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一時間程電車に乗って帰宅したのは、午後七時を過ぎていた。
両親は外出しているようで不在だった。そう言えばどこかの会社の創立パーティーに出席すると言っていた。
シャワーを浴びてすっきりすると、冷たいカフェオレを作り、ひと息ついた。
離婚の目途がたったおかげで、とても穏やかな気分だ。
なかなか考える余裕がなかった未来についてのイメージも鮮明に浮かんでくる。
(離婚が成立したら契約社員から正社員になりたいな。通勤しやすいところに家も借りたいし……)
少しずつ生活を立て直そう。
そんなことを楽しく考えていたとき、スマホが鳴った。彬人からだった。
浮かれていた気分が、波が引くようにさっと消えていく。
日記を読んで以来、彬人と連絡を取っていなかった。
悪気がないとはいえ、彼が過去を知っていたということがどうしても気になって、上手く話せそうになかったから。
とはいえ、いつまでも避けている訳にはいかない。
園香は一瞬躊躇ってから、スマホを手に取った。
「遅くなってすまない」
彬人がやって来たのは、通話を終えてから三十分後のことだった。
「全然遅くないよ。入って」
「ああ」
「お茶を淹れてくるから、適当に座ってて」
彬人は慣れた様子でリビングルームのソファに腰を下ろしたが、どこか浮かない表情だった。
ただの様子伺いの電話だったのに「大事な話があるから」と園香に呼び出されたから、警戒しているのだろう。
園香はキッチンでふたり分の紅茶を淹れ、頂き物のクッキーと共にお盆に並べて持つと、彬人のもとに戻った。
ローテーブルにそれらを並べて、彬のはす向かいの椅子に座る。
「何か有ったのか?」
彬人が紅茶に手も付けずに聞いてきた。
様子伺いなどないストレートさが彼らしい。園香は頷いた。
「実は少し前に以前の日記を見つけたの」
「え? 日記は書いてなかったんじゃなかったのか?」
「習慣はなかったんだけど、瑞記とのことで悩んでいたからか、記録していたみたい。彼に見つからないようにか、厳重に隠してあったから気付くのが遅れたんだけど」
「そうなのか……それで、離婚の証拠になりそうなのか?」
「決定的ではないけど、証拠のひとつにはなるって……日記にはいろいろなことが書いて有ったけど、彬についても書かれてた」
彬人がはっとしたのが伝わってきた。彼は眉間にシワを寄せた苦悩の表情で「そうか」と呟いた。
園香が何を言おうとしているのか察したのだと思う。
「彬は私たち夫婦の仲が最悪だったこと、初めから知っていたんだね」
「……いや、俺は夫婦仲については殆ど知らなかった。園香からも詳しい話を聞いたことはない。ただあまりに憔悴して精神的に不安定に見えたから別居か離婚をした方がいいと言ったことがある。名木沢希咲が問題のある女だと知っていたこともあったから心配だった」
日記に“彬が心配して訪ねてきた”と書いて有った。その日のことだろう。
「不仲について知っていたのに話さなかったのは、俺も迷っていたからだ。記憶を失ってからの園香は、精神的に安定していたし、夫婦仲を改善する気に見えた。上手くいくならそれが園香の為なのかもしれないと思ったんだ」
「私のため?……ああ、そう言えば私、結婚前は瑞貴が大好きだったみたいだものね」
周囲には結婚を反対されたのに、園香は耳を傾けず押し切ったくらいだ。
彬人が対応を迷うのは無理もないことだ。
「はあ……私、どうして瑞記を好きになったのかな。」
園香は心からの疑問を吐き出してから紅茶のカップを手に取った。
彬人が答えられるはずがなく、困ったように肩をすくめる。
「そう言えば、私、経理部から広報部に異動してたんだね」
「……ああ。すぐに退職したが。そのことも日記に書いて有ったのか?」
「ううん。日記を付け始めたのは、瑞記と一緒に住んでからだから。異動については名木沢さんに聞いたの」
彬人が怪訝な表情になる。
「彼女と連絡を取っているのか?」
「あ、違う。彼女の夫の名木沢さんのこと」
「夫って名木沢清隆だよな? 彼に不倫の件を話したのか?」
「事故に遭う前に私から電話していたみたい。でもそれきりになっていたから気になったようで、彼から訪ねてきたの」
彬人は困惑した表情で、園香の話に耳を傾けている。
その様子から事故の日に、名木沢清隆と会うことは知らなかったのだと分かる。
「彼は突然、あなたの奥さんが不倫していますって言ってきた私を怪しく思って、私について調査したみたい。それで私がソラオカ家具店広報部所属だって知っていたの。でも私は異動した覚えなんかなかったから驚いちゃった」
園香は中身が無くなったカップを、ソーサーにそっと戻した。
「名木沢氏とは他に何を話したんだ? 日記が見つかったことも言ったのか?」
「私は離婚する気だと伝えた。彼は自分の妻が不倫をしていると知っていたから大して驚いてなかったかな。日記のことは彬にしか言ってない。瑞記にも名木沢さんにも完全ではないけど記憶が戻ったって話してある。その方が変な誤魔化しとかをされないかと思って」
とくに瑞記は姑息な手段を使いそうな印象があるから、手の内は明かさない方がいい。
「名木沢さんも希咲さんの浮気調査をしていたそうで、証拠があるみたい。離婚調停で使うなら貸してくれるって約束してくれたんだ。だからこれ以上は泥沼にならずに離婚出来ると思う」
「……そうか」
彬人が曖昧に微笑んだ。
「どうしたの? 何か気になる?」
証拠が手に入ったと言ったら、もっと喜んでくれると思っていたのに。なぜ気が進まないように見えるのだろう。
「いや……ただ、名木沢氏を信用し過ぎるのはよくないと思って」
「それは分かってる。でも、話してみたら悪い人ではなかったよ。彼もいろいろ反省しているみたいだし」
「園香は以前、富貴川に対してもそう言っていた」
彬人の言葉に、園香はうっと息を呑んだ。
そう言われてしまうと、自分の人を見る目に自信が持てなくなる。
「証拠が必要だとしても、交換条件には応じるなよ。もし何か要求されたら弁護士に相談してから返事をしろ」
「分かった、そうするよ」
彬人の中で、園香の信用はすっかりなくなっているらしい。
まるで子供に対するように、しつこく注意をされてしまった。
(それだけ気にしてくれているってことだよね)
「伯父さんと伯母さんも、口には出さなくても相当心配しているぞ」
「うん。これ以上、心配かけないようにする……でも結婚してまでこんなに迷惑かけちゃうなんて、情けないなあ……もう二十七歳なのに」
その二十七歳の年も、すでに半分が経過している。半年後は二十八歳だ。
一年分の記憶がないせいか、年を取るのが早く感じる。
「二十八歳までには、全てを終わらせて、やり直していたいな。それが今の目標」
「出来るだろ。ささやかな夢だ」
普段は鋭さを感じる彬人の切れ長の目に、優しさが滲んだ。
「うん。そうだね」
この重い荷物を背負っているような息苦しさから解放されるのは、あと少し。
彬人が言う通り、油断しないで頑張ろう。
園香は自分に言い聞かせた。