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一通りの実験を終えたベルニージュが寝室へと戻ろうとした頃、既に朝の息遣いが要塞の中にも漂い始めていた。北に開かれた港からの景色に新しい日の兆候はまだないが、ささやかな音と匂いと空気の感触でそれが分かる。そしてまだ月光の気配があった。先ほど見た天窓から別の天窓に移って、白銀の佇まいを誇示し、今なお夜の端に君臨している。
欠伸を隠さず廊下の一つを歩いていた時、やはり露台の一つで、ヒューグとアギノアが密会しているのを遠目に見つけた。
ラーガから逃げるかどうするか、ヒューグはアギノアにも相談しているのだろうか。睡魔は背中を押して寝台に向かわせようとしているが、好奇心が首根っこをつかみ、ベルニージュを露台へ向かわせた。悪趣味であることは自覚しているが、彼らの決定がラーガの行動に、ひいては魔導書の入手に大きく影響を与えるのだから、聞かざるを得ないのだ、と自分を納得させるのは容易かった。ベルニージュは腰を屈めて隣の露台の手すりに隠れ、息を潜める。目立つ赤髪も赤眼も、それを見ているのは白い月だけだ。
「逃げましょう。ヒューグさん。貴方にとって大事なことを優先すべきだと、私は思います」アギノアの柔らかな声色に固い決意が込められている。「わ、私と駆け落ちを……」
月光を浴びるアギノアはまるで月が地上に降り立ったかのような艶やかさで、陰ある石像のヒューグとは対照的だ。ヒューグはそう据え付けられた像かのように露台の手すりを抑えて港を見下ろしている。
「永遠に逃げ隠れすることになるよ。大王国の人間が最も近寄りがたいシグニカの土地にいた時に私たちは見つけられてしまったんだ。大陸のどこでも気の休まることはないだろう」
「それでも構いません」アギノアは縋るように吐露する。「いいえ、むしろ願ったり叶ったりです。ヒューグさんと土地を巡っていた時こそが、私にとって最も幸せな日々でしたから」
終わらない争いを予感させるその決意はベルニージュを少し苛立たせた。物事には決着をつけなくてはならない。白か黒かであって中間はないのだ。逃げるならば逃げ切るべきなのだ、決して誰の手も届かない所まで。
「逃げるのに良さそうな使い魔もいます」とアギノアは悪意もなさそうに付け加えた。
それは困る、のでワタシを敵に回すことになる、からやめた方が良い、とベルニージュはやきもきする。
「ユカリたちも敵に回すことになる。それこそ永遠に追って来かねない」
そうそう、逃げるなら正々堂々逃げよう、ベルニージュは飛び出すのを堪えながら心の中で呟く。
まるで全てに決着がつき、幕引きするかのように沈黙が静寂の帳を下ろした。寝静まった要塞の内部は月光の精美な輝きさえも耳に聞こえてきそうなほど静かだ。
間を置いてアギノアが問う。
「そもそもラーガ殿下は融合を強要して来ていませんよね? 何か迷いがあるのでは? 頼めば見逃してくれるかもしれません」
そんなの駄目だ、と言いたかったがベルニージュはじっとこらえる。ねだって得たものが真に自分のものになることはない。何より、ラーガは情のみで施すような人間ではないはずだ。
「確かに私がこうして迷っているのだから、奴にも何かあるのかもしれない。融合を躊躇う理由が。それに賭けるのも選択肢の一つか」
馬鹿々々しい、とベルニージュは蹲ったまま石の床を睨みつける。委ねるくらいならねだる方がいくらかましだ。
その時、足音が近づいてくるのが聞こえた。検査でもしているかのように淀みなく、狂いなく、硬質に響いている。廊下を歩いてくる巡回の戦士か何かだろう。この様子を見られれば、どう思われるだろうか。密会するヒューグとアギノア、それを盗み聞きするベルニージュ。邪な思惑を邪推するのは容易い。
「救済機構の方がまだましな使い方だったよ。覗きと盗み聞きを見咎められないように、だなんて」とベルニージュの心の中で報せるが不平を言う。「本性に化ける度胸は感心するが」
「うるさいな。使えるものは使うだけだよ」
ベルニージュは一瞬の内に鼬の姿へと変身する。ただし全身から黒い粘液を溢れさせ、尻尾の代わりに剣が、二本の足の代わりに二本の蠍の尻尾が生えた奇怪な姿だ。
途端に全ての天窓が雲に覆われて月光が遮られ、首輪に繋がれた犬の群れのように北風が城の内部へと侵入してきて露台から廊下へと吹き付ける。
足早な足音と共に歩哨の松明が通り過ぎていった。ベルニージュと同様にヒューグとアギノアもやり過ごすことが出来ていた。
ベルニージュが雲を退かせ、風を追い払うとしばらくしてアギノアとヒューグが溜息を漏らす。
「ヒューグさん? どうかなさいました?」アギノアが不安そうに潜めた声で尋ねる。
「こうやって、誰かの目から身を隠す日々が、生活が、自由とはとても言えない。アギノア。大陸を巡るならば、堂々とだ」暫しの二人の沈黙の内にベルニージュはその場を立ち去ろうと腰を上げる。「私は奴と融合する」という言葉だけが去り際に聞こえた。