眠れないまま、夜が明けてしまった。
カーテン越しに差し込む淡い朝の光が、やけにまぶしく感じる。
今日は、どうしても仕事へ行く気になれない。
昨日の出来事が、何度も何度も脳裏に浮かんでは、胸を締めつけてくる。
あなたに、私は何をしてあげられるだろう?
あの深い悲しみを、ほんの少しでも癒すことができるのだろうか。
その傷は、きっと想像を絶するほどに深くて広くて。
あなたの“笑顔”だけじゃない。
きっと“涙”すら奪ってしまったのかもしれない。
辛くても、悲しくても、どんなに泣きたくなっても。
あなたは決して涙を流さない。
あの夜のように――。
凍える冬が終われば、やがて暖かい春が訪れるように。
あなたの心にも、いつか春がやってくるのだろうか。
もしも、そう願ってくれる人がいれば。
もしも、その春を一緒に迎えたいと願う誰かがいれば。
それが私であっても、いいですか?
自分でも驚くほどに、心が揺れている。
でも、揺らぐことのないものが、確かに胸の奥にある。
それは――
あなたを想う、この気持ち。
行く気にはなれなかった。
けれど、それでも何とか店に出勤し、今日の営業を終えることができた。
疲れが身体の芯に残っている。けれどそれ以上に、心が重い。
今日はもう夜の練習はやめよう。
まっすぐ帰ろう――。
そう思って荷物を取りに休憩室へ向かうと、煙の匂いが鼻をかすめた。
ドアを開けた先にいたのは、タバコをくゆらせているジュンの姿だった。
「ジュンさんは……知ってるんですよね?」
聞くつもりなんて、なかった。
でも、なぜだろう――。
口が自然と動いていた。
「何を?」
「アヤカちゃんのことです」
「……聞いたのか」
「どうしてケン君だけが、あんな酷い目に遭わなきゃいけないんですか……。悪いことなんて何もしてないのに……。ずっと、自分を責め続けて……追い込んで……」
朝から必死にこらえてきた感情が、一気に溢れ出してくる。
止められなかった。
ジュンは、ゆっくりと煙を吐き出した。
「あいつは、自分を守る言葉を知らないんだ。罪悪感を抱え、自責の念に駆られ、それを背負い続けることでしか、自分の存在を許せない。自分を責めることで、どうにか心の均衡を保っているんだよ」
「でも、救ったと思うんです。たとえ……アヤカちゃんが、死を選んでしまったとしても……」
「……俺も、そう思うよ」
ジュンの声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。
「でもな……俺は、あの時のケンを知ってる。きっと他に、どうしていいのか分からなかったんだと思う。自分で作り出してしまった、目の前の“現実”ってやつに――」
その言葉に、チカの涙は止めどなく頬をつたう。
どうすることもできず、ただ指先で拭うしかなかった。
「ケンにとって、これは“悪くない”なんて一言で済むような話じゃない。誰かがそう言えば言うほど、逆に苦しみが深くなる。言葉ってのは時に、思いやりの形をして、ナイフにもなるんだ」
あの夜、チカが言った“ケン君は悪くない”という言葉――
たしかに本心だった。けれど、それはあまりにも軽すぎたのかもしれない。
自分の言葉が、誰かの傷を広げてしまうこともある。
あの時は、他に何を言えばよかったのかも分からなかった。
ジュンは静かにタバコを灰皿に押しつけながら、ぽつりと呟いた。
「あいつは今でも、覚めることのない悪夢の中で生きてる。ようやく、その底から這い上がろうとした時――その出口を、硬くて重い蓋で塞いだ女がいたんだよ」
* * * * * *
3年前――。
あいつには、ユイという恋人がいた。
アヤカのことがあってから、二人の関係は少しずつ、けれど確実に崩れ始めた。
あの頃のケンは、まるで氷のように心を閉ざし、感情のすべてを凍りつかせていた。
それでもなお、彼が唯一、心の隙間を見せようとしていたのが、ユイだった。
きっと、アヤカの名前を口にすることすら、彼にとっては苦痛だったはずだ。
それでも、どうにか心の拠り所を求めるようにして、アヤカのことをユイに打ち明けた。
その時、返ってきた言葉――。
「その子を自殺に追い込んだのは、ケン……あなたよ。その子の両親からしたら、あなたは――人殺し」
その一言で、ケンは居場所を失った。
音を立てるように、すべてが崩れ去っていった。
心は空っぽになり、自分が生きている意味さえ見えなくなった。
“あなたは悪くない”
“あなたのせいじゃない”
そんな言葉を求めていたわけじゃない。
ただほんの少しでいい。
少しだけ、ユイの肩に寄りかかりたかった。
何も言わなくていい。
ただ、隣にいてほしかった。
それだけだったのに。
――理解してほしかった人に、拒絶された。
その後、二人は「別れ話」を交わすこともなく、お互いに自然と離れていった。
もともと、ユイの両親はケンの育った環境に偏見を抱いており、交際に反対していたらしい。
ユイ自身も、両親に認められない恋を、この先も続けることに疲れてしまったのだろう。
それも、別れの理由のひとつだったのかもしれない。
二人の恋は、あっけないほど静かに終わった。
それ以来、ケンは女性という存在に対して深い不信感を抱くようになった。
そして、心に壁を作るようになっていった――。
* * * * * *
ジュンの言葉ひとつひとつが、チカの心を静かに、しかし確実に締めつけていった。
今にも折れてしまいそうなほどに、心は脆く揺れていた。
あなたを知れば知るほど、何もできない自分がもどかしくなる。
その過去の話を聞いて、怒りを覚えなかったわけじゃない。
けれどそれ以上に、ただ涙を流すことしかできない自分自身が、虚しくて、悔しかった。
“生きている意味がわからない”
――どうか、そんな哀しいことを思わないでほしい。
あなたは、ちゃんと生きている。
悲しみも、苦しみも、傷つくことも――
それらはすべて、あなたの“心”が確かに生きている証だから。
もし、それらを感じることすらできなくなってしまったら――
その方がずっと、ずっと哀しい。
その夜、チカは家に戻ってからも、ずっと涙が止まらなかった。
自分の無力さを噛みしめるように、枕に顔を埋めたまま、涙だけが静かに流れ続けた。
そして、いつの間にか――そのまま眠りについていた。
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