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ふわあ…最後まで一気に読んじゃいました。循くんのお父さんの声、その存在の重みがずっしりきますね。特に「最後までやれ」という言葉が、本人の力を奪うように働いているところが切なかったです。槙が「体大事にして」と言ったあの優しさが胸に沁みました。玲央との電話のシーンも良かったなあ。現実じゃないことと向き合いながらも、ちゃんと明日の約束をする循くんの強さに少しだけ希望を感じました。続き、すごく気になります。
床に就くと、数字が少しずつ変わった。
テーブルで計算したときには、抜けはないと思ったのに、明かりを消して横になると、昼間見たレシートの別の行が浮かんだ。あれも足しただろうか。今月の分だけ足したのか。来月も同じお金が出ていくのに。循は携帯電話の画面をつけ、残高を確かめた。電卓に金額を入れているうちに、求人へ移った。今できる仕事を探さなければならなかった。何もしないよりはいいだろう。
けれど、求人を読んでいると、何もしないよりはいいという理由だけで始めた仕事を、どれだけ長く続けられるのかを先に考えてしまった。また三か月で辞めたら、どうするのか。今度は最後までやらなければならなかった。最後までとは、いつまでなのか。そこが自分を必要としなくなるまでだろうか。循は仕事内容を読み直した。初めは習うことが多いだろう。うまくできないあいだも通い続けられるのか、また別の理由をつけて辞めるのではないかと考え、応募書類を開けなかった。
一つのことは最後までやれ。父の声が聞こえない夜にも、その言葉は浮かんだ。本当に聞こえたのか確かめようと、身を起こしたこともあった。けれど、もう何も聞こえなかった。天井を見て横になったまま、父が次に言うことを、自分が先に思いついたようだった。いつまでそんなふうに生きているつもりだ。これからどうするつもりだ。よく聞いた言葉もあれば、そのたびに心の中で付け足していた言葉もあった。夜は、一つ思い浮かべると、もう一つへと続いた。
父は、何をするにしてもうまくやらなければならないと言った。どうせやるなら、一番うまくやるべきじゃないかと言った。すると循は、自分が成し遂げた話を少し減らした。どこまでできたかより、まだできていないことを先に説明するようになった。今喜んで、後でもっとよくできなかったら、父が失望する瞬間まで自分が引き受けなければならない気がした。だから、いいことがあっても、その次に何をすべきか考えた。まだ足りないことがあるなら、先に言っておくほうがよかった。
一番にならなければならなかった。少なくとも、誰かが自分を別の人間と入れ替えようと思わないくらいには、うまくやらなければならなかった。同じお金で、もっとうまくできる人がいるなら、自分を残しておく理由はないではないか。いい人だという言葉で生活費は払えなかった。頑張ったと言われて家に帰っても、翌日引き落とされる金額は変わらなかった。循は求人の給料を見て、そこで求められる仕事を読んだ。自分にもできそうなところより、きちんとできそうにないところのほうが、長く目に残った。
今は、うまくやる機会さえなかった。応募書類を書くには、辞めた理由から説明しなければならなかった。そこで働き続けるのは難しかったと書けば、我慢のできない人間になりそうだった。別の仕事をしてみたかったと書けば、そのあいだ何をしていたのかと聞かれそうだった。どちらを書いても、父にした言い訳と似てきた。循は文を書いては消した。理由を少し違う言い方にすれば、別の人間に見えそうな気がしたが、何度直しても、三か月で辞めた事実は変わらなかった。
応募しなかった求人の締め切りが過ぎた。翌日には、似た求人が出た。今度こそ送らなければと思いながらも、まず前の求人と条件を比べた。少しでもいいところを探しているあいだに、すぐにでも働けたかもしれないところが消えていった。明け方になると、さらに調べる力もなくなった。かといって、眠れるわけではなかった。
父が生きていたころにも、遅くまで明かりをつけていた夜はあった。開いた部屋のドアの前に立ち、まだ寝ないのかと尋ねた顔を思い出した。循が答えないと、父は部屋の中を一度見て、戻っていった。廊下を通り過ぎる足音と、台所で水を注ぐ音が続いた。あのころは、そんな音のせいで集中が途切れるのだと思っていた。今は、部屋の外から何の音もしなかった。循は明かりをつけたまま横になり、父がもう一度だけ通り過ぎてくれたらいいのにと思った。
そう思うと、また腹が立った。通り過ぎて、また何を言うつもりだ。今、何をしているのか。それで食べていけるのか。いつまでそんなふうに生きているつもりなのか。尋ねてばかりいないで、答えをくれないものだろうか。どうすれば最後までやったことになるのか。いくら稼げば、心配しなくてよくなるのか。誰よりうまくできれば、もう比べなくて済むのか。循は父ならしそうな答えを考えた。そんなことは自分で見つけろと言いそうだった。すると、また答える言葉ができた。自分で見つけなければならないのなら、見つけるあいだは、少し待ってくれてもよかったのではないか。
生きていれば途中で遮られたはずの言葉も、今では最後まで考えられた。父なら言いそうな反論を思い浮かべ、その反論にも答えた。部屋には自分しかいなかったので、何を言っても、次には自分の考えた言葉が返ってきた。しばらくそうしていると、勝ったという気分よりも、父にあまりに長く腹を立てていたという思いが残った。最後に会ったときも、こんなふうに話していただろうか。循は、その日の顔を思い出そうとした。
小言ははっきりしているのに、自分の話を聞いて少し笑った顔は、長く見つめようとするほどぼやけた。携帯電話で写真を探しても、求めている顔はなかった。写真の中の父は、たいていカメラを見ていた。循が思い出したいのは、ほかのところを見ていて、ふと振り向いた瞬間だった。何を言われたのかがわかり、少し遅れて笑った顔。あのとき、もう少し面倒くさがらなければよかった。写真を残せなくても、その姿をもっと長く見ていることはできたのに。
循は携帯電話を置いた。父が生きていれば、また同じことで言い争っていたかもしれなかった。そう思うと、今後悔していることも、いくらか仕方がなかったように感じられた。けれど、それを理由にすれば、父が戻ってきても、自分は何も変わらないということになった。恋しく思いながらも、同じことで腹を立てる気持ちをどうすればいいのかわからなかった。父に会いたいという言葉まで嘘なわけではなかった。だからといって、戻ってきた父の言うことを、今度はすべて受け入れられそうにもなかった。
空が明るくなるまで、循はその思いから抜け出せなかった。
◇
声がまた聞こえる日には、循はわかりましたと答えた。この前もわかったと言ったのに、今度は違う説明をするべきだろうか。辞めた理由からもう一度話そうとしているあいだに、父の言葉は次の文へ移った。自分の答え方が悪くて同じことを言われているのか、何を言っても、初めから同じ言葉しか返ってこないのか、わからなかった。待ってから答えようともしたが、聞いているうちに、もう言った言葉がまた出てきた。
「わかったって言ったじゃないですか」
声がやんでからも、しばらくそのまま座っていた。もう少し待てば、違うことを聞けたかもしれなかった。あんなふうに言わなければよかっただろうか。父をまた呼んでみたが、返事はなかった。聞こえるときには、もうやめたいと思い、聞こえなくなると、最後に自分がどんな声で答えたのかが気にかかった。終わったと思って、ほかのことを始めるまでにも時間がかかった。その日も、床に就くのが遅くなった。
昼間は、書類を読んでは同じ行に戻った。名前と日付は読んだのに、何をしろと書いてあったのか覚えていなかった。母に何かあったのかと尋ねられると、必要以上に大きな声で答えた。何でもないと言い添えてから、あんな返事をする必要はなかったと思った。けれど、謝ろうとすると、そのあいだに父の声が聞こえたのではないかと、先に気になった。声を聞かなかった日にも、同じだった。自分が答えているあいだに過ぎた音は、もう確かめようがなかった。
榛名 槙に送るメッセージは短くなった。今日も聞こえた。今度も同じこと。今は何も言わない。循は、聞こえたときに何をしていたかまで書きかけて、やめた。この前とあまり違わなかった。返事が来ないと、槙はまだ仕事中なのだろうと思いながらも、やり取りの画面をまた開いた。送信した時刻を見て初めて、それがすべて同じ夜に書いたメッセージだとわかった。
その後に訪ねてきた槙は、長くはとどまらなかった。作業場に戻る途中だと言った。循は、この前引き止めたことを思い出し、先に帰ってもいいと言った。槙は、まだ座ってもいないでしょと言って、椅子を引いた。少しは眠っているのかと聞かれ、循は、まるで寝ていないわけではないと答えた。朝に目を閉じて真昼に起きたこともあったし、書類を読みながら椅子で居眠りもした。そのくらいは、寝たうちに数えていいだろう。ろくに眠りもせずに、どうにかして父の言葉に答えようとしていることを、槙に知られるのが嫌だった。
槙はそれ以上尋ねず、しばらく話をして帰った。循も、次は少し寝ておかなければと思った。けれど、その夜も明かりを消さなかった。横になって考えるくらいなら、読んでいた物をもう少し読み進めるほうがいい気がした。何枚読んだのか覚えていないまま、明け方になった。
◇
その次に槙が訪ねてきたとき、循はテーブルに広げた紙を三つの束に分けていた。
「昨日、何時に寝た?」
「遅くに」
「何時くらい?」
「三時かな。そのくらい」
「メッセージが来たの、五時を過ぎてたけど」
「じゃあ、その後」
「どのくらい寝たの?」
「よくわからない」
答えてみると、わざと話をはぐらかしている人のように思えた。横にはなっていた。目も閉じた。ただ、目を閉じた後に考えたことが、起きてからも続いていたので、そのあいだのどこからが眠りだったのかわからなかった。時刻を確かめるたびに目を開け直したのだから、少しずつは眠ったはずだった。循はそう説明しかけて、結局どのくらい寝たかわからないという答えと変わらなそうで、やめた。
槙は工具バッグを足元に置いて座った。今度は開けなかった。この前のように持ってきた物を出すなら、循も読んでいた紙を少し寄せるつもりだった。けれど、槙が何もせずに座っているので、彼女のほうに何かあったように思えた。
「何かあった?」
「眠れてないみたいだから」
「やることが、いろいろあるんだ」
「わかってる」
「これ、全部やってから寝ればいい」
槙はテーブルの上を見た。書類を数えているような気がした。何日も同じテーブルに座っているのに、少しも減っていないように見えるだろう。それは自分でもわかっていた。父の書類と自分の書いた紙を分けておけば、少しは整理したように見えたが、終わらせるべきことが減ったわけではなかった。槙にもそう見えそうで、何をしたのか先に説明したくなった。
「何もしてないわけじゃないよ」
「そんなこと、言ってない」
わかっていた。槙はまだ、何をしたのかと尋ねてもいなかった。けれど、説明しなければ、ずっと座っていただけの人間に見えそうだった。寝るように言われたときにも、循はなぜまだ眠れなかったのかから話さなければならなかった。
「今月出ていくお金も見なきゃいけないし。家で使う分もあるし。父さんのものを整理したら、それで終わりってわけじゃないんだ。来月もまた出ていくんだから。応募先も探してる。何か所かは、応募書類もほとんど書き終わってるし。今送るなら、いつ面接に行けるのか、先に確かめなきゃいけないからなんだ」
槙は聞いていた。循は、何か所なのか、何が残っているのかまで説明しようとした。話すうちに、自分は眠れなかった理由を話していたのか、まだ応募書類を送らない理由を話していたのかもはっきりしなくなった。それでも、話すのをやめると、槙にまた寝るように言われそうだった。
「それなのに寝ろって言うなら、そのあいだ、これは誰がやってくれるんだ?」
言い終えてから初めて、槙にやってくれと言っているように聞こえたとわかった。そのつもりはなかった。彼女に代われることでもなかった。ただ、寝て起きても、すべきことはそのまま残っているのに、今やめることに何の助けがあるのかわからないと言いたかった。
「代わりにやるとは言ってないでしょ。ただ、心配だから聞いてるの」
循はすぐには答えられなかった。心配だと言われたのだから、大丈夫だと言えばよかった。けれど、大丈夫だと言えば、なぜ眠れないのかという問いにまた答えなければならない気がした。大丈夫ではないと言えば、どこまで説明することになるだろう。槙に任せられない仕事を並べながら、それでも自分を心配してくれとは言いたくなかった。
「寝ようとして横になると、もっと考えるんだ」
「お父さんのこと?」
「それもある」
生活費と、まだ返事をしていない連絡。家族が次に必要だと言うだろうもの。横になると、一つずつ浮かんだ。今度は長く勤められるところを探さなければならなかった。けれど、長く勤めるだけでは足りない気がした。何かを始めたらうまくやらなければならず、ほかの誰かに押しのけられれば、また初めからやり直さなければならなかった。今より年を取り、手元のお金も減った後では、どうなるのだろう。三か月で辞めた理由や、その後すぐに別の仕事を始められなかった理由を説明するのに必要な時間も、長くなり続けていた。
「どこに入ったって、うまくやらなきゃいけないだろ」
「辞めた仕事の話?」
「何でも。自分よりできる人がいたら、その人を使えばいいんだから」
「どこで、そんなふうに言われたの?」
どこか一つの場所で聞いた言葉ではなかった。求人にそう書いてあるわけでもなかった。ただ、人を採るなら、よりよいほうを選ぶはずだった。それなら、よりよい人間にならなければならなかった。もっと優れた人が現れたら、またその上へ行かなければならなかった。循には、誰かに言われなくても、当然と思えることだった。
「どこでも」
「まだ、どこに行くかもわからないでしょ」
その言葉が、妙にいら立たしかった。働けるところがないから、こうしているのだ。入った後にうまくやれるのか、また辞めるのではないかもわからないから、応募書類に一行書くのにも時間がかかった。槙には今日やる仕事があった。バッグに入れて持ち歩き、時間を注ぎ、終われば返せる仕事があった。そっちは、仕事があるだけいいじゃないか。そう言いかけて、やめた。作業場を移ろうかと悩んでいた話を思い出した。広いところへ行けばいいんじゃないかと言ったとき、家賃も代わりに払ってくれるのかと尋ねた顔。あのときは、払えないという答えでも、二人で笑えた。
「ごめん」
槙は少し首を横に振った。循がそれ以上話さずにいると、今も父の声が聞こえるのかと尋ねた。
「いや」
「じゃあ、少し横にならない?」
「これ、もう少しやったら」
槙は急かさなかった。かといって、別の話を始めもしなかった。循は読んでいた紙を読み直した。どの束に入れるつもりだったか、さっきまでわかっていたのに思い出せなかった。最初の行を二度読んでも、同じだった。循は紙を置き、背もたれに体を預けた。槙はまだバッグを開けずに座っていた。
「槙は?」
「私も、もう少ししたら行かないと。少しでも寝るなら、もう帰るよ」
「いや、まだ寝ないけど」
そう答えながらも、循は目を閉じた。そばに誰かがいるのに、一人でそうしているのは落ち着かなかった。槙が何か話したら、すぐに目を開けるつもりだった。けれど、彼女は携帯電話を取り出し、たまっていた連絡に返事をした。指が画面をたたく音が、ときどきした。わざわざ話し出さなくてもいいあいだは、循はもう少し背を預けていた。
紙を置いても、計算していた金額が浮かんだ。どうしても必要なものなら、買わなければならなかった。そのためには、どこで、いくら使うのを減らせばいいのだろう。来月には、仕事を始められるだろうか。考えるのをやめようとすると、まだ終えていないことを忘れて休むように思えた。父の声が聞こえたら、すぐに目を開けなければ、とも思った。もうやめてほしいと思いながら、本当に何も言わなくなると、また呼びかける用意をしていた。循は、目を閉じていても休み方がわからないと思った。
結局、また目を開けると、槙が彼を見ていた。
「どうしたの?」
「何でもない」
槙は眠れないのかとは聞かなかった。返事を書き終えて、携帯電話を少し置いた。循は、もう立たなければならない気がして体を動かしたが、そのまま座っていた。眠れなかったからといって、また書類を手に取る必要はないだろう。槙が何も言わないので、自分も眠れなかった理由まで説明せずに済んだ。そうしてもう少し座っているあいだは、テーブルに手を伸ばさなかった。
槙の帰る時間になっても、循は眠れなかった。玄関までついていくと、槙は靴を履きながら言った。
「メッセージは送っていいから。ただ、朝になってから見ることもあるからね」
「わかってる」
「声の話だけじゃなくて、少しは眠れたかどうかも教えて。体、大事にして」
よく眠れたと言える夜が、いつ来るのかはわからなかった。それでも、それは父が何を言うかとは関わりなく、自分が知らせられることだった。声が聞こえなくても送れる言葉が一つできたと思うと、循は今度はすぐに答えられた。
「うん」
槙が帰ると、循はまたテーブルについた。紙は相変わらず三つの束に分かれていた。さっき、どれを読んでいたのか、今は思い出せた。手を伸ばせば、また始められた。循は最初の行を目で追い、今度は手に取らずに、そのままにした。
◇
その日の夕方、鷺沢 玲央から、蝶の写真はあるかとメッセージが来た。循の送った、蝶と父の夢の話を、今になって読んだのだという。
循は、槙が初めて訪ねてきたときに撮って送ってくれた写真を送った。時計の下にとまる蝶と、少し傷んだ左の翅の先が写っていた。目が覚めてからも声を聞くのだと付け加えると、電話がかかってきた。
「寝てるあいだじゃなくて?」
「うん。何日か前には、槙がそばにいるときも聞いた。返事をしてるところは見たけど、父さんの言葉は聞こえなかったって」
「頭の中で聞こえるってことだよな?」
「そんな気がする。耳をふさいでみたわけじゃないけど。どこから聞こえたのかは、わからない」
玲央は、そのときも家にいたのかと尋ねた。循がそうだと答えると、何時ごろだったかと聞いた。循は槙と交わしたメッセージを開いた。正確な時刻はわからなかったが、彼女が着いてから、ずいぶん経ったころだった。どこに座っていたのか、何を聞いたのかも尋ねた。そういうことなら答えられた。父は、自分が仕事を辞めた話をしていた。循はそのことも話したが、玲央はなぜ辞めたのかとは聞かなかった。父が生きていたころにも言っていたことなのかと尋ねた。
「ほとんどそのまま」
「循が答えると、次のことを言うの?」
「そうみたいなんだけど」
「槙が来たときも?」
「うん。でも、途中で聞き逃した」
その次の言葉を聞けていれば、わかったのに。槙が自分を見ていたので、彼女にどう聞こえているのか気にしているうちに、聞き逃した。循はそこまでは説明しなかった。玲央には、まず父の言葉と、自分の答えた言葉を伝えた。玲央が次に何を聞くか待っているあいだも、同じ話を初めからやり直していると思った。それでも今度は、なぜそんな言葉が聞こえるのかと尋ねられそうだった。
玲央は、こういう話が好きだった。同じ幽霊写真が、それぞれ違う国の廃病院で撮られたものとして出回っていると言って、どの写真にも同じ窓枠が写っていると指摘してくれたこともあった。それなら偽物ということかと尋ねると、一枚の写真が偽物であることと、そういう現象がないことは別だと言った。資料を探して説明するとき、彼は他愛ない話にも少し楽しそうだった。循はそのとき聞いた説明を思い出しながら、尋ねた。
「玲央、こういうのと似た話、読んだことある?」
「似た話はある。でも、そこに書いてあったのと同じことが循に起きてるのかは、わからないよ」
「影の話は? 前に話してたやつ」
以前、玲央が自分の足元の影をつかんでいるあいだ、体を回せなかったことがあった。循はふざけて、水のボトルを少し遠くへ押しやった。玲央は取れないと笑い、先に手を離した。するとまた体を回して、ボトルを取れた。あのときは、片手を離せば済むことだった。どこまでやれば危険なのか、調べようとも思わなかった。今思い返しても、その場面に父の声との共通点を見つけるのは難しかった。ただ、玲央にも、ほかの人は体験しないことがあるのは知っていた。
「まだ、わからない。写真は、今日撮ったの?」
「いや。槙が初めて来たとき」
「今もいる?」
循は時計の下を振り返った。壁紙の継ぎ目しか見えなかった。椅子から立ち、近づいてみたが、蝶はいなかった。床に落ちたかもしれないので、テーブルの下を見た。書類の封筒の脇や、椅子の脚の後ろにもいなかった。循が探しているあいだ、玲央は電話を切らずに待っていた。
「いない。さっきまでは、いたんだけど」
言ってから、さっきとはいつだったのか考えた。槙が帰るときに見ただろうか。一日に何度も同じ壁を見たのに、最後に蝶がとまっているのを見た瞬間は、思い出せなかった。ずっと同じところにいたので、見るたびに確かめてはいなかった気もした。循は窓が閉まっているのを見て、カーテンを少しめくった。窓枠と、折り重なった布のあいだにもいなかった。
「どこかにとまってるんじゃない?」
「わからない。窓も開けてないのに」
「声がどこかへ来いって言っても、すぐについていくなよ」
「そんなことは言ってない」
「なら、いいんだけど。何なのか、こっちにもわからないから言ってるんだ」
循はカーテンを離し、窓の前に立っていた。どこかへ来いと言われたことはなかった。行くなと言われたこともなかった。それなのに一日中この部屋で、父がまた話し出すのを待っていた。槙がいるときもそうだったし、一人になってからもそうだった。聞こえないあいだにやるべきことがあったのに、いざ始めると、その間に何か聞き逃すのではないかと気にしていた。玲央と話す今も、部屋が静かかどうかを確かめていた。
「明日、時間ある?」
「夕方なら。どうして?」
「会って、少し話そう」
「こっちに来る?」
明日の夕方、少し家を空けるだけだった。それでも、そのあいだに父が話し始めたらどうしようという考えが先に浮かんだ。循は、これまで聞いたことはもう玲央に伝えたのだと思い出した。明日も似た言葉を聞くかもしれなかった。それなら、帰ってから話せばいいだろう。少し前に、眠れたかどうか知らせると槙に答えたように、今度もひとまず約束を決めたかった。
「うん。行くよ」
◇