ベルニージュは大王国の調査隊が築いた要塞の一室にいた。つい先日作られたばかりの建造物であるにもかかわらず、その部屋は長年の月日が経過したかのように傷みが出始めている。不思議に曝され、驚異を浴びた、間に合わせの工房の寿命は短い。
部屋の主たる赤髪の魔法使いは沢山の石板に囲まれ、そこに刻まれた文字を見つめている。石板とは言っても、まるで羊皮紙のような薄さであり、にもかかわらず確かに読める文字が刻まれている。
「こんな美学の欠片もないものを彫る日が来るなんて思わなかったわ」装飾品に彩られた衣服を身に纏い、鑿と鎚を巧みに動かし続ける婦人、彫る者が愚痴を漏らす。
その使い魔は岩塊から薄片を削り出し、そこに文字を彫り込む神業を行いながら会話は淀みない。
「ごめん。記す者には別の仕事を任せててさ」とベルニージュは答える。
「あたしより上手くできるとは思えないわね。あくまでこれは彫刻よ?」
「それも気になってたんだよね。比較したかったんだけど」
ベルニージュもまたつっかえることなく会話をしながらも、彫る者の彫り出す石の紙を手にとっては呪文を唱える。すると石の紙から火が噴き出て、ベルニージュは火を観察した後、帳面に何事かを書きつけていく。
「部屋の環境を維持できる者は私の他にいないのか?」と言ったのは報せる者だ。
「うん。いないね。気温も湿度も重要だから気を付けて」
「最近寝ずにやってるわね? どうかしたの?」と彫る者に心配される。
「別に? ただワタシにだって魔導書を再現することは出来るんだって証明しておこうかな、と」
彫る者と報せる者は顔を見合わせた。短い付き合いだが、ベルニージュの性格はもうある程度分かっている。下手に刺激して更にこき使われることのないようにしよう、と言葉を交わすことなく通じ合った。
「ベルニージュ。少し構わないか?」部屋の外から声をかけて来たのはヒューグだった。
ベルニージュのラーガに関する記憶とラーガ自身の魂の一部、そしてその男性性を併せ持った不思議な人物であり、今は虜囚だ。
「ヒューグ? 自由を与えられているの?」とベルニージュは文字から目を離さずに扉越しに尋ねる。
「まさか。要塞の中だけだ。男性性である私に従ってくれる部下もいない」
元々男性なのに? という疑念は湧いたが、戦士たちもことの細部など把握していないのだろう。どちらかが偽物というわけでもないが、ずっと付き従ってきた方を優先しているのだ。
「……何の用?」
扉を開くことなく言葉を交わす。
「話したいことが。二人きりで」その声色は切実だった。
「今じゃなきゃ駄目?」
良いところだったのだ。着想が次々に現れ、それを形にする力もあった。力たちはあまり乗り気ではないが。
「駄目ということもないが、立場上私が君と話す機会は作りづらい。これが最後かもしれない」
「でも……」ベルニージュが使い魔たちに視線をやると、特に感慨の無い視線が返ってくる。
「指示をくれればやっとくわよ」と彫る者は手を休めることなく言った。
実験は続けたかったが、ベルニージュは席を立つ。魂が剥がれそうなほど仮初の工房にいたかった。しかしヒューグの求めに応じずにはいられなかった。
「その体は気に入った?」
要塞内部に張り出した露台の一つで、手すりにもたれかかったベルニージュは石像のヒューグに問う。
改めて見てもよくできた石像だ。彩色されていないが、石の膚を持つ種族が存在するならばこのような姿なのだろうという想像に説得力を与えてしまう。この技術のお陰でベルニージュは魔導書再現への新たな道筋を見出したのだ。
「ああ。まるでこの体で生まれて来たかのようだよ。彫る者が気にしていたか?」
「ううん、別に。石材の質に文句を言ってたくらいかな」
「そう、か」ヒューグは己の石の体を眺めながら呟く。「これで質が低いとは」
「まあ、ずっと野晒しだった青銅像よりはましかもしれないけど。それより本題に入って。早く実験に戻りたいからさ」
「ああ、そうだな。私が大王国の王子に戻りたくないことは知っているな?」ヒューグの問いにベルニージュは黙って頷く。「私と奴の問題。つまり自分自身だけの問題だと思っていたのだが、私という存在には君の記憶も構成されていると知ってな。やはり返して欲しいだろうか?」
アギノアの話じゃないのか。そう思ったがベルニージュは口にしなかった。仮にアギノアの話だとしても特に答えられることもないのだが。
「返して欲しいね。話はそれだけ?」
ベルニージュは露台から離れる素振りを見せる。
「いや、まだ、そんなに急いでいるのか?」
「そういう訳じゃないけど、気になるんだよ」ベルニージュは港湾の縁にある工房の方へと目をやる。そして露台からの景色の中にいる何人かの使い魔に気づく。夜の港湾で精力的に働く者もいれば手持ち無沙汰に当てもなく歩き回る者もいる。それに封印を剥がされたかのようにただじっとしている者。「あの実験は使い魔たちのためにも……。まあ、あんたには関係ないけど」
「そう長くは時間を取らない。それで、その記憶自体がないのに返して欲しいと思うのか?」
「そういうこと、分かってるんじゃん。……ラーガの記憶を返して欲しいのは、別に思うところがあるわけではなくて、単に気になるってだけ。知らないことがあるのは気に喰わない。話はそれだけ?」
ヒューグは何も答えなかった、数秒の間だったが、居ても立っても居られないベルニージュは黙って露台を離れようとする。
「待ってくれ。一つ聞きたい。逃げることを自由と呼んでもいいのだろうか。半身と祖国を見捨てて、自分の為だけに生きることを」
その言葉は少なくともベルニージュを引き留めるだけの力は持っていた。振り返ったベルニージュは少しの間考え込み、挑むような声色で問う。
「不誠実なのは嫌。不自由なのも嫌。そういうこと?」
「……ああ、つまるところは、そういうことだ。身勝手だと思うか?」
「うん。そうだね。何が正しいかなんて知らないけど、ワタシなら戦う。戦って勝てば自分の思うままだよ」
ヒューグは呆れたような表情でベルニージュを見つめた後、笑みを零す。
「奴の気持ちが少しは分かったよ。それが君らしさなんだろうな」
ベルニージュは嫌そうな表情を浮かべて言う。「そういう、相手に伝えるつもりのない、仄めかすだけの言葉って嫌いなんだよ。逃げるとしても帰るとしても覚えておいて。話はそれだけ?」
「ああ、それだけだ」ヒューグは月光の漏れる天窓の方を見上げてそう言った。
ベルニージュも暫く同じ月の光を見る。巨大な天窓はまるでその月のためにあるかのようにすっぽりと収まっていた。すぐに見飽きるとベルニージュは踵を返し、工房へ足を戻した。
道中、ベルニージュは出来事と心情を振り返る。特に気になったのは男性に対する嫌悪感をヒューグには抱かなかったことだ。石像だからか、自分の記憶だからか、実質幽霊みたいなものだからか、仮説は思いつくが確信は得られない。
ふと廊下の窓から下階の露台に輝く者を見る。月光を浴びた真珠の体は月精の如き美しさで、ただその場に佇んでいるだけで目にした者を見惚れさせていた。
逃げたいということは、つまりアギノアと共に生きたいということなのだろうか。ベルニージュにはよく分からなかった。







