テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
壊れていてもいいんじゃない
大きな窓から差し込む秋の陽を頬に受けている。よく晴れたこんな穏やかな秋の日のことを表す言葉に秋あき麗うららという可愛らしい表現があることを小塚結は最近知った。そんな麗らかな空を見上げている間は、耳が閉じてしまっているかのように、人の声も足音も流れる音楽も聞こえない。訪れた静寂。
それでよかったのに耳はまた周囲の音を拾い集める。
ホテルのカフェに結はいた。座っている椅子の背もたれのクッションは心地良く、テーブルの木目も温かみがあって気に入っていた。テーブルの下で握るスマートフォンがバイブして、「了解しました」という短いメッセージが届くと結は微かに口角をあげた。
「仕事?」
向かいに座っている本田博文の声に結は顔をあげて、秋の陽を受けてほのかに火照った頬に綺麗な微笑みを浮かべた。
博文とは数か月前に婚約したばかりだった。カフェでコーヒーが運ばれてくるのを婚約者と待つ、穏やかな昼下がり。忙しい合間のほんのひと時のやすらぎ。
「そうだ、先週のことなんだけどさ」
博文が大学時代の友人とゴルフに行ったのだと話し出した。十八番までコースを回り、結果は散々でその上に翌日から襲ってきた筋肉痛に相当つらい思いをしたのだと、とても楽しそうに話す。
「筋肉痛はつらいけど、やっぱり楽しいんだよなゴルフ。だからさ結婚してからも時々友人と行きたいんだけどいいかな?」
「ええ、もちろん」
「なあ今度結も一緒に行こう」
「いいえ、私は運動苦手だから」
「そんな難しいもんじゃないよ、よし、まず打ちっ放しに行ってみよう」
心はここにはなくとも、結の顔は笑っていた。穏やかな昼下がり。忙しい合間のほんのひと時のやすらぎ。なんてこれっほちも思っていなかった。
博文とはお互いの父親の勧めで知り合った。父親同士もゴルフ仲間で博文の父親は大手銀行の頭取で、博文も銀行に勤めている。
「息子ももう三十五だ。結さんももうすぐ三十でしょう。いい頃合いだ」
明らかに人を見下して笑う博文の父親の顔は、博文とよく似ている。結の人生は父親の貴一が決めた道を進むだけだ。実際にいい大学を出たし、言われたとおりに貴一の跡を継いでコズカグランドホテルの代表になった。他に選択肢はない。結の気持ちなど聞かれることもない。貴一が気に入った人を受け入れるのみ。顔の好みも趣味が合うも合わないも関係ない。結の人生はそういうものだ。
「素敵なブローチだね」
博文が結のブラウスの襟元を指差して言った。結のことにも少しは興味を持ってくれているのだろうかと驚きながら、襟元の四つ葉のクロバーのブローチに触れた。
「北一硝子というガラス工房で作られたもので、恩師から頂いた物なんです」
結の脳裏に恩師の顔が浮かんだ。彼女は小学校の図書室の司書だった。彼女との出会いが結と本との出会いであり、間違いなく結の人生を豊かにしてくれた。
校庭で遊ぶ児童の賑やかな声が聞こえてきても、そこに混じりたいとは思わず、放課後は毎日のように図書室で過ごす小学生だった。陽の当たる窓際で指先に触れる紙の感触と匂い、図書室の静けさが結は好きだった。恩師は結に良い本を何冊も勧めてくれた。勧められた本を一晩で読んで恩師を驚かせたり、恩師と本の話をするのが楽しかった。
それなりに学生時代は友人と過ごしてきたが、卒業しても続く友人はいなかった。けれど恩師とは違った。結が小学校を卒業した年に恩師も結婚をして遠くの街へ行ってしまったが、今でも手紙や年賀状のやり取りは続いていて、このブローチも就職祝いにと贈られたものだった。
「私たちの結婚式に恩師を…」
「そんなことよりさ」
そんなこと…? 結は微かに眉を寄せる。
私の話は面白くないってこと?
157
352
話の途中から退屈そうに頬杖をついた博文に腹が立ったが、結はずっと堪えていた。
「結婚式に何人くらい友人を呼ぶ予定? 僕の方ちょっと多くなりそうなんだ」
「またリストアップしておきます」
結の口調が不機嫌になったことにも、博文は気づいていないだろう。ふと視線をあげたとき、二人のテーブルに近づいて来る白髪の紳士の姿に結はほっと息をついた。
「失礼致します」
紳士は丁寧に頭を下げて、小声で言った。
「代表、会議が始まりますので。そろそろ」
「今行きます」
紳士に頷き、結は博文に向き合うと申し訳なさそうな顔をして言った。
「ごめんなさい。もう行かなくちゃ」
「こんな大きなホテルの代表なんだもんな。忙しいよな。うん、また連絡するよ」
博文に軽く手を振って、結はカフェを出て行った。カフェを出たところで、思わず大きく息を吐いた。
「助けに来て。なんてメールをこんなじじいに寄越さないでくださいよ。何事かと寿命が縮む思いがしましたよ」
結の隣を歩く白髪の紳士は、結の秘書で工藤という。
「助かりました。ありがとうございました」
並んで立つ二人のシルエットが、銀色のエレベーターの扉に映る。結は振り返り、ロビーを行き交うコヅカグランドホテルを利用してくださる人々を眺めた。大学を出て、貴一の跡を継いでホテルの代表になり日々に追われ、気づけば七年経っていた。カフェの椅子も、温かい木目のテーブルも、コーヒーも味も悪くないと最近はホテルに愛着を感じ始めていた。
エレベーターの扉が開くのを待つ間、隣に並ぶ工藤が言った。
「代表はあの方と婚約されているのですよ。お忘れではないですよね?」
「ええ、わかっていますよ」
待っていたエレベーターの扉が開く。二人は乗り込み工藤が十二階のボタンを押す。
「婚約したということは、あの方とこの先の人生を共にするということですよ」
「ねえ一つ聞いてもいい?」
「なんでもどうぞ。喜んでお答えしますよ」
「結婚って、そんなにいいものなの?」
細めの工藤の目が大きくなった。
「正直したくないのよね、あの人との結婚」
博文にときめかない。一緒にいても楽しいと思ったことはこの数か月で一度もない。そんな相手と結婚しても、幸せになれるとは思えなかった。
「そんなこと言うと会長に叱られますよ」
眉をひそめて工藤が言う。
「仕事していた方がいいわ」
静かに結が言い返した。
「じゃあ仕事をしましょう」
十二階に着いたエレベーターの扉が開くと、工藤を見て結が微笑んだ。
「午後はコンクールの審査でしたね」
「今年も力作揃いですよ」
楽しみと結は心から笑った。
今年でちょうど三十回目を迎える絵画コンクールの審査には、ホテルの代表である結、会長である貴一はもちろんその道のプロにも参加してもらい、グランプリに選ばれたアーティストの今後の活動を全面的に支援している。若い頃から美術や芸能が好きだった貴一が、才能のある若いアーティストが世界に向けて飛躍できるように、支援したいという思いから始めたコンクールだと聞いている。
コンクールの応募規定は特になく、テーマもなくプロもアマも問わず、キャンバスでもいいし八つ切り画用紙でもいい。自由な発想で、自由に描いてほしい。それが貴一の願いであり、代表を継いだときに結もコンクールの責任も一緒にその願いを受け継いだ。
ホテルの十二階は展望レストランになっている。昼はバイキング形式でランチが楽しめ、夜は落ち着いた雰囲気で夜景を見ながらフルコースが味わえるようになっている。ホテルの中には他にもレストランやバーがあるが、ここが一番広いレストランであり、このレストランの鈴村シェフの腕がホテルで一番だと結は思う。仕事ばかりしてほとんど料理などしない結は、毎日のように鈴村シェフの料理にお世話になっている。
レストランの一部を展示会場としているのは、このホテルに宿泊されたお客様やレストランで食事をされたお客様にも絵画を見てもらい、広くこのコンクールを知ってもらって、お客様にも気に入った作品に投票してもらえるようにという貴一の思いがあった。
審査会場に結と工藤が入って行くと、鈴村シェフがその姿に気づき会釈をしてくれた。鈴村はレストランの中央に置かれたテーブルで、ランチで一番人気のあるローストビーフを切り分けていた。
工藤の言うとおり今年も力作が多く集っている。設置されたパネルに飾られた作品を結は一つずつ順番に見て回った。
「これ水彩画かしら?」
「クレヨンかしら?」
「色鉛筆かもしれないわね」
一枚の絵画の前にできた人だかりの中から声が聞こえてきた。その絵画の前で足を止めた瞬間、結は心を奪われたようにしばらく動けず、言葉も出せずに絵画に見惚れていた。
プロの画家が使うようなキャンバスではなく、ごく普通の画用紙に描かれていた。
木々の緑、空の青、画用紙の右側には赤い太陽、左側には黄色い三日月。太陽と三日月の下には、大人も子供もいる。彼らの肌の色は様々だ。黒色もある。緑色もあれば紫色もある。彼らはお互いに手を繋ぎその手は人から木に、木から太陽に、太陽から三日月に虹がかかるように描かれ世界は一つだといっているかのようだ。何色もの色が使われているが、すべてが緻密に混ざり合いけれど強く主張する色はなく、全体に温かい色遣いに見ているこちらを温かい気持ちにさせてくれる優しい絵画だった。
「素敵な絵だわ」
「これは素晴らしい」
工藤も感嘆の溜め息をもらしながら言う。
「この絵を描いた人のことわかりますか?」
結が聞くと、工藤は手に持っていたタブレットを開いた。絵の下につけられているQRコードにタブレットのカメラをかざすと、作者の応募用紙が出るようになっている。
「名前は日下部くさかべ暖人はるとさん。三十代の男性です。どうやらプロの画家ではなく、アマチュアの方に丸が付けられています」
応募用紙の余白に、※父代筆と書かれた文字に気づいて、工藤はもう一度日下部暖人の年齢を確認した。どうしてこんなことが書かれているのかと思ったが、このときは結に報告せずに過ぎてしまった。
「そう…、プロじゃないの」
この絵画を見ていると言葉なんかいらない。ただじんわりと温かい気持ちになれた。
その日の午後をコンクールの審査に使い、他の審査員たちの意見を聞き、すべての投票を集計して、グランプリが決まるのは数日後になる予定だった。
コメント
1件
最新話読了!第1話にしてすでに結の置かれた状況がじわじわと重くのしかかってくる感じがすごく伝わってきたよ。婚約者・博文との会話の温度差、あの「そんなことよりさ」の一言で全部台無しになる感じ、めっちゃわかるわ…。工藤さんとのやり取りも絶妙で、ホテルと絵画コンクールに本気で向き合う結の姿がかっこよかった。最後の絵の描写、温かくてほんとに素敵だったな。この絵の作者・日下部暖人さん、どんな人なのか気になる!次話も楽しみにしてる🔥