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Side 野々宮果歩
|あの女《美緒》の背中を押した後、私は何事もなかったように、車を飛ばし家へ帰った。
「誰にも見られていないはず……」
そう自分に言い聞かせ、部屋に入る。ソファーの上に寝ころび、目をつぶると言い様のない不安感に襲われる。
衝動的だったとはいえ、さすがにやりすぎだった。
「……階段から落ちたぐらいじゃ、死んでないよね」
大学の頃から|あの女《美緒》が目障りだった。
あの頃、健治のことを好きなのは、|あの女《美緒》の視線で気づいていた。
健治の横に似合うのは、わたしなのに、身の程知らずな嫌な女だと思っていた。
まあ、だからといって、告白する勇気もなかったみたいで、そのまま卒業を迎えたはずだった。
それが、まさか、卒業後に健治と出会い結婚したなんて、予想もしていなかった。
わたしは家を継ぐために、|医者の成明《好きでも無い人》と結婚したのに、|あの女《美緒》が、健治と結婚をしたのには、納得できなかった。
「だから、しょうがないわよね、少しぐらい痛いめをみたって……」
スマホを見つめながら、唇を歪ませて微笑んだ。
すると、スマホを持つ指先が目に入る。
ネイルが施された付け爪が、一つ剥がれてなくなっていた。
「あー、ネイル予約しなくちゃ」
ネットでネイルサロンを予約した後、何気なくFacenoteを開いた。
結婚してから疎遠になっていた大学時代の友人たちの近況を知る事が出来る便利なツールだ。
みんな、仕事や子育てで充実している様子がスマホの画面に映し出される。
「ふーん、なんだかイマイチ面白くないわね」
そこで、ふっと思いつく、|あの女《美緒》のアカウントを見てやろうと……。
同じ大学だから、探し出すのは容易だった。検索を掛けたらすぐに見つかったのだ。
だが、大学時代にちょっとだけ投稿して、それ以来何も更新がなかった。
「なんだ、つまらないの」
すると、玄関の開く音がした。
「あら?成明が帰って来たのかしら?」
普段から病院にばかり居て、このマンションに帰って来ない日も多い。それに、帰って来ても大抵は夜の遅い時間だ。
それなのに、まだ時計は午後8時を過ぎたばかり、こんな時間に帰ってくるなんて……。
|あの女《美緒》を突き落とした事が、成明にバレたのかも。
そう思った途端に心臓の鼓動が走り出す。
夫でありながら、わたしに冷たい成明から何を言われるか、気が気じゃなかった。
リビングのドアが開くと、わたしの鼓動はいっそう早くなった。
けれど、何でもない振りをする。
「おかえりなさい。早かったのね」
「ああ、たまには早い日もあるんだ。それに今日は頼みもあって」
成明からわたしに頼みだなんて、まったく珍しいことがあるのだと思った。
腕を組み成明を見上げたわたしは、警戒を解かなかった。
「あら、珍しい。あなたがわたしに頼みだなんて」
「いや、広報から夫婦で撮ったスナップ写真が必要だと言われてね」
「写真?」
てっきり今日、|あの女《美緒》を突き落とした事を、詰問されるんじゃないのかと思って構えていただけに、肩の力が抜ける。
だから、写真ぐらいならと、二つ返事でOKした。
「いいわよ。写真ぐらい」
「そう?助かるよ。夫婦で緑原総合病院で働いているからって、広報に載せると急に言われてね。じゃ撮るよ」
そう言って、成明はわたしにスマホを向けシャッターを切った。
思いがけずにフラッシュの眩しさに反射的に手をかざした。
「キャッ」
「あ、ごめん。写真を撮るなんて、あまりないから、間違えてフラッシュがついてしまったみたいだ」
「まあ、……それぐらいいいけど、夫婦の写真が必要なんでしょう?」
「ああ、夫婦のも撮らないといけないが、妻の写真が1枚もないのも不自然だと思って」
「じゃあ、撮ってもいいわよ」
|あの女《美緒》の話題が出なかったし、成明のわたしへの態度が結婚した頃のように柔らかったから、わたしはすっかり油断していた。
すでにこの時、成明の術中にハマっていたとは、気付いていなかった。
成明と写真を撮るなんて、結婚式以来のことだ。
最初は、優しかった成明も、子供の堕胎手術をしたのがバレてからは、わたしとは、必要最低限の会話しかしなくなっていた。
もう、何年も前の事なのに、いつまで根に持っているか……。
いいかかげん機嫌を直してくれてもいいと思う。
緑原総合病院の医院長、野々宮重則の一人娘である、わたしは、もっと大切にされても、いい存在なのだから。
そんなことを考えていると、数枚の写真が撮り終わり、今度は、ふたりの写真を撮るために、成明はスマホのタイマーをセットしようと四苦八苦している。
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本当に医者である事以外にどんくさいんだから……。
仕方ないので、声を掛けた。
「どうしたの?」
「いや、慣れていないから、ゴメン」
「モタモタして、しょうがないわね。わたしがセットするわよ」
そう言って成明へ手を伸ばした。
すると、わたしの手首を成明が捕まえる。
突然の出来事に思わず声をあげた。
「なに⁉」
「つけ爪が剥がれている」
成明の声は低く、さっきまでの柔らかな雰囲気は失せていた。
「どこで剥がれたか、言えるか?」
その問いかけに、わたしは答える事なんて出来るはずも無かった。
「どこでなんて、わからないわよ。気が付いたら剥がれていたんだから。何よ、そんなの事どうだっていいじゃない!離してよ!!」
キッと成明を睨みつけた。けれど、成明も鋭い視線をわたしに向ける。
きっと、一瞬の出来事だったはず。けれど、その僅かな時間がひどく長く感じられた。
そして、成明の低い声が聞こえて来る。
「今日、患者さんのお見舞いに来ていた女性が、階段で何者かに突き落とされたんだ」
まさかここで追及されるとは……。
油断をしていたタイミングでの出来事に動揺してしまい、思わず視線を泳がせてしまった。
「そ、そんなの知らないわ」
その上、やっと出した声は上擦っている。
これじゃ、自分が犯人だと言っているようなものだ。
「そうか……。その現場に、つけ爪が剥がれて落ちていたんだ」
「それが、わたしのだとでも言いたいの?わたしの事を犯人扱いするつもり!?わたしを、誰だと思っているの?」
精一杯の威嚇を見せたが、成明は呆れたように大きなため息を吐き、つかんでいた腕を離した。
「誰だと思っているって? 緑原総合病院のお嬢様だよ。もうすぐ30にもなるというのに、いつまでも親の威光を振り回している困った大人だ。肩書は俺の妻でもあるが、それは、君も望んでなったものじゃない」
成明の言葉には、嘲笑が混ざっていた。
バカにされたと感じた私は、叫ぶように言い返していた。
「そうよ。別にあなたと結婚したくて、結婚したわけじゃないわ。お父様に言われたから仕方なくしただけよ!あなただって、緑原総合病院を継ぎたいからわたしと結婚したんでしょ。そんなのわかっているクセに!」
「俺は、べつに緑原総合病院を継ぎたいわけじゃない。お前の父親……医院長に親が借金をしていた関係で断れなかっただけだ」
静かに怒りをぶつけられ、わたしはどうしていのか、わからなくなっていた。
こんな成明を私は今まで知らない。
成明は、スマホを背広の内ポケットに仕舞い、代わりに白い封筒を取り出した。
「現場に落ちていたつけ爪は、俺が預かっている。今、君の指先にあるのと同じ柄のつけ爪だ。これが意味する事が何なのか、誰だってわかるはずだ」
優しい顔をして写真を撮ったのは、証拠を残すためだったのだ。
成明の思惑を知って、わたしは驚きのあまり、何も言えずにいた。
そんなわたしに向って、成明は言葉を続ける。
「階段から突き落とされた女性は、全治3か月の重傷だ。君は自分の子供を殺しただけじゃなく、他の人まで手に掛けようとするなんて……。どんな理由があろうとも、許されることじゃない」
成明の声は低く響いた。
そして、ゆっくりとわたしの耳から心へと沈み。
ついには胸の奥が石でも飲み込んだように重くなる。
成明はわたしを許さないと言っているのだ。
「まさか、警察に言うつもり?もしも、わたしが逮捕されたら緑原総合病院の看板に傷がつくのよ。それに成明、あなただってタダじゃ済まないわよ。あなたはわたしの夫なんですからね」
「君の夫で居るつもりは無い。果歩……君にはもう付き合いきれないよ。離婚してくれ」
目の前に置かれた白い封筒の中身。
それは、離婚届だ。
「ホント、嫌な人……。わたしの事を見捨てるなんて、わたしの夫でありながら、わたしを助けてくれないのね」
「それは、君がこれまでして来た行いの結果だ」
そう言って、成明はわたしに背を向けた。
ひとり部屋に残されたわたしは、ソファーに凭れ、窓の外を眺めていた。
眼下には、星屑のような街の明かりが揺らめき、空には、細く切れそうな月が浮かんでいる。黒い曇が流れ、その月を隠した。
ちっともわたしに優しくしてくれない、|あんな男《成明》なんて好きじゃない。
それなのに、テーブルの上に置かれた離婚届に名前を書き入れる気持ちにはなれなかった。
「離婚とか、成明から言い出すなんて、ありえない。緑原総合病院を継げる地位に居るのに、それを投げ出してまで、わたしとの離婚を望んでいるなんて、バカじゃないの?」
と、悪態をつく。
成明と離婚したら、父になんて言われるのだろうか……。
それも、考えたくもなかった。
「はぁー、めんどくさい」
すると、スマホがブーブーと振動している。
画面には「健治」の名前が表示された。
普段のわたしなら、直ぐに電話を取り、会う算段をつけるだろうが、今はそんな気にもならない。
ただ、ぼんやりと振動を伝えるスマホを眺めているだけだった。
成明に離婚と言われて、少なからず、ショックを受けている自分に、またショックを受けていた。
「う、まぶしいわね……」
気が付けば、ソファーの上で窓から降り注ぐ日の光を浴びている。
昨晩、ワインを開けて、そのまま眠ってしまったのだ。
二日酔いなのか、ツキンとこめかみに痛みが走る。
「痛っ、いったい何時なのかしら?」
部屋の壁にある時計の時刻は、もうすぐ昼を知らせている。
のろのろと起き上がり、スマホを片手にキッチンにはいった。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出し、直接口を付ける。
冷たい水をゴクゴクと嚥下しているうちに、思考が動きだす。
昨日の成明の言動を思い起こしては、腹が立ってくる。
夫でありながら、成明は何ひとつ思い通りにならないだから。
「はぁー、まったくやんなっちゃうわ」
憂鬱な気分でスマホを開いた。すると、思わず口角が上がる。
健治からのメッセージが残っていたのだ。
「連絡をくれ」と。
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