恋はするものじゃなくて、落ちるもの。
そう言ったのはどこの誰だっただろうか。
姉が描いているマンガで読んだ言葉だったかもしれないし、昔の文豪が物語の中で書いた言葉だったかもしれない。
俺の頭の中でいま、その言葉が反響している。
山川さんが、目の前でぽろぽろと涙を落としている。あの夏の日みたいに、夕陽が彼女の輪郭をなぞって、きらきらと光っている。涙が止まらないらしい彼女をぼんやりと見つめて、今さっき言われた言葉を思い返す。
――香村くんの恋人にしてくれませんか。
どうしてそんなことを言ってきたのか、全く分からない。
だって彼女とは数日前に初めて話した――しかも講義の中のディスカッションで趣味の話をしたわけでもない――だけで、それ以上関わりがあったわけでもない。
山川さんは結構目立つ人だったから、一方的には知っていた。だが俺は、彼女の目に入るほど有名ではないと思う。学年内で有名な璃空なら分かるけれど。
一体俺の何が彼女の琴線に触れたんだろうか。心当たりが全くない。
それに泣いている理由も分からなかった。俺が告って振られて泣くなら、まあ玉砕したんだな、と納得がいくけれど。
ただ、彼女が彼女自身の想いを言葉に懸命に詰めたことだけは、はっきり分かる。
でもどうして、俺に?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
ハッと思い直してポケットを探る。未開封のポケットティッシュを取り出して差し出したら、山川さんは不意を突かれたのか、弾かれた様に顔を上げて俺とティッシュを交互に見た。
「よかったら使って。あんまりいいやつじゃないけど」
登校する時に駅前でもらった物だ。彼女はまたくしゃりと顔を歪めて、ありがとう、と滲んだ声で受け取ってくれる。
もしかして罰ゲームか何かで、俺に告白をしてきたのだろうか。
過ぎった考え。周りを見回したけれど、夕陽に照らされた中庭には俺と彼女以外誰もいなかったし、物陰に人影も誰かの足音もない。
もう一度山川さんを見れば、ティッシュを両手で握り締めたまま、やっぱりぽろぽろと涙を落としている。そんなに泣いたらきっと目が真っ赤に腫れてしまうのに、彼女の涙は止まりそうにない。
「山川さん、少し歩かない?」
多分このままだと彼女は泣き止まない。そんな気がした。
一つのことを意識しているとずっとそればかり繰り返してしまうから、別のことをして気を紛らわせる方がいい。そう教えてくれたのは、専攻が心理学の縁だ。マジでありがとうな、縁。
俺の提案に、山川さんは頷いてくれた。
人があまり通らなそうな場所を選んで、遠回りしながらコンビニへ向かって歩く。
山川さんも落ち着いてきたのか、鼻をすする音の間隔が空いてきた。
ほっと胸を撫で下ろして、口を開く。
「落ち着いた?」
こくんと首が縦に振られる。よかった、と笑えば、恥ずかしいのか彼女は下を向いてしまった。
「さっきは驚いて何も言えなかったけど、山川さんの気持ちは素直に嬉しかったよ。伝えてくれてありがとう」
また、こくんと首が振られる。彼女の横顔の輪郭を夕陽が象って、光っている。黒髪も夕陽に透けると黄金色にみえるんだなぁ、と場違いなことを考えながら、ゆっくりと歩いた。
段々鮮明になってくる思考で、一つの結論を導き出す。
「さっきの返事だけど、少し待ってもらえるかな。ちゃんと考えたいんだ」
辿り着いたコンビニの前で、足を止めて自分の想いを伝える。
山川さんは口を引き結んで、ゆっくりと頷いた。その瞳にはさっきまでの涙はない。
意思の強そうな光を放つ瞳を見つめて、ありがとう、と伝える。
「ちょっとここで待ってて」
山川さんを待たせて、頼まれた微糖の缶コーヒーとカフェオレ、自分用の緑茶と、小さめのほうじ茶を手にとって、さっと会計を済ませて彼女の所に戻る。
待っていてくれた山川さんに、半ば押し付けるようにほうじ茶を渡す。少し戸惑っているようだったけれど、泣いた分の水分は取ったほうがいいと思うのだ。自己満足と思われようが構わない。返事も待たせてしまうから、お詫びの意味もある。
「次の『哲学と歴史』の講義までには必ず返事するから」
「うん。……ごめんね、香村くん。困らせるようなこと言って」
「気にしないで。俺がちゃんと考えたいだけだから」
じゃあまた、とその場を離れる。
図書館に入る前にもう一度見た彼女は、握り締めたほうじ茶を見つめていた。
自習室に向かいながら、さっきの一幕をもう一度頭の中で反芻する。
初めて告白された。
でも不思議と、心臓はいつも通りのリズムで動いている。まだ実感がないからなのかもしれない。飛び上がるほど喜ぶのを想像していたのに、意外と冷静だな、と他人事のように思う。
本来ならあの場で返事をするべきだったのだろう。
でも、恋人にしてくれませんか、という言葉を聞いた時、真っ先に頭に浮かんだのは璃空だった。
どうして璃空が浮かんだのかは、俺自身も分からない。
こっちが本気じゃないのが申し訳ないから、という璃空の言葉を聞いていたからだろうか。それか何となく、二人に相談したいと思ったからかもしれない。
はあ、と一つ溜息を落としてやっとたどり着いた自習スペース。
そろりと、自習スペースの入口から中を覗く。
璃空も縁も相変わらずパソコンの画面を食い入るように見ていて、頬が緩んだ。
肺に溜まっていた何かが、全部鼻から抜けていく。
俺自身、随分と緊張していたんだな、とこの時初めて知った。
人の想いに触れる時、しかもそれが自分に向けられるなんて経験、今までしたことがないのだから当然と言えば当然なのだが。
ふと顔を上げた縁と目が合って微笑みが返される。
柔らかく漏れた息をその場に落として、俺は引き寄せられるように二人の元に戻った。
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