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夏の間は無用の長物となるが冬になれば必要不可欠な暖炉の横の窓から風が入り、ソファで横になっていたウーヴェの髪を少し乱して吹き抜けていく。
その風に乗って軽快な映画音楽がウーヴェの耳に届き、珍しく寝惚け眼でコーヒーテーブルの上にある携帯を手探りで探し、目を瞬かせつつ携帯を耳に宛う。
「Ja」
『ハロ、オーヴェ……あれ、もしかして寝てたか?』
「ん? ああ、大丈夫だ」
本を読んでいて眠ってしまったようだと苦笑し前髪を掻き上げたウーヴェは、暖炉の上の一角にある写真立てへと目を向けた後、壁の時計で時間を確認する。
「もう仕事は終わったのか?」
『ああ、終わった』
今日も頑張って働いてきたと誇らしげな声で宣言され、帰ったら餓えている腹を満たして欲しいとも叫ばれ、空腹の猛獣に与えるエサがあったかどうかと嘯くと、エサって何だと叫ばれて思わず携帯を耳から離してしまう。
『オーヴェ、俺のこと何だと思ってる!?』
「うん? 名前の通りじゃないかな」
電話口で吼え立てるリオンがおかしくて、くすくすと笑って金色のたてがみを持つライオンだと告げたウーヴェに本物の猛獣のような声が届けられ、咳払いをしてソファの背もたれに寄り掛かる。
「早く帰って来い、リーオ」
お前の空腹を満たす料理もその後のデザートも用意をしてある、そして一日の終わりである眠りに落ちるまでの間、心が満足するまで互いの体温を感じていようと囁きかけると、逡巡するような気配が伝わってくるが、言葉にして届けられたのはうんという短い一言だけだった。
『なるべく早く帰るな』
「ああ」
『あ、そうだ。……家に着いたらベル鳴らすからドアを開けてくれよ』
リオンの言葉に軽く目を瞠って次いで苦笑したウーヴェは、家の鍵は昨日渡しただろう、持って出るのを忘れたのかと問い掛けるが、もう一度逡巡したような気配の後にひっそりと本音が伝えられてくる。
『うん、持ってるけどさ……』
やや躊躇いながらも告げられた言葉にもう一度ウーヴェが目を瞠るが、恋人の真意に気付いて唇の両端をきれいな角度に持ち上げる。
「分かった。じゃあ家に着いたらベルを鳴らせよ?」
『ん、分かった』
リオンが仕事で疲れて帰宅する時、今までならば自ら鍵を開けなければならなかったが、自宅にいる時には己のためにドアを開けて欲しい、そう教えられて納得したウーヴェがもう一度早く帰って来いと伝え、携帯にキスをして通話を終えると、起き上がったばかりのソファに再度横臥し、床のラグを意味もなく掌で撫でる。
今までリオンがこの家に来る時は当然ながら合鍵など持っていないためにアパートの下や玄関先に着いた時点で連絡を貰っていたが、これからはここが自分の家なのだからと、昨日新しく付け替えた玄関の鍵をリオンに一つ渡したのだ。
その鍵を使えばいいと提案したウーヴェにリオンが返したのが、誰かがいる家に帰ってくる時にはドアを開けて出迎えて欲しいという、いつの頃からか思い描いていた夢の一端だった。
迎えてくれる家族がいてそんな彼らと住む家がある、そんな普遍的な当たり前な環境は甘く切ない夢の世界だとリオンが実感したのは幼い頃だったが、その頃からリオンは、ただ自分を迎えるためだけに開かれるドアやそんな人がいる家がずっと欲しかったのだと、ペアリングを買いに出掛けた日の夜、弾んだ息が落ち着いて睡魔に身を委ねる寸前に告白されたことを思い出すと、先程の言葉の持つ重みが増したように感じてしまう。
恋人が密かに、だが誰よりも強く願う己の家族、そしてその家族が暮らす家に言葉では表せない思いを抱いているのは知っていたが、改めて口に出されるとその夢が夢で終わらないようにしようとの思いが芽生えてくる。
幼いリオンが夢の世界だと諦めたものがほんの少し手を伸ばすだけで届く世界なんだと、彼の胸の裡で身体を丸めているもう一人のリオンにも届くようにゆっくりと教えていこうと決め、ソファに起き上がったウーヴェが伸びをして心地よい風を運んでくれる窓を見やると、夏の陽はいつまでも外にいたいと我が儘を言う子どものように思え、苦笑一つで立ち上がって窓を閉める。
そう言えば己の太陽も子どもじみた言動をするが、もう何年も見ていない錯覚に囚われて懐かしさすら感じていたウーヴェは、キッチンで腹を空かせて帰宅する恋人のための料理が後は本人の到着を待つだけであることを確かめ、冷蔵庫から今日買い物に行った際に発見した新しいフレーバーの板チョコを取り出すと、リビングのチョコレートボックスに無造作に投げ入れ、もう一度キッチンに戻ってワインやビールが冷えていることも確かめる。
そうして、疲れている恋人を出迎える準備が整った時、ドアベルの音が鳴り響き、キッチンの壁に埋め込まれているパネルのボタンを押す。
『ハロ、オーヴェ。ドアを開けてくれよ』
「ああ」
パネルのスピーカーから聞こえてくる声に顕著な異変はなく、胸を撫で下ろしつつキッチンから玄関へと向かったウーヴェは、一度深呼吸をした後にドアを引く。
「ハロ」
「ああ。お疲れさま」
今日も一日よく頑張って働いてきたなと、言葉で褒めつつ口元に浮かべた笑みでそのがんばりを讃えたウーヴェは、じわじわと笑みを深くするリオンの頭を胸に抱き寄せると、青い石のピアスが填る耳に口を寄せて優しい声で一日の疲れを労う。
「お疲れさま、お帰り、リーオ」
「……うん。今日も一日頑張ってきた」
色々な人たちからも褒められるが、お前に褒められることが何よりも嬉しいとひっそりと本音を零したリオンのこめかみにキスをし、空腹を満たす料理が出来ていること、喉を潤すビールもあるしデザートももちろんあると笑い、恋人の口から嬉しそうな口笛を引き出したウーヴェは、リオンの腰に腕を回して同じように腕が回されるのを確かめると長い廊下を二人で足並みを揃えるようにゆっくりと歩いていく。
「今日さ、コニーがすげーえげつないコーヒーを入れてくれたんだよ」
「どんなコーヒーだったんだ?」
「それがさぁ、マジでコールタールみたいなコーヒーだったんだって!」
コーヒー豆は奮発して有名なカフェのものだった筈なのに、口が曲がりそうなほど苦くて濃くて不味かったと思い出しただけでも胃の辺りが不快感を覚える顔で呟くリオンに苦笑し、飲むのならば後でラテを作ってやろうかと問えば、今日の分どころか明日明後日分のコーヒーを飲んだ気分だと笑い、今日はお前が入れてくれるハーブティーが飲みたいとも笑う。
「そうだな……美味しいハーブティーを貰ったからそれを飲もうか」
「うん、賛成。でもその前に」
「?」
空腹や喉の渇きを癒す食事も大切だが、何よりももっと大切なものがあると告げて足を止めたリオンは、ウーヴェも足を止めて振り仰いできた為、鼻の頭に鼻先を触れ合わせるキスをすると、驚くウーヴェの頬を両手で挟んで薄く開いている唇にそっと口付ける。
「……ただいま、オーヴェ」
「ああ。お帰り、リオン」
お疲れさまとお帰りのキスを交わして額を重ねて笑いあった二人だったが、今度はウーヴェがリオンの頬を両手で挟んで先程よりはしっかりと唇を重ねると、リオンも嬉しそうにそれに応える。
「今日の晩飯は何?」
「ポタージュスープと肉屋のイチオシのハムを焼こうか」
「スープさ、冷たくして食えないか?」
「じゃあミルクを入れて冷たくしようか」
どちらでも食べられるように作ってあるから大丈夫だと笑いリオンを小躍りさせるほど喜ばせたウーヴェは、キッチンのいつものテーブルのいつもの席にリオンを座らせ、後は焼くだけのハムを出して仕上げに取りかかる。
その後ろ姿をぼんやりと見ていたリオンだが、何かを思い出したような声を発して立ち上がると、振り返るウーヴェに挨拶をしていないとだけ残してキッチンを飛び出していく。
リオンが叫んだあいつが誰のことかをすぐさま理解したウーヴェは、仕事の疲れが溜まっているような服も着替えてこいと声を掛け、このハムが焼き上がる頃には戻ってくると予測をし、己のそれが的中したことに笑みを浮かべる。
冷たいミルクを注いだポタージュスープと肉屋が勧めるハムを焼いたものを目の前に、ナイフとフォークを構えるリオンの横に腰を下ろしたウーヴェは、今まで当たり前のように行っていたことをするため、リオンに掌を向けて合図を送る。
「どうぞ召し上がれ」
「ダンケ、オーヴェ」
また以前のようにこの儀式じみた行為が出来るようになった事実を密かに噛み締め、リオンの為にビールをグラスに注いだウーヴェは、肩が触れ合いそうな距離で並んで座り、今日一日の出来事を話し始めるリオンに相槌を打ったり意見を述べたりし、あっという間に食べ終えた恋人にただただ感心するだけだった。
食後のデザートのチョコがリビングにあること、食べるのならば半分だけにしろと告げて自らはハーブティーの用意をするウーヴェは、リビングに駆け込んだ後に歓喜の声が響いたことに気付いて肩を竦め、オーヴェ愛してると叫ばれて絶句する。
「あまり大きな声を出すな」
「な、オーヴェ、俺でも出来るクロスワードってねぇか?」
「あるぞ」
ハーブティーを入れたマグカップを二つ持ちつつリオンを窘めたウーヴェだが、問われて小首を傾げた後、ベッドサイドのテーブルに置いてある雑誌にクロスワードがあるはずだからそれをしてみろと告げ、もうベッドに行くかと問い掛けると短く逡巡した後に小さく頷かれ、リオンがウーヴェの耳に顔を寄せて何かを囁く。
「……分かった」
その囁きに微苦笑を浮かべて頷いたウーヴェがちらりと暖炉の上を見たため、リオンもそれに気付いて暖炉の上から今までと変わらない笑顔で見守ってくれるゾフィーに笑いかける。
「お休み、ゾフィー」
彼女とリオンがいい顔で笑う写真をそこに置くようになってからリオンは帰ってきたときや寝る前の挨拶を欠かさなくなり、ウーヴェも声に出さずに心で挨拶をするようになっていた。
今日もまた習慣になった挨拶をした後、ウーヴェが用意してくれていたチョコを片手にベッドルームに一足先に向かったリオンは、戸締まりの確認をした後にベッドルームにやって来るウーヴェを着替えを済ませて待ち、静かな足取りで入ってくる恋人に笑いかける。
「ダンケ、オーヴェ」
「半分だけだぞ」
「分かってるって」
ベッドの中で何か食べるのはあまり好きではないが、今日だけだと笑ってリオンにマグカップを差し出したウーヴェは、自らも着替えを済ませてベッドに潜り込むと、ベッドヘッドにクッションを立て掛けて読みかけの雑誌を手に取る。
「今日も一日楽しかったぜ、オーヴェ」
ベッドに腹這いになり、クロスワードと向き合いながら楽しそうに報告をするリオンの頭を見下ろしたウーヴェは、そうかとだけ返してくすんだ金髪に手を差し入れる。
「うん。コニーは最悪なコーヒーを用意してくれたけどな」
「今度飲ませて貰おうかな」
「止めておけよ。胃袋に穴が開くぜ」
それほど強烈な味だったことを肩を竦めて答えたリオンは、髪を撫でる手の感触に目を細め、クロスワードを投げ出してウーヴェの腿に仰向けに寝転がる。
「…………次の休み、ホームに行って来る」
「そうか」
「うん」
直近の休みは週末に当たっているから肩身の狭い思いをしている子ども達も遊んで欲しいはずだと笑うリオンに何も言わずに髪を撫で続けたウーヴェだが、思い出したようにリオンを呼んで視線を向けさせると、ホームに戻るのなら美味しいビスケットを見つけたから持っていってくれないかと提案すると、逡巡した後に満面の笑みを浮かべてリオンが頷く。
「ん、ダンケ、オーヴェ」
「ああ。……もうクロスワードはしないのか?」
「んー? これ難しいぜ、オーヴェ」
俺にも出来るものって言ったのにこんな難しいのを寄越すなんてと恨みがましい目つきで恋人を睨んだリオンだが、ウーヴェの手が額を撫でて鼻梁に沿って指が移動し、不満を訴えていた唇に辿り着いた為、悪戯心からその指先を舐めて小さくキスをする。
「……欲しいのか?」
「うん。ちょうだい、オーヴェ」
何をとは口に出さずにも理解できる為、ウーヴェの指先を舐めてキスをしていたリオンだが、上目遣いに見つめて同じ瞳に見下ろされると同時にウーヴェの手から雑誌を奪い取って目を見開かせる。
「こら」
「雑誌なんかいつでも読めるだろ?」
俺は今すぐお前が欲しいんだと囁きウーヴェの首筋に手を宛って引き寄せたリオンは、大人しく従ってくれる恋人に礼を言ってキスをする。
引き寄せられたのを良いことにリオンの身体に覆い被さったウーヴェは、片手でリオンの背中を抱き、片手でリモコンを操作して部屋の照明を最小にすると、リオンの口から満足と期待が混ざり合った吐息が零れ、その期待に応えるようにキスをする。
「……は……っ」
キスをしながら互いの服を脱がし始めた二人は、程なくして訪れる白熱の瞬間に二人で飛び込もうとキスの合間に囁き、その言葉に忠実に従うのだった。
ウーヴェが用意をしてくれたビスケットを片手に、子ども達の声が響き渡る児童福祉施設に足を踏み入れたリオンは、廊下の先に赤毛で長身の男を発見し、口笛を吹いて合図を送る。
その音に振り返ったカインは、リオンとその後ろにウーヴェがいることに気付いて目を細めるが、再度リオンに背中を向けたかと思うと目の前に誰かがいるように語りかけた後、大股に足を踏み出してこちらにやってくる。
「来てたのか?」
「ああ」
「もう帰るのかよ」
「ああ」
たったその会話だけで何となく自分たちが置かれている環境を読み取り、どちらも以前と多少の変化はあっても大きく変化はないことを察すると、すれ違いざまに互いの腹に拳を当てていく。
それだけで通じ合えるものを二人が持っているのを少し離れた場所で見ていたウーヴェは、通り過ぎるカインに苦笑するが長い足を止めてカインが振り返ったため、小首を傾げてどうしたと問い掛けると、やや躊躇った後に栗鼠のようにすばしっこい子どもと知り合ったと答えられてさすがにウーヴェが驚きに言葉を無くす。
カインと直接言葉を交わしたのはまだ数える程だが、リオンから聞かされていた話によると人に対する興味をそもそも持ち合わせていないそうで、そんな男の口から子どもと知り合ったと聞かされれば驚くものの、それ以上に興味が湧いて生きてどんな子どもなんだと問い掛ける。
「…………アジア系だ。子どもだと思うが……」
それにしては話が随分と大人びていると苦笑するカインにウーヴェが顎に手を宛うが、そんな彼の背中にリオンがぴたりと胸を押し当てて何を楽しそうに話しているんだと顎を突き出す。
「カインが最近アジア系の子どもと知り合ったそうだ」
「は? お前がガキと知り合った?」
そんな事天地がひっくり返ってもあり得ないと、幼馴染みの他人に対する関心の薄さを良く知るリオンが素っ頓狂な声を挙げるが、確かに自分でもおかしいと思うと苦笑したことに更に驚いてしまう。
「…………帰る」
「今度飲みに行こうぜ、カイン」
リオンの驚愕の表情に舌打ちをしたカインが帰宅することを告げるとその背中に飲みに行こうと誘いの声を掛けたリオンだが、返事が言葉でも態度でも無い事に苦笑し、実はかなりそのアジア系の子どものことが気になっている様子を察するが、幼馴染みの為にそれは口に出さずにウーヴェの背中にもたれ掛かると、暑苦しいし重いから離れろとつれない言葉が投げ掛けられる。
「……オーヴェのイジワル……」
「何か言ったかね、リオン・フーベルト?」
「ナンデモアリマセン」
くるりと振り返ったウーヴェのにこやかな笑顔が氷河期へと己を送り出すドアであることを良く知るリオンが両手を肩の高さに掲げるが、ウーヴェの向こうにくすくすと笑う女性の姿を発見して頬を膨らませる。
「何で笑ってんだよ、マザー」
「……何でもありません」
貴重な休日に良く来て下さいましたと二人の前に静かに歩み寄った彼女は、頬を膨らませる息子の手を取って短く祈り、頬の膨らみを解消して下さいと申し出て苦笑するウーヴェには頬にキスをする。
「お久しぶりですね。元気そうで何よりです」
「マザーもお変わりないようで安心しました」
己の前で母と恋人がにこやかに談笑する姿にリオンもいつまでも膨れっ面ではいられないと気付き、ビスケットを持ってきたこと、子ども達に先に食べさせて欲しいことを告げるとウーヴェがリオンからいつの間にか預かっていたビスケットの袋を差し出す。
「いつもありがとうございます」
子ども達の心も満たすような差し入れをいつも本当にありがとうと胸の前で手を組んで祈り捧げたマザー・カタリーナは、二人に同じように笑みを浮かべて一緒に食べて行って下さいと誘い、嬉しそうな顔でほぼ同時に頷かれる。
「あ、マザー、ゾフィーにもやってくれよ」
「ええ。そうしましょう」
三人が並んで向かったのはリオンが必ず立ち寄ってマザー・カタリーナやゾフィーらと話し込んでいたキッチンで、教会や児童福祉施設内に満ちていたゾフィーを喪った悲しみは前よりも薄れていたが、部屋の中の彼方此方に彼女の存在がまだまだ残っていた。
その部屋に足を踏み入れいつものようにテーブルに腰を下ろしたリオンだが、隣に座るウーヴェの肩に寄りかかるように頭を傾けると無言で髪を撫でられて安堵に目を閉じる。
「そうそう。カインもあれからずっとここに顔を出してくれていますよ」
「…………あいつはあいつなりに気になってるってことかぁ」
「そうですね。確かにカインはあまり人に興味も関心もありませんが、それでも例え短い間であっても共に過ごしたゾフィーが亡くなったのには思う事があるのでしょう」
それを口に出すカインではないために詳しいことは聞き出していないが、毎週ゾフィーの墓と児童福祉施設と教会に飾る花を選んでくれたり、それが出来ない時にはメッセージカードと現金が届けられることを目尻を少し赤くしながらマザー・カタリーナが告げると、リオンが立ち上がって彼女の身体に腕を回す。
「あいつも照れ屋だからなー」
「ええ、そうですね」
口に出したり面と向かっては決して言わないどころか、顔を合わせるとマザー・カタリーナのことをばあさんと呼ぶ幼馴染みが実は彼女やリオン、そして亡くなったゾフィーには一目置いていることを良く知るリオンに彼女も涙を拭って頷き、コーヒーを飲みましょうと明るい声を出す。
「あ、俺が入れる」
「久しぶりにあなたのコーヒーが飲めるのですか?」
リオンがコーヒーを入れる姿をウーヴェは何度か目にしたことがあったがマザー・カタリーナの喜ぶ様から実はそれがかなり貴重な姿であることを知り、俺も飲みたいと笑顔で申し出ると、じゃあオーヴェは今度ドーナツを作ってくれと返されて瞬きを繰り返す。
「マザー、オーヴェにドーナツのレシピ教えてくれよ」
「え?」
ゾフィーが良く作ってくれたドーナツだが、ゾフィーは確かマザーに作り方を教えて貰ったはずだとリオンが問うと彼女の口元に懐かしそうな笑みが浮かび、そうでしたと何度も頷く。
「レシピを言いますのでメモを取って下さい、ウーヴェ」
「はい」
彼女がノートを取りに出掛けて戻って来た後、こうして受け継がれていくのでしょうかと総ての感情が籠もった声で呟いた為、ウーヴェがそっと頷いてコーヒーの用意をしている恋人の背中を見つめる。
「例え血の繋がりがなくても同じ屋根の下で暮らした絆は切れるものではありません。一般的に親から子どもへと受け継がれるものも、ここでは姉から弟、そしてその弟からまた弟や妹に繋がっていくのです」
そして彼女の魂はいつもあなた方の傍にいて見守ってくれているのだと、己の為には絶対に口にすることのない思いを穏やかに告げ、ノートを差し出す彼女の手を取って慈しむように撫でる。
「彼女がリオンや他の子ども達の為に作っていたドーナツの作り方を教えて下さい」
そのドーナツでリオンの顔に今までのように笑顔が戻るのならば、またそれを食べる事で彼女が厳しくも優しい目で見守ってくれていたことに気付いてくれるのならば喜んでそれを作りたいと思うと告げると、マザー・カタリーナの目から涙が静かに流れていく。
「……ありがとうございます、ウーヴェ」
「リオンを護ると彼女と約束をしました」
身体を張って守ることもそうだろうが、その心が壊れないようにすることもまた守ることに繋がると笑い、あなたにも約束をしますと誓ったウーヴェは、マザー・カタリーナの顔に雨上がりに一筋の光が差し込んだ時のような笑みが浮かびつつあることに気付くと、苦労が刻まれている小さな限りなく温かな手を両手で包んで何度も撫でる。
「ウーヴェ……」
「あー、オーヴェがマザーを泣かせたー」
アーベルに言いつけてやろうと鼻歌交じりの声が聞こえてウーヴェが顔を振り向けると、その鼻先にコーヒーの香りが漂い、その向こうでにやりと笑みを浮かべたリオンが不気味な目で見つめてきていた。
「…………気持ち悪い顔をするなっ」
「んな! 気持ち悪ぃとかひでぇ、オーヴェ!」
オーヴェのトイフェル、悪魔、くそったれとリオンにとっては言い慣れた、ウーヴェにとっては決して聞き慣れることのない罵詈雑言を吐き捨てたリオンだが、ウーヴェが静かに立ち上がって手招きをした為、コーヒーの用意があるから手が離せない、用事があるのならマザーに伝えておいてくれと、意味不明な言葉を捲し立てて湯気の立つマグカップをテーブルに置く。
「良い匂いですね」
「だろ?ミルクもスゲー泡立てたから早く飲めよ」
マグカップの表面を覆うミルクは確かにしっかりと泡立っていて、バリスタやカフェの店員ならばそのミルクにイラストなりを書くのだろうが、料理に関してはほとんど食べるだけの人であるリオンにそんな器用なことが出来る筈もなく、ウーヴェの前に置かれたマグカップも同じく素っ気ないミルクの泡が出来ているだけだった。
だが彼女はそれを本当に美味しそうに飲み、満足の溜息を吐いてリオンを誉めるように笑みを浮かべる。
「ウーヴェにも入れてあげているのですか?」
「んー、時々」
俺がオーヴェを怒らせた時は謝罪の代わりに入れていると肩を竦めるリオンにウーヴェもその通りだと頷き、それを見たマザー・カタリーナが肩を揺らして笑い出す。
その顔が娘を亡くした悲しみから立ち直り、残された人達がまた彼女に再会出来る日までは己の生をただ生きるだけだと思い出してくれたものに感じ、ウーヴェもリオンも密かに胸を撫で下ろす。
「リオンだー! 遊んでー!」
リオンとウーヴェが来ていることを知った子ども達がキッチンに駆け込んできて静かだった室内が一気に子どもの声が満ちた空間へと早変わりをするのを微笑ましそうな顔でマザー・カタリーナが見守り、そんな彼女の横顔を穏やかな顔でウーヴェが静かに見守っていると、最初にリオンに抱きついてきた幼女を難なく抱き上げて肩に乗せたリオンが外で子ども達と遊んでいることを告げて騒々しい空気も引き連れて部屋を出て行ってしまう。
夏の午後の風が開けている窓から入り、二人の間を通り抜けて行く際、楽しそうな子ども達の笑い声とリオンの声を届けてくれ、その声に本当に嬉しそうに笑みを浮かべた彼女がウーヴェに自分たち家族の歴史の一つであるドーナツのレシピを教える為にノートを開き、ウーヴェも思い出した様にペンを取ってマザー・カタリーナが教えてくれるそれを丁寧に書き記していくのだった。
夏の始まりを控えた季節に一人の少女が不慮の事故で死亡し、その少女の姉が遠く離れた街で発見されたのを発端にした今回の一連の事件で深い傷を負ったリオンだったが、一時は罪悪感や劣等感からウーヴェの顔を見ることも辛くなってしまっていた。
そんなリオンの思いを知りながらもウーヴェが俯くリオンを抱きしめて顔を上げさせ、以前のようにまた笑えるようになるまで傍で見守り続けた結果、また楽しそうに笑い手に負えない悪童のような言動をするようになっていた。
姉を喪った悲しみはそうそう癒えるものではないが、時間を掛ければ心の傷は少しずつ癒されていくことを知っているウーヴェが、リオンの心が不安定になる夜には心と身体を守るように、穏やかな顔で眠りに落ちるまで抱きしめ続けていた。
ゆっくりではあっても確実に傷が癒えていく様をリオンの顔に浮かぶ表情や言葉の端々に込められた感情から感じ取っていたウーヴェは、夏が終わりを迎えそうな頃に知人から借りたトラックに数少ない荷物や家財を積んだリオンがもうすぐやってくることを知り、今日の引っ越しの為に駆けつけてくれたリオンの同僚達に笑みを浮かべて頷く。
「もうすぐ来るそうだ」
「リオンの荷物なんてさ、ドクが用意した部屋どころか廊下に全部入るよな」
ヴェルナーが楽しそうに笑ってマクシミリアンの肩に腕を載せると、確かにそうだろうと皆が頷くが、パイプベッドを持って来るとウーヴェが返すとコニーに意味深な笑みを向けられる。
「ベッドは一つで良いんじゃないのか?」
「……………………」
コニーの疑問の形を取った意地の悪い問いかけにウーヴェが咳払いをし、まだリオンは来ないのかと明後日の方向を見ると、胸ポケットにしまっていた携帯からリオンを表す映画音楽が流れ出す。
『ハロ、オーヴェ!』
「ああ、着いたのか?」
地下駐車場にトラックで入ることが出来ないから警備員と今話をして正面から荷物を運ぶことを告げられ、コニーやヴェルナーにリオンの言葉を伝えると、二人が頷き合って部屋を飛び出していく。
その背中を少し照れた顔で見送ったウーヴェは、程なくしてやってきた騒々しい気配とそれに相応しい笑顔を浮かべたリオンを見て自然と笑みを浮かべ、リオンの背後に背の高い天使像そっくりの顔立ちをした男がいることにも気付いて手伝いお疲れ様と労いの声を掛ける。
「……気にしないで下さい」
「ありがとう、ブラザー・アーベル」
穏やかな顔立ちの二人がその顔立ちに相応しい表情で互いに差し出した手を握り、ブラザー・アーベルはこれからもリオンを頼みますと言葉に出さずに告げると、ウーヴェが思いを受け取った証にしっかりとその手を握り返す。
「オーヴェ、ホントにパイプベッド持って来て良かったのか?」
「ああ」
もしも万が一ケンカをした時にそれがないとお前は床かソファに寝ることになると笑うウーヴェにリオンが心底嫌そうな顔をするが、何かに気付いたのかまじまじと恋人の顔を見つめた後に不気味な笑みを浮かべる。
「何だ?」
「なんでもありませーん」
早く荷物を置いてしまおうと笑い同僚達にも声を掛けたリオンは、部屋に入って手伝おうとするウーヴェとブラザー・アーベルを手で制し、二人には見られたく無いエッチな雑誌やDVDがあるから作業が終わった後のメシの用意をしていてくれと言い放ち、綺麗な顔立ちの二人を絶句させることに成功するのだった。
同僚達に手伝って貰ったお陰で引っ越し作業はあっという間に終わり、リオンの為にウーヴェが用意をしたバルコニー付きの部屋のドアを開けたウーヴェは、以前のようにバルコニーの柵に腰を下ろして足をぶらつかせているリオンを発見し、苦笑しつつそんなにそこが気に入ったのかと問いかける。
「うん、気に入った」
学生の頃良くこうして柵に乗って下界を見下ろしていたが、その時と似たようで全く違う気持ちがすると笑い、頼むからそう頻繁にしないでくれとウーヴェが苦言を呈しながらリオンの横に手を着いていつまでも日が沈まない錯覚を抱かせる空を見上げる。
「気持ち良いぜ。オーヴェもすればどうだ?」
「…………遠慮しておこうか」
どうせならばここのバルコニーかベッドルームから出られる場所にソファとテーブルを置こうと笑うと、リオンの顔が逡巡するように斜め上を向くが、ウーヴェに顔を向けた時には満面の笑みが浮かんでいた。
「賛成! 時間見つけて探しに行こうぜ」
「そうだな。カタログを探してみても良いな」
今までならばそんな考えすら思い浮かんで来なかったが、これからはこの家でずっと二人一緒に暮らすのだ。
自分たちの暮らしが快適になる様に様々なものを買わなければならないだろうが、一気に買い揃えるのではなく、一つずつ二人で一緒に選んで買っていこうと笑うウーヴェにリオンも嬉しそうに頷き、反動を付けて柵から降り立つとウーヴェの肩に額を乗せる。
「どうした?」
「…………前も言ったけどさ……」
本当に幸せだと小さく呟くリオンの頭を撫で、姉を喪ったことは確かに悲しいがそれでもこうして支えてくれる人がいる、そしてそんな大切な人と一緒に暮らす家があることは本当に幸せだと顔を上げ、軽く目を瞠るウーヴェに透明な笑みを見せたリオンは、ウーヴェの眼鏡をそっと取り上げて薄く開く唇にキスをする。
「こんな立派な家をくれて俺の夢を叶えてくれて……ありがとう、ウーヴェ」
自分の為だけに開かれるドアに象徴される家。その家が欲しいと夢を密かに抱いていたリオンの真正面からの告白が面映ゆくはあったが、それでもしっかりと顔を見つめつつ頷いたウーヴェは、リオンの頬を両手で挟んで額を触れあわせると、吐息が掛かる距離で小さく笑う。
「リーオ、俺のリオン……二人で幸せになろう」
「…………うん」
どちらかだけでも、どちらかから与えられるものでもない、二人で一歩ずつ歩きながら感じる思いを一つ残さず共有し、そうして得た思いを昇華して二人で幸せになろうと笑うと、リオンが顔をくしゃくしゃにしながら小さく頷く。
「うん……一緒に幸せになろうな、オーヴェ」
「ああ」
この先、まだまだ自分たちの心を試す出来事があるだろうし時にはやるせない思いに沈み込むだろうが、それでもそんな時だからこそ手を取り、寄り掛かるのではなく互いに支え合いながら歩いて行くことをウーヴェが誓うとリオンも声に出して誓い、もう一度そっとウーヴェにキスをする。
「……明日からここが俺の部屋なんだ」
「ああ。……あまりうるさいことは言いたくないが、部屋をあまり散らかすなよ」
「えー、俺の部屋だから良いじゃん」
オーヴェのケチと一転して頬を膨らませるリオンにウーヴェが呆れた様に肩を竦めるが、どちらからともなく互いの腰に腕を回してリオンの部屋でありウーヴェの天国でもある部屋へと戻ると、戸締まりを確かめてリビングへと向かう。
リビングの暖炉の上ではゾフィーがいつまでも見守っていることを教えてくれる笑みを浮かべていて、その写真に笑いかけたリオンは、今度またゾフィーの写真を貰ってくるからアルバムに整理してほしいと告げて同意を得、今日は疲れたからシャワーを浴びて早めに寝ようと笑いかけるのだった。
午後からの休診の後、仕事で疲れて帰ってくるリオンの為の料理を作っていたウーヴェは、作業台に置いていた携帯が着信を告げた事に気付き慌てて耳に宛がうと、疲れていても満足そうな声が聞こえてくる。
『ハロ、オーヴェ』
「ああ。もう終わったのか?」
『うん、終わった。今ドアの前にいる』
早く開けてくれ今すぐ開けてくれと叫ばれエプロンを脱ぐ暇もなくキッチンを飛び出したウーヴェは、ドアを開けて目の前に笑みを浮かべるリオンを発見すると携帯をエプロンのポケットに落として笑みを浮かべる。
「ハロ、オーヴェ」
「お疲れ様。――お帰り、リーオ」
「うん」
嬉しそうに頷くリオンの頬を撫でて額にキスをしたウーヴェは、己の腰の上でリオンが手を組んだことに気付き、少しだけ身を寄せるとコツンと額と額が重ねられる。
「今日の晩飯は何、オーヴェ」
「アイスバインを作ってみたんだ」
「わ、楽しみ」
額を重ねつつくすくすと笑い、これから二人で食べる食事について話題にしたリオンにウーヴェも返し、出来上がるまではチーズとドライトマトでも摘んでいてくれとも告げ、期待に持ち上がる唇の両端を確かめると小さな音を立ててキスをする。
「ビールは?」
「もちろん、少し冷やしてある」
「ダンケ、オーヴェ」
リオンの腰に腕を回して並んで歩き出したウーヴェにリオンもしっかりと腕を回すが、リビングに入ると暖炉の上を二人同時に見つめ、写真立ての中から見守ってくれているゾフィーに語りかける。
「ただいま、ゾフィー」
今日も一日面白おかしく、でも真面目に仕事をしてきたと笑ったリオンにウーヴェも笑い、準備の仕上げをしてくるから着替えて来いとリオンの頬にキスをして背中を押すのだった。
そんな二人を写真立ての中のゾフィーが、心の平安を得ているような穏やかな笑みを湛えた顔で見守っているのだった