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「じゃ、いってきまーす!」
「「いってらっしゃーい!」」
次の日、さっそく元貴は早速、実家に顔を見せに出掛けていった。
ドアが閉まる音がして、足音が遠ざかる。
その静けさのあと、リビングに残されたのは、おれと涼ちゃんの二人だけだった。
涼ちゃんと朝から晩までという長い時間、二人きりで過ごす事が初めてなのもあるけど、今月の初めに、お互いの元貴への気持ちを暴露したのもあり、何だか少しだけ緊張している。
どこか気まずいわけでも、沈黙が苦しいわけでもないけど、 それでも、いつもより少しだけ、言葉を選んでしまう自分がいた。
「…さてと。」
涼ちゃんが伸びをしながら、キッチンの方へ歩いていく。
「とりあえず、朝ご飯食べる?」
「…うん、食べよっか。」
そんな、他愛もないやりとりで始まった、二人きりの一日。
特別な事は何もなくても、どこか、普段とは違う空気が流れていた。
・・・
朝ご飯を食べた後、昨日の、だらけきった一日を取り戻すように、涼ちゃんはリビングのテーブルに勉強道具を広げていた。
英語で書かれた分厚い本。
見ているだけで眠くなりそうなページを、涼ちゃんは眉ひとつ動かさずに読み進めていく。
たまに小さく頷いて、さらさらとノートにメモを取って…
その姿は、いつものニコニコした涼ちゃんとは少し違って見えた。
背筋を伸ばして本と向き合う横顔は、静かで、どこか芯があって、 いつもよりずっと大人びて見えた。
ぼんやりと眺めていた視線の先で、ページが一枚めくられる音がして、 そのたびに、ほんの少しだけ、年の差を思い知らされるような気がした。
元貴は寂しがりで甘えん坊なところがあるから、こういう大人な人の方が合うのかも…
ふと、そんな考えが頭をよぎって、
おれは思わず、髪の毛をぐしゃっとかき上げた。
(…いや、だとしても…)
そう自分に言い聞かせるようにして、ソファから勢いよく立ち上がると、自室へ行き、 勉強道具を抱えてリビングに戻ってきた。
「若井も勉強するの〜?」
バタバタと動いるおれが気になったのか、涼ちゃんが少しだけ顔を上げた。
「うん。…負けてらんないからっ。」
そう答えて、おれは涼ちゃんの向かい側に座ると、ノートを広げた。
“負けてらんない”その言葉の意味が、 どこまで涼ちゃんに伝わったのかは分からない。
けれど、おれの気合いが伝わったのか、 涼ちゃんは小さく『ふふっ。』と笑い、またすぐに視線を本に戻した。
おれも手元のノートに視線を落とす。
こんな事をしても大人になれる訳じゃないって事は分かっている。
けれど、今は、こうする事で少しだけ涼ちゃんに近付ける気がして、おれは静かにシャーペンを走らせた。
・・・
「ふぅ〜、そろそろ休憩しない?」
涼ちゃんが顔を上げて、軽く伸びをしながらそう言った。
ずっと静かだったリビングに、その声がふわっと広がる。
「…そうだね。ちょっと肩凝ったかも。」
おれもペンを置いて背筋を伸ばすと、背中がポキポキと音を立てた。
「紅茶淹れるけど、飲む〜?」
「えっ、いいの?ありがとう。」
立ち上がった涼ちゃんの後ろ姿を、ぼんやりと目で追う。
さっきまで少しだけ張り詰めていた空気が、ふわっとやわらいでいくのを感じた。
湯が沸く音、食器を取り出す時のカチャカチャという音。
キッチンから聞こえてくる何気ない音すら、やけに心地いい。
「はい、どうぞ〜。」
やがて、湯気の立つマグカップを二つ手に、涼ちゃんが戻ってきた。
そのうちの一つ、青いカップをおれの前にそっと置いてくれる。
「ありがと。」
『ふーふー』と軽く冷ましながら、そっと口をつける。
熱いけど、優しい味がした。
「…うま。」
思わず漏らした言葉に、涼ちゃんがくすりと笑う。
「ちょっと濃いかもだけど、大丈夫だった?」
「うん、ちょうどいい。…なんか、落ち着く味。」
そんな風に言うと、涼ちゃんは少し照れくさそうに『よかった』とだけ答えた。
静かな午後。
ふたり分のマグカップから立ちのぼる湯気が、
この部屋に満ちた、なんとも言えないあたたかさを物語っているようだった。
「なんか…涼ちゃんって意外と大人だよね。」
紅茶のほっとする温かさのせいか、涼ちゃんのやわらかい雰囲気のせいか…
自然と、ぽつりと本音がこぼれた。
「意外とじゃなくて、大人なんですぅ。」
おれの言葉に、涼ちゃんはいつもの調子で、ちょっとだけおどけて返す。
でもそのあと、ふっと笑って、マグカップに口をつけた。
「でも…ありがとう。そう言ってもらえるの、なんか嬉しいかも。」
そう言って笑うその表情は、やっぱりどこか大人びていて。
なんだか、それがとっても…
「…ズルい。」
つい、そんな言葉が漏れた。
おれのその言葉に、『何が?』って顔で、涼ちゃんが首を傾げる。
「年の差なんて…どう頑張ったって埋まらないじゃん。」
ちょっと拗ねたように言ったおれに、涼ちゃんはふっと笑って、静かに口を開いた。
「それで言うとさ、僕だって若井のこと、ズルいな〜って思うよ。」
「…え?」
意外な言葉に、思わず聞き返してしまう。
「だってさ、僕はまだ元貴とたった半年位の付き合いだけど、若井は中学からの付き合いでしょ?その年月は、僕にはどうやったって埋められないものだから。」
そう言って、涼ちゃんは紅茶を一口啜った。
その仕草がやけに静かで、胸の奥が、ふっと揺れた。
「だから、年齢なんて関係ないし…無理して大人になる必要もないと思うけどなぁ。」
涼ちゃんはそう付け加えて、真っ直ぐおれの目を見て、ふわっと笑った。
その笑顔があまりにやさしくて、苦しくなる。
なんでそんな風に、簡単に人の肩の力を抜いてしまえるんだろう。
(やっぱりズルいな。)
どこまでも自然体で、どこかに余裕があって、 それでいて、ちゃんと相手を見てくれる。
大人になりたくても、なりきれないおれは、 やっぱり涼ちゃんのことを『ズルいな』って思ってしまう。
でも、涼ちゃんは無理して大人にならなくてもいいと言ってくれた。
それはきっと、おれにはおれの…
涼ちゃんには涼ちゃんの…
いい所や強みがあるんだよと言う意味な気がして、少しだけ気持ちが楽になった気もした。
けれど…
(もし、おれと涼ちゃんが、告白したら…
元貴は、どっちの手を取るんだろう。)
ふと、そんなことを考えてしまう。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(いや……どっちの手も取らない、なんて可能性もあるのか…)
そう思った瞬間、なんとも言えない寂しさが押し寄せてきた。
だけど、それでも。
それでも、おれは……
きっと、目をそらせない。
だって、今もこうして胸が苦しいのは、
この気持ちが本気だからだ。
「抜け駆けはなしだからね〜?」
そんな、おれの気持ちを読み取ったかのように、涼ちゃんが急にそう言ってきた。
「…え? 」
思わずおれが聞き返すと、涼ちゃんは少しいたずらっぽく笑った。
「なんか、今にも元貴に告白しちゃいそうな顔してたからさぁ。」
涼ちゃんは、冗談めかして言ったつもりだったのかもしれないけど…
その言葉の裏に、ほんの少しだけ、本音が混じっているような気がして。
おれは言葉を返せずに、黙ったままマグカップの中を見つめた。
「…そっか。そんな顔、してた?」
ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほどかすれていた。
涼ちゃんは、少しだけ目を丸くして、でも直ぐに、やわらかく笑った。
「うん。でもね、そういう真っ直ぐなとこ、若井の良いところだと思うよ。」
「…フォローになってない。」
拗ねたように返したおれに、涼ちゃんは『そうかな?』と首を傾げた。
「ずるいよ、涼ちゃんは。…いつも、優しくて、大人で。」
そうこぼしたとたん、涼ちゃんの表情が、ふっと曇ったように見えた。
けれどすぐに、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて…
「…でも、それで元貴が好きになるのが、僕じゃなかったら、意味ないんだけどね。」
その声があまりに静かだったから、思わず胸が締めつけられた。
たぶん、涼ちゃんも、ずっと苦しいんだ。
同じ気持ちなのに、笑っていられる涼ちゃんはやっぱり大人だ。
でも、それでも。
「勝負、だよね。」
おれがそう言うと、涼ちゃんは一瞬驚いたように目を見開いて、それから…
今度は心からの笑顔で、うん、と頷いた。
マグカップの紅茶は、もうぬるくなっていたけど、
胸の奥に灯った熱は、まだしばらく消えそうになかった。
・・・
その後、お昼ご飯を食べた後も、たまに会話をしながら勉強を続けたおれ達。
気付けば、外はすっかり暗くなっていて、そろそろ元貴が帰ってくる時間になっていた。
「そろそろ元貴、帰ってくるね。」
おれがそう言うと、『そうだねぇ。』と涼ちゃんは相槌を打った。
そして、静かな沈黙の後。
涼ちゃんは、ふっと小さく笑って、ゆっくりと口を開いた。
「僕さ、ずっと考えてたんけど…」
「なに?」
「抜け駆けはなしって言ったけどさぁ、」
「うん。」
「ってことは、同時に元貴に告白するって事になるのかな?」
「…確かに。」
「なんか、僕と若井が並んで告白してる所を思い浮かべたらさ、なんか面白くなってきちゃってさぁ。」
「…ぶはっ、た、確かに。」
不意を突かれて、おれもその光景を思い浮かべてしまう。
涼ちゃんと並んで、元貴の前で『好きです』なんて言ってる自分たち…
あまりにも想像がつかなくて、でもなんだかおかしくて、つい吹き出してしまった。
「なんかさ、どっかの恋愛バラエティみたいじゃない〜?」
笑い出したおれに、涼ちゃんもつられて、声を上げて笑い出す。
「“ここで選ばれるのは……どっち!?”とかナレーション入っちゃってさ。」
「いや、それ絶対元貴、固まって動けなくなるやつじゃん。」
「“え、えっと…二人とも…え、ちょ、待って?”って。」
「うわー、リアルにありそうで怖い!」
ふたりで笑いながら、ソファの背にもたれかかる。
体を預けたクッションが、柔らかく沈む。
けれど、笑いの余韻が静かに引いたその隙間に、 ふっと言葉が落ちた。
「でもさ…本当に、そういう日が来たら、どうする?」
涼ちゃんの問いかけは、冗談の延長みたいな軽さを纏っていた。
なのに、なぜだろう。
おれは思わず、口を閉じてしまった。
しばらくの間。
お互いの呼吸だけが、部屋の中に淡く響いていた。
それでも、おれは…
「たぶんおれ…それでも、ちゃんと伝えると思う。…本気、だから。」
静かだけど、真っ直ぐな言葉だった。
自分でもちょっと驚くくらい、迷いがなかった。
涼ちゃんは、一瞬だけ目を見開いたようだったけど、すぐにいつもの笑みに戻った。
だけどその笑みは、さっきまでの冗談の延長とは、少しだけちがう気がした。
「…そっか。」
それだけ言って、涼ちゃんは視線を外す。
けれど、どこか嬉しそうにも見えて、おれはちょっとだけ照れくさくなった。
リビングには、エアコンの風と時計の針の音だけが静かに響いていて、 その静けさに紛れるように、おれは小さく息をついた。
「涼ちゃんは…どうする?」
恐る恐る聞いてみると、涼ちゃんはソファの背にもたれたまま、天井を見上げて、ぽつりと答えた。
「…僕も、逃げたくないなって思ってる。」
「うん。」
「だってさ、どっちが先とか、どっちが勝つとかじゃなくて…自分がちゃんと“好き”って言えるかどうか、なんじゃないかなって。」
その言葉は、思っていたよりずっと真っ直ぐで、 どこかおれの心にも、すとんと落ちてくるような気がした。
「…ズルいな、やっぱ。」
ぼそっと漏らしたおれの言葉に、涼ちゃんは『え〜、また?』と笑って、 ソファの肘掛けに肘をついて、のんびりとおれを見た。
「でも若井が言った通りだよ。もう、本気なんだよね、きっと。」
「…うん。」
その一言に、嘘はなかった。
笑いながら話していたのに、気付けば、胸の奥が少しだけ熱かった。
そしてその時、ガチャッと玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー…。」
一瞬静まり返った室内に、元貴の少し疲れが見える声が響いた。
その声を聞いた瞬間、ソファに寄りかかっていたおれの背筋がピンと伸びる。
そんなおれの様子を見て、涼ちゃんはクスクスと笑いながら『おかえり〜』と、いつも通りの調子で返した。
少しして、キッチンの扉を開けて入ってきた元貴は、両手に大量の紙袋を抱えて立っていた。
「わぁ〜!どうしたの?!その荷物。」
涼ちゃんの声に、元貴は“疲れてます”と全力で顔に書いてあるような表情を浮かべて、紙袋をダイニングテーブルの上に、ゴトッと置いた。
見た目以上に重たそうなそれが気になり、おれ
と涼ちゃんはソファーから勢いよく立ち上がった。
「…タッパー?」
紙袋の中を覗き込むと、所狭しとぎゅうぎゅうに詰められたタッパーが目に入った。
「わぁ〜、唐揚げだ〜!」
涼ちゃんが嬉しそうに取り出したその中には、ふっくらした唐揚げがぎっしり。
「こっちは、野菜炒めっ。」
ひとつひとつ開けていくと、どれもこれも手作りのおかずでいっぱいだった。
元貴に聞くと、家を出る時、『どうせろくなもん食べてないんでしょ!』とお母さんが持たせてくれたらしい。
「わぁ〜!めちゃくちゃ美味しそぉ〜!」
「元貴のお母さんの料理、めっちゃ美味いんだよっ。」
「そうなの〜?食べるの楽しみ〜!」
テンションが一気に跳ね上がるおれと涼ちゃんの声に、元貴がちょっと得意げに口を開く。
「もおー、持ってくるの大変だったんだからねえ。感謝してよー?」
「なに威張ってんだよー。元貴が作った訳じゃないじゃん!」
笑いながらからかうおれに、すかさず涼ちゃんがフォローを入れる。
「でも、こんなに沢山、重かったよねぇ。元貴にも感謝しなきゃ〜。」
「ねえ、おれ、今日はこの麻婆豆腐がいい!」
「いいねぇ。じゃあこのエビチリも食べよ〜!」
「二人ばっか選んでズルい!この酢豚も食べよーよ!」
「いいねー!中華縛り!」
「お腹減ったー!」
「ぼくは一生懸命運んできたから、温めるのは二人でお願いねえー。」
「ふふっ、そうだねぇ。そのくらいならしてあげてもいいかな〜。」
「じゃあ、おれは残りを冷蔵庫に入れるね。」
「二人とも、お願いしまーすっ。」
笑い声が弾けるキッチンとダイニング。
気が付けば、そこにはいつものおれ達が居た。
おれも、涼ちゃんも…
元貴のことが好きだっていう事実は、変えようがなくて。
きっといつか、このままではいられない日が来る。
そんな未来に、少しだけ怖さを感じながらも…
それでも、もう少しだけ。
この三人で過ごす、なんでもない日々を……
特別だと思える“今”を、ちゃんと噛み締めていたい。
二人の笑顔を見て、おれはそんな風に思った…