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夏の風がすっかり秋色になって街を吹き抜けるようになったある日、仕事を終えたウーヴェがスパイダーで向かったのは、少し前に自分たちにとって大切なものを作って欲しいと依頼していた店だった。
前回と同様に店でリオンと待ち合わせをしていたのだが、ウーヴェがクリニックを出る直前に事件が発生したから一緒に行けなくなったことを慌ただしい声で伝えられ、残念に感じるよりも仕事に全力を向ける恋人への誇りと、忙しくすることで姉を喪った悲しみを紛らわそうとしているのではないかという危惧を抱くが、声に出したのは少しでも早く解決し事件の関係者-特に被害者-と事件に当たった刑事達のケアを怠らないようにと願う気持ちだけだった。
これから彼女達の店に向かう事を伝え、ごめんと謝罪をされたウーヴェは、リオンの心に罪悪感を覚えさせないようにわざと戯けた声でこの埋め合わせを今度して貰うこととキスも伝えると通話を終えたのだ。
その後は少し浮かれていた気持ちを鎮めてクリニックを出、愛車に乗って約束をしている店に向かったのだが、ウーヴェが道路に車を停めて店への階段を登ると、姿が見えていたからかドアが開いて今日はベラが満面の笑みで出迎えて開口一番問いかけてくる。
「リオンはどうしたの?」
「うん? ああ、帰る直前に事件が起きたみたいなんだ」
だから一緒に来られなくなったと肩を竦め、出迎えてくれるベラの顔が沈むのを見て苦笑する。
「一緒に来られないのは残念だけど、仕事だから仕方がない」
「そう、ね……あなたがそう言うのなら」
納得するわと己を納得させる言葉を呟いてウーヴェの頬にキスをしたベラは、もしかすると人生最高の出来かも知れないと片目を閉じてウーヴェの手を引く。
店の中には客が一人いてリッシーがその相手をしていたが、ウーヴェが来たことに気付くと目で頷いて接客に戻る。
その彼女の仕事ぶりを横目にソファに座ったウーヴェは、ベラが浮き足立った様に店の奥に姿を消した後、先程とは違って落ち着いた足取りで戻ってきた事に笑みを浮かべ、二つのリングが並ぶジュエリーケースに目を瞠る。
そこにあったのは一見すれば何の変哲も装飾もないシンプルすぎるリングだった為、これが人生最高の出来なのかと皮肉な思いを抱くが、そんなウーヴェの思いを感じ取ったらしいベラが子どものように軽く頬を膨らませながら手にとって頂戴と告げた為、その言葉に従う様にリングを手に取り、彼女の言葉の真意を発見する。
そのリングは確かにシンプルで、下手をすれば露店で売っているリングの方が高価に見えるかも知れなかったが、じっくり見てみるとリング本体はプラチナかシルバーのようで、リングの内側に小さな蒼と碧の煌めきが二つあり、ルーペを差し出されて上の空でそれを受け取り、拡大される視野で煌めきを確かめる頃にはウーヴェの口元には満足そうな笑みが浮かび上がるようになっていた。
「どう?」
「……ああ。きみに頼んで本当に良かった」
己は本当に宝石や宝飾品には疎いがリオンもこれならば喜んでくれるだろうと顔を上げ、自慢と誇りと歓喜を顔中にちりばめたベラに最高の笑みを見せる。
「ありがとう、ベラ」
「喜んで貰えて嬉しい。リオンが喜ぶのは分かるけど、あなたは喜んでくれる?」
「もちろん。ペアリングでこういうのも良いな」
自分たちを端的に表す目の色、それと限りなく似た石が二つ並んで内側でひっそりと光っている、それがウーヴェの琴線に触れたらしく、リオンですら数える程しか見たことのない笑みを浮かべて頷き、緊張から頬を赤らめるベラを手招きしてそっとハグするとベラの口から満足そうな溜息が零れる。
「今日は仕事で一緒に来られなかったが、きっと喜んでくれる」
だから自分一人で来たことを許してくれとも伝え、了承の合図に頬にキスを受けて一つ肩を竦める。
「分かったわ」
二度の説得にようやく納得出来たのか、ベラが笑みを浮かべて頷き、接客が終わったらしいリッシーに手短に事情を説明すると、彼女は素っ気ないような顔で頷いてウーヴェに肩を竦めるが、リングの出来映えが最高だと伝えられるとベラ以上に歓喜を浮かべて何度も頷く。
「何度も何度もデザインを考えて、やっと出来たのよ、それ」
「最初見た時はシンプルで少し驚いたが、じっと見れば良さが分かってくるんだな」
きっとリオンならばすぐさまこの良さを見つけ出せるのだろうと苦笑し、自分は本当にこういった宝飾品などについて疎いと肩を竦めるウーヴェに二人が顔を見合わせた後、善し悪しが分からなかったとしてもあなたはその作り手の気持ちを読み取ってくれるでしょうと問われて瞬きをする。
「あなたはものを見て善悪を判断する人じゃないわ」
その先の、作り手の思いをその作品から感じ取ろうとする人だろうとも告げられて軽く驚くが、逆にリオンはそのものの本質的な善し悪しを無意識に判断していると笑われ、確かにそうだと納得してしまう。
自分では意識しなかったことを見抜かれて驚くものの、彼女達の人を見抜く力に感嘆の思いを抱き、溜息としてそれを表してしまうウーヴェにリッシーがもう一度肩を竦め、二つのリングを納める為の箱を用意すると残して店の奥へと姿を消す。
「ねえ、ウーヴェ。リオンの様子はどう?」
ゾフィーを亡くしてからひと月以上経過したが無理をしていないだろうかとベラに問われて表情を切り替えたウーヴェは、忙しくすることで彼女を喪失した思いを誤魔化そうとしている節はあるが、二人でいればそれらですらも乗り越えられる思いを告げて足を組むと、心配してくれてありがとうと礼を告げて彼女の顔にはにかんだような笑みを浮かべさせる。
「この間、マザーとお話ししたのよ。ようやく少しずつ元気が出てきて、子ども達も皆も明るく笑うようになってきたって」
「それは良かった」
リオンと同じかそれ以上に彼女の死にショックを受けている女性が笑顔を取り戻したと聞くのは嬉しくて、定期的に彼女の元を訪れていたウーヴェもその兆しを感じつつあったものの、やはり身近にいた人達からその情報がもたらされるのは嬉しかった。
「でも、リオンが心配だってマザーが言ってたから気になって」
マザー・カタリーナに告げられた言葉を思い出しているようにベラの顔が曇り、確かに心配だろうが大丈夫だと伝えてくれないかと告げ、戻って来たリッシーから二つのジュエリーボックスを受け取る。
「ありがとう」
「……リオンをよろしく」
ベラではなくリッシーからの言葉にウーヴェが無言で頷くものの、受け取ったボックスを鞄にそっと入れて立ち上がると、リッシーの頬にキスをして細い身体を抱きしめる。
「マザー・カタリーナにもよろしく伝えてくれ」
「分かったわ」
ゾフィーが生きている頃は彼女に任せっきりだったが、マザー・カタリーナは私たちにとっても掛け替えのない人だと頷くリッシーに目を細めたウーヴェは、二つの指輪の代金を支払うと彼女達に会釈をし、店を出て車に乗り込むのだった。
そのウーヴェをいつものように店の前で見送った二人は、ウーヴェのスパイダーが見えなくなると同時に店内に戻り、次の休みにマザー・カタリーナの顔を見に行こうと頷き合うのだった。
ウーヴェが自分たちの思いを具現化した指輪を受け取った日の遅い時間、リオンからの連絡がないことを気にかけながらも寝るまでの時間をリビングのソファで本を読むことで潰していた。
今日の夕方に事件が発生した為、どれだけ早くてもリオンが解放されるのは五日ぐらい経ってからだろう、その間は家に帰って来られないとも考え、夏の間は不要になる暖炉の上の一角、大切な小物や写真を飾っている隣に二つのジュエリーボックスを置いたのだ。
その箱を何気なく見つめ、直接リオンにそれを渡せる日が来るのはいつだろうと苦笑すると、ソファに置いたままの携帯から映画音楽が流れ出す。
「Ja.」
『ハロ、オーヴェ』
「ああ。お疲れ様。もう終わったのか?」
まさか一日どころか数時間で事件が解決したのかと驚くウーヴェにリオンの声が顰められ、当分帰れない、今はもう無理だから明日着替えなどを取りに帰ると告げた為に事件が解決するまでは署で仮眠を取るつもりだと知り、心配を押し殺しつつ明日の朝一番に着替えを持って行こうかと提案すると、嬉しそうな気配が伝わってくるが程なくして大丈夫だからとその気配を否定する言葉が聞こえてくる。
『大丈夫だって』
「……リーオ」
その声はどう聞いても空元気だろうと返すと口を閉ざすリオンに溜息を吐き、明日の朝一番にそちらに出向くから必ず出て来いとリオンが反論できない強さで伝えたウーヴェは、暫く沈黙が流れた後にうんという小さな声を聞き、安堵に胸を撫で下ろす。
『……頼むな』
「ああ。……リオン、ベラとリッシーがよろしくと言っていたぞ」
『あ、そっか。うん。また暇が出来たら連絡する』
「ああ」
是非そうして彼女達を安心させてやれとも伝え、仕事に戻ることを教えられたウーヴェが少しだけ慌ててリオンを呼び止めたかと思うと、頑張って来いとの言葉とキスを伝えて返事を貰うと、長引かせる訳には行かない為に自ら通話を終え、読んでいた本をソファに落とすと同時に顔に腕を乗せて深い溜息を吐く。
仕事に全力を向けることに異論はないし、何よりもリオンが望んでいるのならば構わないと思っていた。ただその働き方が紙一重のように思えて危惧を抱くが、仕事が終わってリオンが帰って来た時、たとえどのような表情や精神状態であっても丸ごと総てを受け入れようと腹を括り、明日の朝一番でリオンに届ける為の着替えなどを用意してから寝ようとソファから立ち上がって伸びをするのだった。
数日前に発生した事件は、犯人を無事に逮捕出来て送検できた結果、ようやくリオン達の手を離れたのだが、さすがに事件が解決した後の仲間達は連日の徹夜に取り調べなどで疲弊していて、送検されると同時に皆が己のデスクにへたり込んでしまうほどだった。
事件が終わったお疲れ様、その挨拶を残してリオンがボストンバッグを肩に担いで署を出た時、何か記事になりそうな事件が無いかと目を光らせているゴシップ誌の記者がリオンとマクシミリアンに近づいてくる。
「何か事件はありませんかね?」
「事件なら今日解決したぜ」
残念ながらゴシップ誌を賑わせるような事件は起きていないと肩を竦めるリオンに記者が尚も問いかけ、連日連夜事件を追いかけていた疲労から機嫌の悪さが頂点を極めていたリオンがその機嫌の悪さを目つきで表現し、その目つきのまま記者を睨み付ける。
「ねぇって言ってるだろうが」
人の話を聞いてなかったのか、その耳は飾りものかと目を眇めて嘲笑し、記者の顔色が変わるのも気にせずに歩き出すが、その背中にリオンが投げつけた嘲笑以上に侮蔑の思いが込められた一言がぶつけられる。
「……姉が人身売買をしていたのに、弟は今でも刑事を続けている、それは刑事達が身内を庇うからだってのは記事にならないか」
その言葉に鋭く反応をしたリオンが足を止めて記者の目を睨み付けるように振り返ると、その力だけで人が殺せそうなほどの光を青い瞳に湛えて唇の両端を持ち上げる。
「記事にしてみろよ。やってみれば良いじゃねぇか」
「リオン、やめろ」
まるで相手を挑発するような態度のリオンを止める為に肩に手を載せたマクシミリアンだったが、リオンが肩越しに振り返って笑みを浮かべたことに気付いて顔を強張らせてしまう。
咄嗟に手を止めてしまったマクシミリアンに目を細めたリオンは、もう一度記者の目を覗き込むように上体を屈めたかと思うと、なぁ、書いてみろよ、早く書けよと笑みを浮かべるが、記者が目を逸らした為に気が削がれたのか、身体を起こすと記者を一瞥しただけで特に何も言わず、顔を緊張に強張らせているマクシミリアンに申し訳なさそうな顔で小さく頷いてボストンバッグを担ぎ直して歩き出すのだった。
ウーヴェがその日の仕事を終えてクリニックから自宅へと向かっている時、助手席に置いた鞄の中から映画音楽が流れ出した為、少し先の交通量の少ない場所に車を移動させて携帯を取り出す。
「Ja.」
耳に宛がい、聞こえてくる声はきっと疲労困憊の極みだから低く掠れたものだろうと予測をしたウーヴェだがそれは見事に裏切られ、聞こえてきた声は明るいものだった。
その為少し拍子抜けした声でどうしたと返し今帰っている途中だとも伝えると、腹が減ったからなるべく早く帰ってきてくれとだけ答えられて頷くものの、その口調に何か引っ掛かるものを感じて眉を寄せる。
「リオン、いつ帰ってきたんだ?」
『ん? いつだっけ、覚えてねぇ』
その声に潜む何かをウーヴェが敏感に察したかと思うと、今すぐ帰るからもう少しだけ待っていてくれと語気を強くする。
『……オーヴェ……』
「ああ。すぐに帰る。だから待っていてくれ」
少しばかりの焦燥感に駆られながら携帯を助手席に投げ出し、背後をロクに見ることなく車を走らせたウーヴェが己の言葉通りに自宅に着いたのはリオンからの着信を受けてすぐだった。
玄関の鍵を開けるのももどかしいと舌打ちをしつつドアを開け、リオンの名前を呼びつつ長い廊下を足早に進んでリビングとキッチン、そしてベッドルームへと向かったウーヴェだが、見回した部屋にリオンの姿は無く、何処にいるんだと顎に手を宛がった瞬間、もう一つ大切な部屋を見落としていたと気付いてベッドルームを飛び出して目的の部屋へと駆け込むと、秋の夜風がウーヴェの髪を揺らして廊下へと吹き抜けていく。
「待たせたな」
「あれ、早かったな」
開け放たれているバルコニーへの窓に手を着き、ウーヴェの肝が冷えるようなことを平然としているリオンの背中に呼びかけると、バルコニーの外に向けて腰を下ろし柵から両足を垂らしていたリオンが肩越しに振り返って意外そうな声をあげる。
「なるべく早く帰ると言っただろう?」
だからそんな所にいないでこっちに来いと言いつつバルコニーに出たウーヴェは、リオンの目を覗き込んだ瞬間、立っているのがやっとなほどの恐怖に似た何かを感じ取るが、生来の負けん気の強さとリオンを思う気持ちから腿の横で拳を握って踏みとどまり、表情は穏やかさを保ったまま並んでバルコニーの柵に腕を載せ、真夏に比べれば日が沈む時間が早くなった為に暮色に染まりつつある街を見下ろす。
「――リーオ」
「……生きてりゃさ、色々あるよな、オーヴェ」
名前を呼ぶことで心の中にある思いを吐き出してくれと伝えたウーヴェにリオンが器用にバランスを取りつつ空を見上げるが、その横ではウーヴェが握りしめた拳の中で汗も握りしめていた。
このまま落ちてしまうのではないかという恐怖とリオンの心が危険な方へと一歩を踏み出しているのではないかとの恐怖が胸の裡で大きくなり、その恐怖を顔に出さないように必死に押し止めているウーヴェにリオンが暢気な声を掛ける。
「オーヴェ、生きてるのが辛いって考えたことあるか?」
声や口調は暢気だったが問われた内容に目を瞠ったウーヴェは、何故そんな質問をするのか問い掛けたいのを堪えて拳を開き、掌を見つめながら自嘲する。
「辛い、か……そうだな、いつも感じているな」
己が過去に経験した辛い事件、その事件から長い時間を掛けて立ち直りはしたものの、疲労困憊の時には決まって見る悪夢があったり、実際に自分が今ここにいて息をしてものを食べて好きな本を読む、そんな当たり前の日常の暮らしを送っていてはいけないのではないかという思いが常にウーヴェの背後には存在していた。
その事実をリオンは知っているはずなのにそれを問い掛けてくることから、おそらくは彼の姉であるゾフィーの事件に関連して何か不愉快な出来事があったのだろうと想像し、口を閉ざしたリオンの横顔を見上げて肩を竦める。
「生きているのが辛い、どうして生きている、それは……いつも何処かで感じていることだ」
「……だったら、どうして……」
辛いと思うことから逃げる-つまりは死を選ばないのかと問われていると感じ、もう一度拳を握って深呼吸をしたウーヴェは、無表情に見下ろしてくるリオンに穏やかに笑いかけて軽く目を見開かせると、少しだけ待っていてくれと言い残してバルコニーから部屋に戻っていく。
「オーヴェ?」
「すぐに戻る。だから待っていてくれ、リーオ」
待っていろと命じるのではなくいてくれと頼み、振り返るリオンに背中を見せたウーヴェは、己が何故死を選ばずに生きているのかへの答えを見せるためにリビングに入ると暖炉の一角に置いた二つのジュエリーボックスを手に取るが、写真立ての中で笑う姉弟に目を細めて同じ速さでリビングを出て行く。
「待たせた」
「?」
戻ってきたウーヴェが何かを手に持っていることに気付き、柵を跨ぐように姿勢を変えたリオンに苦笑しつつ向き直ってくれと頼み、その言葉通りに完全にこちらを向いてくれたことに礼を言ったウーヴェだったが、ジュエリーボックスの蓋を開けて中が見えるようにすると、逆光とそれ以外の理由から翳っている顔に驚きが次第に満ちていく。
「これがその理由だな」
何故死を選ばないのか、その最大の理由がこれだと笑い、驚くリオンの左の掌にジュエリーボックスを置くと、まずは己の右手薬指にそれを嵌め、次いで腿の上に置かれている右手を取って薬指にゆっくりと嵌めていく。
「このリングが……俺が今もこうして生きている理由だ」
ただ一人あの事件で生き残った己に対し、もう許されても良いはずだ、その荷物を半分背負ってやると言ってくれたお前と一緒にいる、一緒にいたい、その為に生きているんだと、気負うでもない穏やかさと優しさ、そしてウーヴェだけが持つ強さが伝わる声と表情で告げて笑みを浮かべると、リオンが唇を噛み締めてリングが嵌められたばかりの右手を握りしめる。
「オーヴェ……っ!」
本当に親しい人以外は知らないウーヴェの過去を教えられ、また身近でそれを実感していたことを思い出したのか、リオンの両手がきつく握りしめられごめんと謝りつつ項垂れたため、リオンの腕を引いてもたれ掛かってくる身体をしっかりと受け止める。
ひとまず落下の危機から脱出したことに胸を撫で下ろし、今度はリオンの心と顔に翳りを生み出すものを排除するため、微かに震える背中を抱き締めながら名を呼ぶ。
「――リーオ」
どうした、何があったと問いかけたいのをグッと堪えて名を呼び、腕の中の反応を確かめようとしたウーヴェの耳に、出来れば耳を塞ぎたくなるような声が流れ込む。
「……犯罪者の家族は……刑事をやっちゃいけねぇんだってさ」
それに、そんな刑事を庇う仲間達もどうかしているらしいと、地の底というよりは闇の中から響くような声にウーヴェの背筋が自然と震えるが、先程のマクシミリアンとは違ってその震えをしっかりと受け止めながらリオンの心と身体も受け止める。
「随分と思考が偏った人なんだな、その人は」
「…そうか?」
「現役の刑事が罪を犯したのならば分からなくもないが、ただ家族がと言うのはあまりにも狭量な考えだと思うぞ」
罪を犯したのは家族であり刑事本人ではないのだから、それを言った人の考え方が偏狭なんだと声に少しだけ怒りと呆れを混ぜて呟くと、背中に回っていた手がぴくりと揺れる。
「……オーヴェ……」
「いつも言っているな、リーオ ────顔を上げろ、前を向け。お前がお前の家族と共に歩んできた道を蔑むな。悔やむな」
お前の後ろに続いている道は、どれだけ辛く苦しくてもお前が前を見て歩き続けてきた証だと強い口調で語りかけてリオンの身体を震えさせたウーヴェは、周りからどんな声が聞こえてこようとも、お前が共に日々を送った家族の真実の姿はお前だけのものであり、またお前を支えてくれる仲間達もお前と同じだけ人を見る目の良さを持っているとも告げてぽんと背中を一つ叩くと、己の右手薬指にも嵌めたリングを空にいるだろう人たちに見せるように手を掲げる。
「……これが生きている理由では駄目か?」
お前の存在が俺が生きていく理由だ、そんな言葉はこの世の中にごまんと溢れていて陳腐さすら感じてしまうかも知れないが、嘘偽りのない本当の気持ちなんだと苦笑したウーヴェは、無言でしがみついてくるリオンの髪を撫でて首を傾けて柔らかな髪の感触を頬で確かめると本心を伝えるために語気を強める。
「だから……どうして生きているのか、生きているのが辛いなどと言わないでくれ……!」
生きることが辛くて思わず死を選びそうになる、死に逃げたくなることは確かに幾度もあっただろうしこれからも数え切れないほどあるだろうが、そのたびに自分は一人ではない、こうして支え合える人がいるのだと思い出してくれとも告げてリオンよりも強い力でその背中を抱いたウーヴェの耳に小さな子どもが親に謝るような声が流れ込み、謝罪を受け入れたこと、またそんな思いに囚われてしまったリオンを許すことを伝えるために背中を撫でて溜息をつく。
「……中に入ろう、リーオ。お腹が空いているんだろう?」
お前さえよければ一緒に食事の用意をしないかと誘いかけ、無言で頷かれて小さく笑みを零したウーヴェは、今日はさすがに手の込んだ料理は出来ないからレトルトのパスタでも食べようと告げてリオンの髪にキスをする。
「……ボロネーゼが食いたい」
「じゃあパントリーにあるかどうか確かめよう」
顔を伏せたままぼそぼそとオーダーをするリオンに苦笑しつつも己の前言を守るように今度はリオンの手を取り、小さな子どもにするように手を繋いで部屋に入ると、リオンがウーヴェの腰に腕を回して身を寄せてくる。
「こら、歩きにくいぞ」
「……ダメ」
「何がダメなんだ、リーオ」
駄目だというのは俺の言葉だと笑ってリオンを見ると、心の翳りの大半が消失したようで顔にも明るさが戻りつつあった。
長らく曇っていた空が晴れて日が差してきた時の感覚を不意に思い出し、いつかも告げたがやはりリオンにはいつも笑っていてほしいと改めて気付いたウーヴェは、足を止めて訝るように見つめてくる青い瞳に目を細め、頬を両手で挟むように向き直ると同時にリオンにも望まれている笑みを浮かべる。
「リーオ。――俺の太陽」
どんな時もいついかなる時も先程のように暗く沈んでいたとしても、お前は俺にとって太陽だと、二人の間では最早言い慣れたが何よりも大切な言葉を告げて驚く唇にキスをする。
「……オーヴェ」
「どんな顔を見せてもお前は俺にとっては太陽なんだ」
空に輝く太陽にも黒点があるように暗い顔を見せても構わないが、だがそれでもその黒点もいつまでもその場に止まっている訳ではないとも笑い、落ち込んだり気分がふさぎ込むことがあってもそれ以外の時は笑ってくれと言いながら額を軽くぶつけると、ようやくリオンの顔に小さな笑みが浮かび上がる。
「オーヴェ……オーヴェ」
「腹が減っているときはまともな思考が出来ない。だから今からちゃんと食事をしよう」
そして、腹が満たされた後にも同じような思いがまだ残っているかを二人で向かい合って確かめようと告げ、リオンが頷くのを見て胸を撫で下ろすと、鼻先を触れ合わせてキスをする。
「早く用意しようぜ、オーヴェ」
「ああ」
ようやく完全に雲が消え雨が上がった青空のような笑顔を見てウーヴェも安心からか空腹感を覚え、リオンが望むパスタソースを買い置きしてあるか確かめようと笑い、互いの腰に腕を回してキッチンに向かうのだった。
白熱の時が過ぎ気怠さと穏やかさに包まれた時間を迎えた二人は、リオンの背中をウーヴェが守るように身を寄せ、リオンの腹の前に自然と垂らされている右手にウーヴェが右手を重ね、二つのリングが触れあう金属音を楽しむ。
さっきまで二人が身を置いていた熱と快楽の世界でもそのリングは控えめながらも己の存在を互いに伝えあっていて、今もまたそれを感じる為に手を重ねていたが、ウーヴェの手の下から抜け出したリオンが今度はウーヴェの手の甲に掌を乗せて軽く指を折り曲げる。
きゅっと組まれる手に無意識に安堵の溜息を零すリオンの素肌の肩にキスをし、お休みと囁いたウーヴェの耳に小さな謝罪の声が届けられるが、もう気にしていないから今日はゆっくりと休めと今度は頬にキスをし、顔を少し持ち上げて振り返るリオンに笑いかける。
「悪いと思うのなら、もう今日のようなことをしないでくれ、リーオ」
「…………うん、ごめん」
「ああ。もう良い」
本当にもう疲れているだろうから今日は寝よう。もしもこの事について考えたくなったのならば朝にでも考えようと苦笑し、リオンが頷いたのを確かめたウーヴェは、重ねて組まれている手を軽く持ち上げてリオンの顔の傍に下ろすとそのまま頬を撫でる。
「今日さ……マックスにも無様な顔見せちまったけど、何も言われなかった……」
「そうか。じゃあ明日職場に行ったら真っ先に礼を言った方が良いな」
「どうして?」
「お前がそんな貌を見せても彼は逃げなかったし離れて行かなかったんだろう?」
だったらその事に感謝をして同じ醜態を晒さないように気をつけるだけだろうと笑うと、リオンが意外そうな顔を振り向けてくるもののウーヴェの思いに気付いて納得出来たからか、唇の両端を軽く持ち上げる。
「…………うん」
「お休み、リーオ。良い夢を」
「……うん。オーヴェもお休み」
今日は一日色々あって心身ともに疲労しているがせめて夢の中では平安を、そう願いつつ同時に目を閉じた二人だったが、リオンの穏やかな寝息が聞こえてくるまでウーヴェはじっと恋人の広い背中に胸を宛て、組んだ手から力が抜けるまでは手を重ねたままでいるのだった。
そして程なくしていつもと変わらない穏やかな寝息が聞こえはじめ、手からも力が抜けたことに気付いたウーヴェは、リオンの手の下から抜け出すと右手薬指で同じ煌めきを放っているリングを一撫でし、緩く上下する素肌の肩にそっとキスをすると、今度は自身の安眠の為にリオンの腰に腕を回して深い眠りに落ちる準備を整えるのだった。
その日以降、二人の右手薬指には一見すればシンプルな、だが内側には二人の思いをしっかりと刻み込んだリングが控えめに輝くようになるのだった。