テラーノベル
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翌日の夕方、循は上着を着て、携帯電話を確かめた。
鷺沢 玲央から、待ち合わせ場所を変えたいと連絡が来ていた。知り合いに少し家へ寄ってほしいと言われたので、古い工場の向かいの路地まで来られるかという。九時前には終わると思う、と書いてあった。
循は、今から出ると返した。
窓の外はもう暗く、向かいの建物には明かりのついた窓が見えた。テーブルには、読みかけの書類が広げてあった。昼から座っていたのに、片づいたものはわずかだった。出かけて帰ってきたら、今日はもう読めない気がした。だからといって、上着まで着てからまた座りたくはなかった。循は書類をそのままにして、部屋の明かりを消した。
建物の外には細い雨が降っていた。循は玄関で持ってきた小さな傘を開いた。大通りに止まった車のブレーキランプが、濡れた地面に映っていた。横断歩道の前では、人々が傘を少しずつ傾けて、互いに場所を空けた。循は上着の襟を立て、そのあいだに立った。
玲央には、何から話せばいいのだろう。
夢の中で聞いたときと、起きているときの違いから説明すればいいのだろうか。槙がそばにいた日には、咳も聞こえたこと。自分が答えているあいだ、槙には父の言葉が聞こえなかったこと。昨日、電話で話したときには、そうしたことを順番に話せなかった。玲央の質問に答えながら別の日のことを持ち出し、そうしているうちに、先に話すつもりだったことを忘れた。今日は顔を見て話せるのだから、少しはましだろう。循は横断歩道の向こうを見ながら、初めて声を聞いた日から、もう一度考えた。
信号が変わった。前に立っていた人たちが動くと、循もついて歩いた。
今日はまだ聞こえていなかった。それも話さなければならない気がした。何日も続いていたと言っておいて、会った途端に今日は聞こえなかったと言えば、もう大丈夫になったように聞こえるかもしれなかった。けれど、家に一人でいればまた聞こえそうで、そうなれば、また何と答えればいいのか考えるだろう。循が出てきたのは、そのときまで一人で待っていたくなかったからでもあった。玲央にも理由がわからなくても、少なくとも何が続いているのかは知っておいてほしかった。
◇
古い工場の塀は、大通り沿いに長く続いていた。その向かいには低い建物が連なり、シャッターを下ろした店の上の階には、明かりのついた窓が見えた。循は路地の入り口で、携帯電話の地図を拡大した。印の場所までは来たのに、どのドアへ行けばいいのかわからなかった。
玲央は、路地の奥の階段の前に立っていた。眼鏡を外して拭いていたが、髪から落ちた雨水が、またレンズについた。循が近づくと、眼鏡をかけ、携帯電話をポケットにしまった。
「ずいぶん早かったね」
「俺も時間に合わせて来ればよかったかな」
「いや。こっちも今来たところ。上がって、ちょっと見てから下りればいいから」
玲央は階段の上を指した。上の階の玄関に明かりがついていた。
階段は建物の外壁沿いに、まっすぐ上の階へ続いていた。その下に、小さな出入り口と短いひさしがあった。循は傘を閉じて、ひさしの内側に立てかけた。手すりの向こうには、隣家の窓が見えた。ここで声を上げれば、あの家にも聞こえそうで、玲央に少し近づいた。
「何があったの?」
「前に修理屋で仕事を手伝ってた人なんだけど、家で変なものを見たんだって」
循は、玲央がもう少し話してくれるのを待った。玲央は家の前に着いたとメッセージを送ってから、ようやく話を続けた。
知り合いの女が何度も家を訪ねてくるのだという。もう来ないでくれと言ってもまた来て、そのことで警察に通報したこともあるらしかった。ところが今日は、その女はじっと立っているのに、壁の影だけが動いたのだという。
「その女、今も上にいるの?」
「うん。さっき来たって言ってた」
「それで、どうして玲央を呼んだの?」
「前に、俺に起きたことを話したことがあるんだ。同じものなのか、一度見てほしいって」
玲央は携帯電話をもう一度見た。新しい返事はなかった。
循は階段の上を見上げた。父の話は、下りてきてからすることになりそうだった。少し見てくればいいと言っていたのだから、長くはかからないだろう。ほかにも似たことを体験している人がいるのは、少し心強かった。玲央には初めて聞く話ではないのかもしれなかった。ただ、自分に何日も起きていることをどう説明するか考えながら来たのに、いざ会ってみると、先に尋ねることのほうが増えた。
「見たら、何なのかわかるの?」
「見ないとわからないよ。俺が見たものと同じかどうかも、わからないし」
循がうなずくと、玲央が尋ねた。
「今日も聞こえた?」
「いや。今日はまだ」
循は少し上の階を見てから、続けた。
「でも、声の前に咳が聞こえることがあるんだ」
玲央が、階段へ向けていた足を止めた。循は槙がそばにいた日のことを説明しようとした。あのときは、咳の後に言葉が続いたのだが。
◇
上の階で、何かが倒れる音がした。
二人とも顔を上げた。女の声が高くなった。何を言っているのかは聞き取れなかった。続いてガラスが割れ、短い悲鳴が階段を伝って下りてきた。
玲央が先に駆け上がった。
「通報してくれる?」
循は携帯電話を取り出した。画面に雨水がついていて、もう一度指を動かさなければならなかった。下の階のドアが開き、ジャンパーを羽織った男が出てきた。男も上を見上げていた。
電話がつながると、循はけが人がいるようだと告げた。住所を尋ねられ、階段脇の壁を見回した。
「ここの住所、何ですか?」
下の階の男が手を差し出した。
「貸して。俺が言うから」
循は携帯電話を渡した。男が住所を告げているあいだに、上の階へ上がった。
玄関のドアは半分開いていた。玲央は敷居の片側に寄って立ち、循はその後ろの踊り場から中を見た。下駄箱の脇を通れば、すぐ居間だった。居間の奥についた明かりが、入り口まで照らしていた。
ドアの内側には中年の男が立ち、そのそばに女の子がいた。男の左腕は、赤く火傷を負っていた。子供の頬からは血が流れていた。手の甲でこすったのか、口元まで赤い跡が広がっていた。向かいには若い女が立っていた。作業着の袖が片方まくれ、靴は片方しか履いていなかった。脱げた靴が玄関の隅に裏返っていたが、女は男から目を離さなかった。
割れたガラスは、居間からドアのほうへ散らばっていた。
「こっちを見て」
男は子供を自分の後ろへ押しやった。
「子供がけがしてるんだ。今は出ていってくれ」
女は子供を見た。唇が少し開き、また閉じた。子供の頬を見ていた目が、血のついた手の甲へ下りた。女はそちらへ手を伸ばしかけたが、男が子供をさらに後ろへ下げると、手を引っ込めた。
「そんなつもりじゃなかった。子供に何かしようと思って来たわけじゃないでしょ。私だって驚いて……待って。そんな目で見ないで、私の話も聞いて。嫌だって言われたのに来たのは謝る。でも、来なかったら、私には何も言ってくれないでしょ。何が悪かったのかくらい、言ってくれなきゃ、また同じことをしちゃうじゃない」
初めは子供を見て話していた。言葉を続けるうちに、女の視線はまた男に戻っていた。子供に伸ばしかけた手が、自分の袖口をつかんだ。まくれたところが少しほどけたが、女はそのまま握っていた。男が子供を連れて動こうとすると、女も一歩動いた。男はその前を通れず、また立ち止まった。
「やめてくれ。今、どうして来たのかが先なのか? 血が出てるんだぞ。病院に連れていくから、どいてくれ」
玲央がドアを開き、叫んだ。
「まず子供を外へ出しましょう!」
女は玲央を見なかった。
「だから、一言だけ言ってくれればいいじゃない。嫌だって言うだけじゃなくて、どうして嫌なのか。私がどうすればいいのか。嫌なことはやめればいいでしょ。直せばいいでしょ。でも、ただ来るなって言われたら、私はどうすればいいの? どこから間違えたのかもわからないのに、どうしてやめられるの」
男が壁側を回って出ようとすると、女もついて動いた。男はけがした腕を体につけたまま、子供を後ろへ下げた。女の言葉が速くなった。
「違う、全部話してくれって言ってるわけじゃない。一つだけ。何が悪かったのか、一つだけ教えて。そうしたら、それから……」
男は子供の顔を見ていた。子供は大丈夫と言ったが、男は手の甲でこすらないようにと言って、その手を取って下ろした。
女の言葉はそこで途切れた。また口を開いたが、すぐには声が出なかった。少し前までは、男が答えなくても話し続けていたのに、今度は、男が子供に話す言葉を最後まで聞いていた。袖を握る手に力が入った。男が子供の頬を確かめているあいだ、女はその顔を見て待った。
「ただ、私が嫌いなの?」
男が顔を上げた。
「私が何をしても? 変わっても? それなら、私にどうして……」
「今は、そんな話をしてる場合じゃないんだ」
女は口を閉ざした。男は子供の背中に手を回し、またドアのほうを見た。循の立っている場所からは、二人のあいだに子供の顔が見えた。子供は泣かずに、父親の袖を握るばかりだった。頬を流れた血が、顎の近くまで下りていた。循は体を脇へよけた。玲央もドアの内側へ一歩入り、道を空けようとした。
男が子供を連れて女の脇を通り抜けようとすると、女が振り向いた。
「待って。まだ話、終わってない」
声が高くなった。
「今じゃなかったら、いつ話してくれるの。また帰れって言われたら、私はいつ話を聞けるの?」
男は止まらず、ドアへ向かった。
そのとき、壁から黒いものが下りてきた。
循は初め、女の腕が動いたのだと思った。けれど、女の手は体の脇に下りていた。壁に映った手だけがドア枠に沿って長く伸び、男と子供が向かうほうへ差し出された。男が足を止めると、黒い指先も敷居の手前で止まった。
子供の手が、男の右の袖を握りしめた。
「パパ」
循はドアの脇に身を寄せた。自分がさらによけても、二人は出てこなかった。男はドアの前の黒い手を見下ろしていた。それをよけて足を踏み出せる場所を探しているようだったが、子供を連れて越えようとはしなかった。循も敷居を見た。道をふさいでいるものははっきり見えるのに、手でどかせるものなのかわからなかった。
玲央が壁に身を寄せた。
「少し待って」
手を伸ばした。手のひらが黒い手首を覆い、指がその周りをつかんだ。
女の肩が後ろへ引かれた。
ドア枠に沿って伸びていた黒い手が止まった。女が体を回そうとすると、壁の輪郭は長く引き伸ばされたが、玲央につかまれた部分は動かなかった。敷居をふさいでいた闇が、片側へ退いた。
「今のうちに出て」
下の階の男が、循の脇を通って中に入った。片手には携帯電話を持ち、もう一方の腕で、けがをした男の背中を支えた。女の子は父親の袖を握ったまま、ドアの前で止まった。
循は子供に手を差し出した。
「こっちにおいで」
子供が手を取らないので、循は肘の下を支えた。少しドアの外へ導こうとしたが、子供は反対のほうへ身を傾けた。
「パパも一緒に」
循は手に込めた力を緩めた。
父親が、けがした腕を体につけ、一歩踏み出した。下の階の男が、一緒に出ればいいと言って背中を支えた。そこでようやく、子供も動いた。循は腕を引かず、子供が敷居を越えるあいだ、支えていた。
部屋の中で、女が男を呼んだ。
「どこに行くの。まだ答えてないでしょ」
男は振り向かなかった。女が身を乗り出すと、玲央も一歩後ろへ引いた。壁をつかんだ手は、そのままだった。
循は子供を踊り場へ連れ出した。父親が後に続き、子供はドアの外へ出てからも、その袖を離さなかった。
「二人とも出たよ」
玲央が振り返った。循は、彼がすぐ手を離すと思った。けれど、玲央は階段を指した。
「もう少し下りて。そこじゃなくて」
下の階の男が先に階段を踏み、けがをした男を呼んだ。循も子供と一緒に、手すりのほうへよけた。
そのとき、女の膝が床についた。
ドアへ向かっていた影が、内側へ縮んでいた。長く伸びた指先が、女の足元へ戻った。けれど、玲央につかまれた手首だけは壁に残っていた。女はつかまれている側の腕を胸の前へ持っていこうとした。肩は震えたが、腕はついてこなかった。
循は玲央を見た。玲央はまだ壁に手を当てていた。
「玲央」
女が口を開いた。喉からは息の音だけが漏れた。
「その手を離して」
循が言った。玲央は女を見て、指を開いた。
女の腕が胸の前に戻った。体はその姿勢を支えられず、横へ倒れた。壁には一瞬、黒い輪郭が残っていた。腕を伸ばしたまま。床に横たわる女の腕は、もう曲がっていたのに。
玲央が膝をついた。
「聞こえますか?」
女の顔をのぞき込み、もう一度尋ねた。返事はなかった。循は女の胸を見た。待っていても、動かなかった。
下の階の男が、階段から振り返った。
「どうしたんです?」
「女の人が倒れました。電話を貸してください」
循は携帯電話を受け取り、女は息をしていないようだと伝えた。相手が何かを確かめるように言い、循はそれを玲央に伝えた。同じ質問を二度やり取りしてから、ようやく電話を床に置いて、スピーカーに切り替えた。
玲央は電話から流れる案内を聞きながら、女の胸に手を置いた。片方の手をもう片方に重ねるあいだ、何度も指が開いた。玲央は手を重ね直し、女の顔を見てから、案内が続くと、うつむいた。循はそばから離れ、玄関のドアをいっぱいに開けた。ドアの下に引っかかったガラス片を足で押しのけ、人が入れる場所を空けた。
玲央が数を数え始めた。
◇
コメント
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うわあ……今回、すごく引き込まれました。循くんが玲央さんと合流して、知り合いの女性の家に向かうところから、もう息つく間もなかったです。特に印象に残ったのは、あの女の人が「何が悪かったのかを一つだけ教えて——っていう言葉。あの、「ただ嫌なのか、私が何をしても——って問いかける切なさが刺さりました。影が壁から伸びて、敷居をふさいだシーン、玲央がその腕をつかんだ瞬間の静かな緊迫感がすごくて——。最後、女の人が膝をついて倒れたところ。もう息をしていないようだと知らせる循くんの冷静。心臓がきゅっとなりました。次が気になって仕方ないです……!