ。淳君は?」
「仕事で福岡に行ったからお土産を届けに、ひとりで来たの」
「仲良くやっているのか? お前は女なんだから出しゃばらずに、淳君を立てて行くんだぞ」
父は相変わらずの話をして、野球中継が気になるのかTVへ視線を戻した。
そのタイミングで母親がお茶を持ってリビングへ入ってくる。
愛理は、両手を握り込み、口を開いた。
「あの……ふたりに話があるんだけど……」
母は期待いっぱいの瞳を愛理へ向けている。
30歳手前の娘が話があると聞いて、きっと妊娠の報告を期待しているのだろう。そんな母に、真逆の話をするのは、なんだか、申し訳ないような気がした。
「私、淳と離婚しようと思っています。近日中に離婚の手続きに入る予定です」
決心が鈍らないうちに話を切り出すと、ふたりとも驚きの表情を浮かべている。そして、父が握った拳がわなわなと震えていた。そして、眉間にしわを寄せ愛理を睨みつけるようにして口を開いた。
「いったい、どうことなんだ!」
「淳との信頼関係が崩れたの。もう夫婦で居るのは無理だと思う」
「お前の我慢が足りないからそんな考えになるんだ。夫婦なんてものは、いいときばかりじゃない。淳君に我が儘を言ったらだめだ」
予想通りの父の反応に愛理は、耐えるようにギュッと手を握る。
「私は、精一杯の努力も我慢もしてきた。その挙句、私の友達と不倫して信頼を裏切ったのは淳なんだよ。これ以上我慢なんて出来ない」
その内容に父は額に浮かんだ汗を拭きながら取り繕うように話しだす。
「淳君だって、魔が差すこともあったのかもしれない。大目に見てあげたらどうだ?」
親なのに、不倫をされた娘を思いやるよりも、不倫をした娘婿を擁護する父の言葉に呆れ返る。愛理は目を閉じ、大きく息を吐き出した。
「お父さんが何を言っても、私は考えを変えるつもりはないの。これ以上、娘が不幸で居続けてもいいの? お父さんは、私が淳と離婚したら、自分の生活が苦しくなるのを心配しているんでしょう。私のことなんて、どうでもいいんでしょう」
思いのたけを父へぶつけた愛理に母が口を挟む。
「愛理、お父さんに向かって、そんな口の利き方をして!」
ここに来る前から何を言われるかわかっていた。子供の頃からそうだった。けれど、実家のことを気に掛けて、立ち回っていた自分の苦労は、何だったのだろうか。と愛理はやりきれない思いに囚われた。
──もう、親の顔色を窺い、愛されることを期待する年齢でもない。いまさら両親に何を言っても、彼らの考え方が変わるとは思えなかった。
それよりも、自分を大切にしていこうと決めたのだから、親の意見に振り回されるのは終わりにする。
愛理は、スッと顔を上げ両親を見据えた。
「お父さん、お母さん、何を言われようとも離婚の意思は変わりません。夫の不倫を黙認して耐えるような生き方はできません」
その言葉に父は視線を泳がせ、母は気まずそうに俯いた。愛理は気持ちを強く持って言葉を続ける。
「親不孝な娘とは、縁を切って下さっても結構です。私は、誰かに依存して生きて行くのは嫌なの。自分で自分を幸せにするって決めたんです」
「お前は、家がどうなってもいいのかっ!」
父の自分勝手な思いやりのない言葉に愛理は嘆息をもらした。
「中村の家には、仕事のことをお願いするつもりです。けれど、仕事である以上、職人として”この人に仕事を任せたい”と思わせる内容の仕事をしていれば、私が離婚しようがしまいが、取引は続くはずです。だから蜂谷工務店としてプライドを持って良い仕事をしてください」
「まったく、生意気な!」
憤慨する父、それをなだめるだけの母、子供の頃は、逆らうことも出来ずに従うしか術がなかった。けれど今は違う。親は親、自分は自分、それぞれが、別の幸せを求めても良いはずだ。
「お話は以上です。これで帰ります」
愛理は立ち上がりリビングから出て行く。父がまだ何かブツブツと文句を言っていたが振り返らず、玄関へと向かう。
リビングを出て、直ぐ先にある玄関で人影が動いた。それは、久しぶりに見る弟の陽介だった。
「姉ちゃん、車で送るよ」
シートが固く、けして座り心地が良いとは言えない軽トラックの助手だけど、乗用車と比べて視界が高く見晴らしがいい。
今まで逆らえなかった親に自分の考えをぶつけ、気分が高揚していたせいか、軽トラのシートに座ると、子供の頃に乗ったときのワクワク感を思い出した。
自分よりも3つ年下の陽介の運転、免許を取ってすぐの練習に付き合った時のことが脳裏に過ぎって、スリルもオマケについてくるかもしれない。などと考えてしまう。
そんな心配も杞憂なほど、車は滑らかに走り出した。よくよく考えれば、陽介は仕事で現場へ行くために毎日運転している。たまにしか運転しない愛理より、ずっと上手で運転に慣れていた。
「仕事で疲れているのにごめんね。駅まででいいよ。陽介も明日仕事なんでしょう」
「いいよ。電車だと乗り継ぎが悪いだろ。車なら高速使えば30分ぐらいだから」
「……昨日から、大森の方に居るんだ」
「家を出たんだ。中村さんと別れるの?」
「うん、もう、無理なんだ」
淳の口利きで、不動産リフォーム樹から実家の蜂谷工務店は仕事をもらっている。蜂谷工務店の跡取りの陽介にしてみれば、愛理の離婚話は、将来に不安が伴うだろう。
女だからという理由で大事にされなかった愛理、男だからという理由で過度な期待と責任をかけられた陽介。あの両親の元で育ったふたり、どちらが不幸で、どちらが幸せだなんて測れないのかもしれない。
「私の友達と不倫していたんだ……。何を言われても受け入れられない」
「そうか……。しょうがないよな。嫌になったのに無理して一緒に居るなんて辛いし、人生長いもんな」
陽介が理解を示してくれたことに安堵する。その一方で面倒事を押し付けるようで申し訳ないような気持ちになった。
「お父さんに言っているのが聞こえたでしょう。あんな風に言ったけど、中村の家には、この先も仕事の継続を頼んでおくから」
車は高速道路に乗り、街の明かりが流れていく。
「へんな心配させて悪い。父さんの古いやり方じゃダメだよな。俺も自力で頑張ろうと思って、ネットで集客とか考えているんだ。ホームページだけじゃなく、最近じゃ、家を建てる過程をタイムラプスで撮影して、My Tubeに上げてるんだ。それを見た人から問い合わせも来てて、手ごたえを感じている」
「がんばってるんだ」
「1か月で10万再生!」
「すごーい!」と思わず感嘆の声をあげる。
いつまでも子供の頃のイメージが付きまとい、頼りないと思っていた弟も自立した大人になっていた。
「ごめんね。私が親とケンカしちゃって、そのしわ寄せが陽介のところに行きそう」
「父さん、石頭だからな。昭和の負の遺産だよ。今まで姉ちゃんが全部被ってくれていたおかげで、自由にやらせてもらっていたから、少しぐらいなら大丈夫」
「無理して抱えることないんだよ。陽介も自分のための幸せを考えてね」
「なにクサイこと言ってんだ。俺もいつまでも子供じゃないんだから、家のことも何とかやっていくよ。姉ちゃんこそ無理して抱えることないんだ」
「うん」
そう言って、愛理は景色を見るふりをして窓の外へ視線を送る。そうしないと、泣いてしまいそうだったから。
翔のマンションの前で陽介の車から降り、頼もしくなった弟が運転する軽トラのテールランプを見送った。
部屋のドアを開けて、スイッチを押すとパッと部屋が明るくなる。
「ただいま」
落ち着いた色合いの翔の部屋。誰も居ない空間に、自分の声が溶けていく。
寂しさと安心が同居しているような不思議な感覚を覚えながら、愛理は荷物を下ろしソファーに身を預けた。
大きな山をひとつ越えてもまだ、やらなければならないことが、たくさんある。離婚というのは、結婚する以上に消耗するんだと、疲労感でソファーの背凭れに寄りかかり、天井を仰ぐ。
この部屋も翔の好意で使わせてもらっている。優しさに甘えるばかりで、なにも返せないのが心苦しい。
そんなことを考えていたせいか、スマホがLIMEの着信を告げる。
タップすると翔からのメッセージだ。
『大丈夫? 迎えに行こうか?』
実家に行くことを知っている翔が心配しているのが伝わって来る。
メッセージを打ち込むのがもどかしくなって、そのまま通話ボタンをタップする。コール音が聞こえて2回目の途中でビデオ通話が繋がった。
スマホの画面に翔の顔が映っている。反対に自分の顔が翔のスマホの画面にどんな風に映っているのか気になって、気恥ずかしさを隠すように前髪をいじってしまう。
『愛理さん、いまどこに居るの?』
「翔くんの部屋に帰って来たところ。実家からは弟に車で送ってもらったから大丈夫だよ」
愛理は、実家で父と母に離婚の意思を伝えたこと、帰りの車で弟も頑張っているのを知ったこと、そして、自分がひとりじゃないと改めて思ったことを言葉を紡ぐようにして、翔に伝える。
「翔くんが、助けてくれたおかげで一歩進めたような気がする」
『愛理さんの後押しが出来たなら良かった。そう言ってもらえて嬉しいよ』
手の中にある小さな画面の中で、柔らかく微笑む翔がいた。
「おやすみなさい」と通話が切れた後もスマホの暗くなった画面を見つめてしまった。
夫の弟の翔と出会ったのは、独身時代に淳に連れられて、家へ遊びに行ったときに会ったのが最初だ。まだ、実家住まいだった翔、家族みんなと食卓を囲んだり、結婚式で使うプチギフトを選ぶときにも、淳を中心に3人で一緒にカタログを眺めたりと、本当の家族として接してきた。3人で出かけることがあっても翔とふたりきり外で会うことなどなかった。
──ずっと好きだったと告白された。
いつから自分のことを想ってくれていたのだろう。
優しくて気遣いのできる義理の弟のラインを飛び越して、一気に近い存在になった。
だからといって、恋愛感情にいきなり切り替わるわけでもない。それなのに頼ってばかりで、翔の気持ちを利用しているようにも感じてしまう。
──この先、好きになったとしたら……。
いや、その前に許されるのだろうか、夫の弟を好きになることを。
淳と離婚するのは、翔が原因でないけれど、世間的に見れば、兄から弟へ乗り換えたようにしか見えないだろう。
それに淳との関係も切れないものになってしまう。中村のご両親も良い気持ちはしないはずだ。
──でも、翔が居なかったら……。
自分ひとりでは、淳の元から離れるのも難しかったかもしれない。
翔の香りが残る部屋で、いろいろ考えてしまう。ふと、窓の外を見ると夜空に居待月が浮かんでいる。
福岡で見たときより少し欠けていて、薄く温かな雲のベールを羽織っているような月の姿。
それは北川を思い起こさせた。
まだ、離れてから日にちが経っていないのに、あまりにも多くのことが起こりすぎて、ずいぶん前の出来事にも感じる。
僅かに交差しただけのふたりだったけれど、あれは確かに恋だったと思う。
月を見るたびに、もう会うこともない人を恋しく想ってしまうのだろうか。
自分の気持ちはどこに向かうのだろう。