木曜日、ターミナル駅前は多くの人たちが行き交っていた。
その雑踏を抜けて、待ち合わせ場所の小料理屋に入った愛理は、メニューとおしぼりを受け取り、焼き物を注文したところで、スマホがメールを着信して低い振動音を立てる。
メッセージアプリを立ち上げると、淳からの謝罪のメッセージが入っていた。
悪かったとか、反省しているとか、あれから毎日届くメッセージ。
いまさら何を言われても、信頼関係が崩れてしまったのに、もう一度夫婦に戻れるとは思えない。
返信もしないで、そのまま画面を閉じ、ひとつため息をつく。
「ごめん、待った? 私、いつも遅刻しちゃうね。ホント、ごめん」
明るい声を掛けられて顔を上げると、相変わらず綺麗にしている由香里が向かいの席に座った。
「ううん、私も今来たところ。焼き物だけ時間がかかるから先に注文しちゃった」
ふたりでメニューを覗き込む。結局、お店のオススメの「夢一献」という日本酒とそれに合う料理を何品か注文した。
もっきりスタイルで、|枡《ます》の中にグラスが入っている。海の色のような青いグラスは、由香里の前に置かれ、満月を思わせるような|梔子《くちなし》色のグラスは愛理の前に置かれた。そこにメインのお酒、夢一献が注がれる。
「わー、すごーい」「キレイ」「香りがいい」と褒めたたえていると、気を良くした店員さんが表面張力の限界を越して、グラスから枡にあふれるほどお酒を注いでくれた。
「福岡のお酒で、夢つくしというお米を使っているんですよ」と店員さんが教えてくれる。
愛理はそっと、満月のような色合いのグラスを持ち上げ、口をつける。柔らかな味わいで、ふくよかな香りが鼻に抜けていく。
福岡というワードで、あの夜を過ごしたきっかけは、由香里が愛理のスマホに入れたマッチングアプリだった。と思い出してしまい胸の奥が切なく痛む。
そんな愛理の様子に気付かない由香里が明るい笑顔を向けた。
「美味しい! 調子に乗って飲んだら、痛い目に合いそうね」
愛理は、胸のうちを隠して「気を付けなくちゃ」と調子を合わせた。
由香里が不意に思い出したように、こそっと訊ねた。
「愛理は、あのアプリ使った?」
由香里に好奇心旺盛な瞳を向けられて、ちょうど、北川のことを思い出していたタイミングの質問に、ドキドキと心臓が脈動する。
あのアプリを使ったと言ったらどうなるんだろう。
何らかの形で、由香里の口から美穂に、美穂から淳へ、伝わるかも知れない。実家のことを含め離婚の際に不利に働くのは、間違いないだろう。
美穂に裏切られたと言って、由香里まで疑うのは良くないとわかっているけれど、ここで判断を誤れば後悔を引きずることになる。
「あのアプリ消しちゃったの。ごめんね。後腐れなく遊ぶとか器用じゃないからムリだと思う」
嘘ではなく、本当のことも言わない。自分でもズルいと思うけど、間違えられない。
「そっか、まあ、あのアプリ、愛理には向かないかもね。でも、淳君とはどうするの? 淳君、不倫してるんでしょ」
「淳とは別れようと思って、実家にも行って離婚したいと伝えたんだ。我が儘だって怒られちゃったけどね」
由香里は驚いたように大きく目を見開いた。
「淳君が不倫しているって、言ったんでしょう?」
「うん、ちゃんと言ったよ。でも、淳の家から仕事をもらっているから……。私が我が儘なんだって」
「ひっどーい! そんな親捨ててもいいんじゃない? 毒親だよ」
「出来るならそうしたいけど、それをしちゃうと弟に負担がかかっちゃうでしょ。自分だけってわけにもいかなくって難しいよね」
そう言って、グラスに入った日本酒に口をつけた。すると由香里が悲しそうに眉尻を下げる。
「ああっ、なんて健気でいい子なの。私が男だったらぜったい結婚する。今生は仕方ないから、おばあちゃんになって、お互いがひとりだったら一緒に暮しましょ」
「由香里にプロポーズされちゃった」
アハハと笑っていたけれど、こんなに良くしてくれる友人を疑い、本当のことも言えない自分を情けなく思ってしまう。
「不倫相手の手がかり見つけたの?」
それを訊ねられるとどこまで話していいのか、愛理は返事に困る。さっきと同じように少しの本当を話す事にした。
「うん、淳のスマホに残されていたLIMEの履歴をスクショしてあるけど、相手まではわからないんだ」
「そうなんだ。相手がわかったら慰謝料ガッツリ請求してやりなさい」
「今度、弁護士さんのところに相談に行くから、いろいろ教えてもらってみるね」
不倫相手が美穂だったことは、今は由香里には言えない。
決定的な証拠は掴んでいるけれど、説得力を持たせるのには、細かい出来事も集めておきたい。由香里が愛理の味方をして美穂へ怒りをぶつけたり、逆に美穂の心配をして相談に乗るような真似をしたり、こちらの動きが伝わると、せっかく掴んだ不倫の証拠の更新はおろか今までの物も削除されてしまうかもしれないからだ。
「はぁー、そう言えば、淳君ね。今だから言うけど、大学のときも陰で遊んでいたんだよね。深夜クラブで見たことあったんだ。でも、愛理が淳君と幸せそうにしていたから言えなくて……。ちゃんと言っておけば良かった。ごめんね、愛理」
「由香里のせいじゃないよ。私も若くて見る目が無かったんだと思うよ」
「でもさ、男の人って、真面目な人よりチョット遊んでいる人の方が、女の扱いも上手いし、魅力的に見えるよね」
「確かに、そう思う」
「遊んでいる人って、デートでチョイスする店も気が利いているのよね。エスコートも手慣れているし、慣れていない人だと相手に合うお店より、自分の好きなお店だったりして、当たりハズレも多いのよね」
結婚する気がなく自由な恋愛をしている由香里は、男性経験も豊富だ。
「淳は付き合っていた頃はマメだったけど、結婚したら全然で……。私も学生の頃に適度に遊んで男を見る目を養っておけば良かったのかな。そうしたら、こんな結果にならなかったかも……。今からでも遊んで、男性を見る目養おうかな?」
冗談めかしで言った愛理の言葉に由香里はプッと吹き出し、手をひらひらさせる。
「ムリムリ、あのアプリで日和っているんじゃ、適度に遊ぶとかムリ。淳君で痛い目見たんだし、男を見る目は付いたでしょ! そのうち愛理に合う人が現れるから大丈夫だって。愛理には誠実で包容力がある人が似あっているよ」
誠実で包容力がある人と聞いて、愛理は義弟である翔を思い浮かべてしまう。彼の将来を思えば、義姉であった自分が好きになったらいけない人のような気がしているのに……。
由香里は、まだ笑いが収まらない様子で、お腹を抱えながら目じりに浮かんだ涙を指で拭い、半笑いで話しだした。
「それにおばあちゃんになったら私と暮らすんでしょう⁉」
「そうだ、さっき由香里にプロポーズされたんだ。老後の心配がなくなって心置きなく離婚できるね」
離婚が成立して、今まで起こったことを由香里に話したら、水くさいと笑ってくれるのだろうか。つい、そんなことを考えてしまう。
「そうだ、今度、美穂の婚約パーティーがあるじゃない」
「う、うん」
「婚約だからご祝儀いらないって話だけど、プレゼント用意しようかと思って、ひとりで送るより友人一同の方がいいかなって」
「いいと思うよ」
「佐久良も誘っていいよね。招待状もらったとき、一緒に居たでしょ。声だけかけて、お金は後で徴収すればいいし、連名でかまわないよね」
「うん」
裏切り者の美穂へ婚約祝いのプレゼントを用意する。
普段の自分ならもっと取り乱していたかもしれない。
でも、今は、すごく冷静だ。
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