コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……ずいぶん冷静なんですね。自分の奥さんの話なのに」
名木沢の表情を窺いながら言う。彼は困ったように微笑んだ。
「園香さんのように恋愛結婚をした訳ではないからか、感情的にはなっていないな」
彼について分かる範囲で調べたことがあるが、結婚については何も出てこなかった。
恐らく意図的に隠しているのだろう。
ただ彼が財界では有名な神楽家の親族とは分かっていたので、恋愛結婚ではないかもしれないと予想はしていた。
(ふたりはお見合い結婚なのかな)
希咲の個人的なことは分からないが、彼女も政略結婚をするようなお嬢様なのだろうか。
「お見合い結婚かなにかだとしても、夫婦としての情はあるんじゃないんですか?」
「いや、これといって」
名木沢が醸し出す雰囲気は気さくな感じで、冷たさはまったく感じない。
それなのに、希咲に関することは驚くくらいの割り切りがある。
(もしかしたら夫婦仲が最悪なのかな?)
だから希咲は不倫をしているのだろうか。
彼女は瑞記と付き合う前にも、他の男性とトラブルを起こしているのだし。
「妻への情がないから、不倫を放置しているんですか?」
この質問に、名木沢は少し考え込んだ。
「……彼女が外で男遊びをしているのは大分前から気付いていた。でも放っておいたんだ。俺より気に入る相手が現れて出て行ったら都合がいい。だが今はよくない態度だったと思っている。俺たち夫婦の問題に留まらず、他人を巻き込んでしまっている」
名木沢の言葉に、園香は咄嗟に言葉が出て来ず、俯いた。
(彼は離婚がしたいんだ……)
だから希咲の、園香から見ると既婚者とは思えない行動に、文句ひとつつけなかった。
止める者がいないのだから、希咲の行動はエスカレートしていき、現在に至る。
なんとも言えない気持ちになった。
目の前にいる男性が悪いとは言い切れない。
彼にだって事情があるのだろう。
だからといって、理解出来ると言えるほど園香はできた人間ではない。
「……名木沢さんを責めるのは違うと分かっているんですけど、夫婦間で解決して欲しかったです」
「そう思われて当然だと思う。迷惑をかけて悪かった」
「あなたに謝って欲しい訳じゃないですけど……でもどうして考えが変わったんですか? 以前私が連絡をしたときには、迷惑そうにしていたと思うんですけど」
日記には、名木沢に迷惑そうにされたが、なんとか会う約束を取り付けたと書いてあった。
当時の憔悴して周囲への配慮が疎かになっていた園香が感じるくらいだから、相当素っ気ない対応をされたと想像できる。
「あのときは申し訳なかった。そのうえで正直に言うと、当時は本当に面倒だと思っていた」
驚くほどに正直な返事だ。園香は毒気が抜けていくのを感じて小さな溜息を吐いた。
「客観的に見たら仕方ないと思います。突然、あなたの奥さんが不倫をしています、なんて連絡が来たら警戒するし、知らない相手と会うのも嫌だと思うので。私が不思議なのはどうして気持ちが変わったかです」
彼とは結局会えなかったようだから、以前の園香が涙で訴え同情を買った、なんてことはないはずだ。
先日ショールームで会話をしたときだって、かなり淡々としていてい、心に響くことなんてなかっただろうに。
「園香さんと約束をしていた日、時間になっても君が来なかったから、気が変わったか怖気づいたんだろうと思っていた。そのときは、面倒が減ったくらいで大して気にしていなかった。だが後日、グランリバー神楽第二で事故が起きたことを知った。グランリバービルは神楽グループの関連会社が多く入っているから、そういった情報が回ってくるんだ」
「私が階段から落ちた事故ですよね?」
「そうだ。そこで被害者が君だと知って驚いたよ。事故が起きたのは四月十七日の午前十時頃。まさに俺が君と約束をしていた時間だったから」
園香は彼の言葉にぴくりと反応した。
(約束をしていた時間? 私はやっぱり間違って違うビルに行ったってこと?)
場所を間違ったことに気付き、焦って階段から落ちたのだろうか。そうだとしたら、あまりに情けない。
名木沢も同じことに気が付いたのだろうか。一瞬戸惑いの表情になったが、とくに触れずに続きを口にする。
「事故に俺も関係していると思って、事故と君の状況を確認したんだが、調べているうちに無関心だったことで他人にまで迷惑をかけていることを思い知った。妻は園香さんと関わる以前にも、いくつかトラブルを起こし事務的に対処して来たのは間違いだったのかもしれない。俺はあまりにも他人の感情に無頓着だったと考えるきっかけになったんだ」
「……そうなんですか」
(以前のトラブルって、彬が言っていたソラオカ家具店社員との不倫嫌がらせ騒動かな?)
彼は、示談の段階で出て来て高額な慰謝料を文句を言わずに払ったと言っていた。
その話を聞いたときは、何を考えているのか分からない夫だと思ったが、実際本当に何も考えていなかったとは。
(この感じだと、面倒事は早く解決したい、くらいにしか思ってなかったんだろうな)
世間的には高額な慰謝料も、彼にとっては負担にならないだろうから。
慰謝料を受け取った相手が、どれほど傷き悔しい思いをしたのかまでは、考えていなかったのだろう。
所詮は他人事だから。忙しく過ごしていたら、あっという間に忘れてしまう程度の出来事。
「あの、こんなことを聞くのは失礼だとは思うんですが」
「構わない。気になることが有るなら、なんでも言ってくれ」
園香の迷いながらの言葉を、名木沢が肯定するよう頷く。
「……希咲さんと離婚はしないんですか? 私が知っている限りでも彼女は有責なので、あなたが望むなら離婚が認められると思うんですが」
「できたらいいんだが、事情が有って俺から離婚するのは難しい」
名木沢が苦笑いを浮かべた。それはとても疲れたような、諦めすら感じる表情だった。
「そうなんですか」
相手が悪くて、離婚を望んでいても別れられない理由。
園香には思いつかないが、しがらみのようなものだろうか。
「園香さんは離婚を考えているのか?」
「はい。そのつもりです。両親も納得してくれていますので」
正直に答える必要はないが、隠す必要もない。
むしろ彼から希咲に伝わるのを期待する気持ちもあった。
(瑞貴は、私と離婚話が持ち上がっているとうことを、希咲さんに言ってないかもしれないから)
「必要なら、俺が持っている情報を共有してもいい。離婚の交渉のときに役に立つだろう」
「え、いいんですか?」
園香は驚き目を見開いた。
それは、喉から手が出るほど欲しいものだから。
弁護士に依頼して、離婚を拒否する瑞記との交渉を進めているが、不倫の状況証拠しかないのがネックになっていたのだ。
「ああ。園香さんの事故について調べはじめたときに、妻も調査対象にした。君の夫と会っている証拠もとれているはずだ」
「できたら頂きたいです!」
まさか名木沢から証拠が得られるとは思っていなかったから、園香は椅子から腰を浮かせてしまう程気持ちが舞い上がってしまう。
「分かった。今は手元にないから、後日また会おう。それまでに用意しておく」
「ありがとうございます」
園香は名木沢に深く頭を下げた。
まだ心臓がドキドキしている。
(これで離婚できる。誰が見ても文句が言えない証拠さえあれば、瑞記も抵抗出来ないんだから)
名木沢から情報を貰えたら、すぐに弁護士に動いて貰おう。
事故に遭い記憶を失ってから、いつも心に憂鬱さを抱えていたけれど、これでようやく解放される。
独身に戻って一からやり直そう。
園香は名木沢と別れると、久しぶりに心底すっきりした気分で帰宅した。