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篠原愛紀
——
……
「へっくしゅん!」
そのくしゃみで目が覚めた
疲労困憊だった私達
どうやら
いつの間にか眠ってしまっていたらしい
そのくしゃみの音に驚き
飛び起きた私達
咄嗟に状況を把握できず
驚きに目を見開き
お互い顔を見合わせる二人
その状況の滑稽さに
お互い思わず笑ってしまった
久しぶりにこんなに笑った気がする
愛想笑いではなく
自然な笑い
笑う事がこんなにも楽しかった事
人の笑顔がこんなにも幸せだった事
私は長らく忘れていた気がする
そして
開眼一番
最初に目にしたのが
あの
冷徹と囁かれる
凛々しい社長の
キョトンとした驚き顔だった事
そのギャップが堪らなく愛おしい
他の社員の知らない
恐らく誰にも見せない
私だけが知っている
素の
自然な
社長の素顔だった事が
私は嬉しかった
「やっぱ冷えるね~……」
「どれ、そろそろ乾いたかな」
コートラックに吊るして乾かしていた服
その僅かに湿った
半乾きの服を
互いに背を向け合って着る
いつの間にか電力は復旧し
電気はついていた
外はまだ薄暗く
陽が昇るにはまだ早い
時刻は早朝5時
空腹を満たす為
身体を温める為
私たちは外の街へと繰り出した
***
台風は既に過ぎ去り
生暖かい風だけを残し
雨も
雷も
どこかへと消え去っていた
一夜を共に過ごし
こんな時間に誰かと外出するなど
一体いつぶりだろう
徹夜はあっても
オールをするなんて
ましてや
ついさっきまで赤の他人だった
あの冷徹なCEOと
誰もいない都会の只中
僅かにうごめく往来する人影
恐らく始発電車は動いているのだろう
この時間の選択肢は少ない
24時間営業のファミレスは
既に人混みは引いており
店内で眠りこける僅かな人を残し
席は空いていた
ビリオネアの社長と訪れる
庶民派代表格のファミレス
何の気兼ねもなく
慣れた感じで普通に入店する彼
端正な顔立ちと
寝ぼけまなこの顔の
ギャップがかわいい
私達は
温かい料理と
温かい飲み物をつまみに
しばらく
くだらない話で笑い合った
時事ネタや
昔の流行
会社のこと
等々
鋭い眼光と
凛々しい顔の
冷徹な社長はそこにはなく
朗らかで
どこか天然な
一人の男性がそこにいた
笑える事がこんなにも尊いなんて
笑い合える事がこんなにも幸せだなんて
私は
たくさんの大事な物を失っていた
何気ない
でも
かけがえのない
とても大切な事を
長らく忘れてしまっていた事に気付いた
社長が
とても大切な事を
愚かな私に
思い出させてくれた
「——瑠奈」
名前で呼んでくれるのも
あと少し
出社時刻が訪れ
会社に戻れば私は
元の水川さんに戻るのだろう
——侘しい
(シンデレラはこんな気持ちだったのかな?)
時間が惜しいほどに
幸せな時間は早く過ぎる
こんな所を
他の社員に見られるのも宜しくない
私達は店を後にしコンビニへ
お互い着替えと
ボディタオルや化粧品等々
全て一式をコンビニで調達した
お互いのカゴに盛られたそのあまりの量に
お互い顔を見合わせ
また
お互い笑い合った
お互い大きなビニール袋を抱え
会社へと戻る
***
オフィスまで上がればまた
お互いの立場へと戻るんだ
このエレベーターのドアが開けばまた
お互い別の方向へ歩き出す
侘しい……
どうしてもっと早く出会えなかったんだろう
もし……
もしも仮に
もっと早く出会えていたら
私の人生は違っていたのだろうか——
私は既婚
私は人妻
いけない事と
頭では解っていても
心では
何よりもそれが
悔やまれた
もうすぐエレベーターの扉が開く
「社長……」
焦燥感から
思わず本心を口走りそうになる
が、
それ以上言葉が続かなかった
「瑠奈……」
同時に
社長も私の顔を見る
「何かあれば何でも言って。どんな些細な事でもいつでもすぐに駆け付けるから」
チーン♪
夢から覚める終了の鐘の音と共に
非情にもエレベーターの扉は開く
社長はそれ以上口にする事なく
優しく微笑み
社長室の方角へ去って行った
勿論
最後の言葉は嬉しかった
でも
プライベートの連絡先とか
何かもっと
距離が縮まる何かが欲しかった
わがままかな?
求め過ぎかな?
でも
それが本心で
それが心残り
それが不安で
それが侘しくて
胸が締め付けられる
——私は既婚
夢から覚めると同時に
現実に直面する
私は
もっともっと社長に聞きたい事があった
もっともっと社長に聞いておくべき事があった
あれだけの時間があったのに
私からは何一つ大切な話はしていなかったと
今になって気付く
ただただ
満たされた気持ちに心躍り
ただただ楽しみ
貴重な機会と
貴重な時間を浪費してしまった
歩み去る社長の背中を見ながら
そんな事を考えてしまった
社長室とは反対方向にある
私は私のデスクへと向かう
私達は
互いに背中合わせに
再び
それぞれの現実へと歩き出した