テラーノベル
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「な、あ、え?」
なんで、こんなものがここにいるんだ。
ありえない、という言葉が脳裏を占めていく。全身から力が抜けて、膝が笑った。吸いこんだ空気が、喉の奥で悲鳴のような音を立てている。
「意味、わかんねぇ……! なんで、ゴブリンがこんなところにいるんだよ……ッ!?」
思わず叫びをあげた。そうすることしかできなかった。
ゲームやアニメで嫌というほど見てきた、緑色の小鬼。物語の世界の中にしかいないはずの化け物が、いま俺の目の前で舌なめずりをしていたからだ。
「……ッ」
考えても答えは出ない。今はとにかく逃げるんだ。
逃げなければ、死んでしまう。
なのに――なぜか、倒せるんじゃないか、という考えが頭をよぎった。
あり得ない。武器もない、力もない、経験もない。勝てるわけがない。
自分でも訳の分からない衝動を振り払った瞬間、ゴブリンがずるりと一歩、足を踏み出した。
その笑い声が、耳の奥に届く。
瞬間、恐怖が限界を超えていた。
「う、うわぁあああああああ!!」
気が付いたら、走っていた。
考える暇も、振り返る余裕もない。行く手を遮る草木を掻き分け、裸足で石や瓦礫を踏みしだきながら、ただ前だけを見て駆け続けた。足の裏が切れて痛みが走っても、構っている場合じゃない。
「ぎひひひっ!」
背後から醜悪な笑い声が追いかけてくる。
近い。まだ近い。全速力で走っているのに、笑い声が背中に張り付いて離れない。
アイツは楽しんでいる。自分の方が強いと確信しているから、すぐに殺さず弄んでいるのだ。
それが分かるから、余計に恐ろしかった。
「来るな、来るな、来るなあああああ!!」
これまでの人生で一番長い全力疾走だった。
走って、走って、走り続けて――ようやく足が止まったのは、電柱に手をついて体を支えた時だった。いつの間にか、背後の声は聞こえなくなっていた。
「ぜぇっ、ぜぇっ……。ごほっ、ごほっ!」
全身が酸素を激しく求めている。息をしても足りず、さらに大きく吸おうとしたところで咽込んだ。
しばらくその場に蹲って、荒い息が落ち着くのを待った。
息が整ってくると、今度は別のことが気になりはじめた。
さっき――倒せるんじゃないか、と思った。
あの化け物を。武器もない、力もない、ただの大学生が。
どうかしてる。
恐怖で頭がおかしくなっていたんだ。それ以外に説明がつかない。あんな化け物を前にして、倒すことを一瞬でも考えてしまうなんて。
俺は頭を振って、改めて周囲を見渡した。廃墟と化した街に人影はない。どこを見ても、人影ひとつ見えやしない。あれだけ騒いだのに、様子を見に来る者すらいない。
「どうなってんだよ、この世界は……!」
膝が、がくりと折れて、思わずその場に座り込んでしまった。
胸の内が不安で押しつぶされそうになる。
どうにか気を紛らわせようと、俺は震える手でポケットからスマホを取り出した。何をしようとしているのか自分でも分からない。ただ、何かに縋りつかずにはいられなかった。
無意識に『トワイライト・ワールド』のゲーム画面を開くと、そこには見たことのない画面が表示されていた。
≫≫チュートリアルクエスト
クエスト種類 :討伐
目標 :ゴブリン 1体
制限時間 :7:00まで
成功報酬 :新規スキル
失敗報酬 :死亡
「チュートリアル……クエスト?」
思わず声が出た。
チュートリアル。ゲームをはじめる時に出てくる、基本操作を覚えるためのアレだ。つまりこれは、俺に対してゴブリンを倒せと言っている。
さっき全力で逃げ出したあのゴブリンを。
「失敗報酬が……死亡だって?」
目を疑って、もう一度読み返した。
やっぱり、死亡と書いてある。
「報酬じゃないだろ!!」
思わず叫んだ。報酬というのは成功した者が受け取るものだ。失敗した者が受け取るのはペナルティであって、報酬ではない。死をご褒美と呼ぶのは、さすがにどうかしている。
いや、そんなことよりも。
「……っ」
失敗したら、死ぬ。
ゴブリンに殺される。
錆びた包丁の切っ先。濁った黄色い瞳。糸を引く涎。現実に現れた化け物を前に、「死」という一文字が、じわじわと現実の重さで俺の心に沈み込んでくる。
全身が一気に粟立った。
さっき逃げ出した時の恐怖が、鮮明によみがえってくる。
「制限時間……」
俺は画面に書かれた数字を見つめた。
今が何時かは分からない。けれど、朝の六時過ぎに目を覚ましてから、かなりの時間が経っている。七時まで、残り時間はほとんどないはずだ。
「アイツを、どうやって倒せって言うんだよッ! なにか、ヒントはないのか!?」
俺は縋るような気持ちで、画面に触れた。クエスト表示が下にスライドして、その下にもう一つ別の画面が現れる。
古賀 ユウマ Lv:1 SP:3
HP:10/10
MP:0/0
STR:2
DEF:1
DEX:2
AGI:2
INT:2
VIT:1
LUK:3
所持スキル:なし
「ステータス画面……?」
RPGゲームなんかでよくある、キャラクターの能力値が記された画面だった。
『トワイライト・ワールド』というゲームアプリを起動しているのだから、その画面が現れるのはなんら不思議でない。
問題は、そこに俺の名前が記載されていることだ。
「なんで、俺の名前が」
このゲームに、名前を入力した覚えはなかった。ゲームを起動した直後に気を失ったのだから、そんな余裕はどこにもない。唯一、操作したのはゲーム内で使用するキャラクターの種族を決めたことだ。
俺は、まじまじとステータス画面を見つめた。
古賀ユウマという名は、俺の本名だ。ただし、悠真と記されるべき名前がカタカナ表記になっている。
混乱しながらも、画面に並ぶ数字に目を向けた。
LvにHP、MP。その下に並ぶSTR、DEF、DEX、AGI、INT、VIT、LUK。それらの記号は、どれもゲームではよく見かける、ステータスパラメーターだ。
「STRはStrengthだから筋力値、DEFはDefenseだから防御力値、DEXはDexterityで器用さ、AGIはAgilityで敏捷性、INTはIntelligenceだから知力値……。HPはHit Pointだから生命力のことで、MPはMagic Pointだから、魔力値?」
ゲームで魔法を使うときに消費する、あれだ。
その数値が今はゼロ。
まさかこの先――魔法を扱う機会があるとでもいうのだろうか。
「いやいや、ありえないって」
ゴブリンが現実に出てきている時点で、もう何があってもおかしくないのかもしれない。けれど、自分が魔法を使うなんて、簡単には飲み込めない。
「異世界転移ってやつか……?」
マンガやラノベで流行っているやつだ。ある日突然、現実の人間が別の世界に飛ばされる。あれと同じことが、自分の身に起きたとでも?
まさか、そんな。
けれど、目の前の画面には現に「スキル」の欄がある。今は「なし」と表示されているが、わざわざ項目があるということは、いずれ何かが入るということだろう。チュートリアルクエストの成功報酬が「新規スキル」となっていることからして、間違いない。
俺はあらためてステータス画面を見つめた。
「SPって、なんだ……?」
その項目だけ、見覚えがない。Lvに並んで表示されているところから察するに、レベル絡みのものだろうか。
とりあえず、その数字に触れてみる。
反応はない。
「使えないってことか?」
じゃあ、なんで表示されているのか。ヒントを探して、他の項目にも順番に触れてみる。
HPもMPも、無反応だった。けれどSTRに触れた瞬間、画面が切り替わった。
≫STRの数値を上げますか? Y/N
「数値を、上げられる……?」
思わず声が出た。
数値を上げる。つまり、筋力を強くできるということだ。さっきまでうんともすんとも言わなかったSPの数字も、いま見ると少し色が薄くなっている。
「もしかして、SPを使ってステータスを上げられるのか」
SP:3。
ステータスポイント、というやつだろう。割り振った分だけ、能力を伸ばせる。ゲームでよくあるシステムだ。
「このまま割り振ってもいいのか?」
一瞬だけ躊躇する。
また、ゲームを初回起動した時のように、おかしなことに巻き込まれるんじゃないかと身構えてしまう。
しかし、ここで迷っている時間はない。刻一刻と制限時間は近づきつつある。
それにゴブリンと戦うなら、まずは筋力だ。どんなゲームでも、筋力値が上昇すれば攻撃力もあがると相場が決まっている。
俺は、覚悟を決めて『Y』に触れた。
古賀 ユウマ Lv:1 SP:3→2
HP:10/10
MP:0/0
STR:2→3
DEF:1
DEX:2
AGI:2
INT:2
VIT:1
LUK:3
所持スキル:なし
SPが一つ減って、STRが一つ上がった。
続けてAGIをタップして『Y』を押す。AGIは敏捷性に関わる項目のはずだ。少しでも速く動けるなら、それだけ生き残れる可能性が上がる。
古賀 ユウマ Lv:1 SP:2→1
HP:10/10
MP:0/0
STR:3
DEF:1
DEX:2
AGI:2→3
INT:2
VIT:1
LUK:3
所持スキル:なし
SPがまた一つ減って、AGIが一つ上がった。最後にVITをタップしてYを押す。死なないためには耐久力も必要だと、そう思った。
古賀 ユウマ Lv:1 SP:1→0
HP:10/10→12/12
MP:0/0
STR:3
DEF:1
DEX:2
AGI:3
INT:2
VIT:1→2
LUK:3
所持スキル:なし
ついにSPがゼロになった。VITが上がり、HPも連動して伸びている。他のステータスにも触れてみたが、もう反応はなかった。
「これで、どのくらい変わったんだ……?」
数字ひとつ変わった程度で、劇的な変化は見込めないだろう。
それでも、俺は祈るような気持ちで近くの瓦礫に手をかけ、持ち上げてみた。
「……軽い」
大人一人では持ち上げるのが難しそうな塊が、ゆっくりと持ち上がった。軽々と、というほどではないが、以前の自分では決して持ち上げることが出来ない重さの塊だ。
俺は瓦礫を下ろすと、自分の両手を信じられない気持ちで見つめた。
本当に、筋力が上がっている。
ゲームの数値が、現実の肉体に直接反映されている。
「それじゃあ、この世界は本当に――…」
思案に耽りかけたところで、首を振った。
今はそれよりも先にやることがある。ゲーム画面が現実に影響を与えることが確定した今、チュートリアルを何が何でも終わらせねばならない。
俺は画面をスクロールして、チュートリアルクエストの画面を表示させた。
≫≫チュートリアルクエスト
クエスト種類 :討伐
目標 :ゴブリン 1体
制限時間 :7:00まで
成功報酬 :新規スキル
失敗報酬 :死亡
「……やるしかない、か」
言葉にした途端、さっきの恐怖が身体の底から這い上がってきた。あの包丁。あの嗤い声。あの瞳。ステータスを少し上げたところで、あの化け物に勝てるものかと、本能がそう叫んでいる。
けど、逃げたところで詰みだ。
制限時間が切れれば、失敗扱いで死が待っている。そもそもこの廃墟だらけの世界で、安全な逃げ場なんてどこにもない。
……本当は、今すぐ逃げだしたい。
ついさっきまで、争いとは無縁の生活だったのだ。俺はただの大学生で、なんの力もない。喧嘩だって今までロクにしてこなかった、何の取り柄もない人間なのだ。
けど、逃げても死ぬ。やっても死ぬかもしれない。
だったら――やって死ぬ方が、まだマシだ。
「死にたくないから……やるんだ」
足に力を込めて、立ち上がる。恐怖はまだある。それでも、前を向いた。
「このクソッたれの世界で、何がなんでも生き延びてやる」
声に出すと、不思議と腹が据わった気がした。
◇
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