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シフトの引き継ぎの合間、柔太朗がふらりと顔を出したのは、いつものように静かな夜のことだった。仁人はカウンターの端で、いつも通りグラスを傾けている。
「──あれ、また会いましたね」
「柔太朗さん。今日は、何の用事ですか」
「勇ちゃんに、ちょっと相談があって」
そう言いながら、柔太朗はカウンターの中に入り、勇斗の隣に立った。
二人並ぶと、この店はいつもより少しだけ狭く感じられる。
「相談って、何?」
「俺、そろそろ、限界かもしれません」
その切羽詰まった唐突な一言に、勇斗の手が止まった。仁人は何のことか見当もつかず、静かに耳を傾けるほかなかった。
「限界って、まさか」
「はい。あの人が、そろそろ、噛んでほしいってねだってきてて。俺は、まだ迷ってるんですけど」
柔太朗は珍しく、迷いを隠さない声で呟いた。長い付き合いの中で、これほど揺らいだ様子の後輩を見るのは、勇斗にとっても初めてのことらしい。
「噛むこと自体が怖い?」
「怖いというより。一度、あの人の血の味を知ってしまったら、もう戻れない気がして」
「──大変なんですね。そういうの」
仁人が思わず零すと、柔太朗はこちらを見て、肯定も否定もせず静かにほほ笑んだ。
悩みを吐露することで、幾分か心が軽くなったらしい。くすっと笑いを零せば、わざとらしく視線を勇斗へ移した。
「まぁ、先輩に比べたら、俺の方はまだ単純ですよ。──先輩なんて、じわじわ囲い込んで、いつの間にか手放せなくなってるパターンでしょう」
「柔太朗」
「図星なんですね、その反応」
からかうような口調に、勇斗は苦笑いを浮かべるしかなかった。仁人はその様子を見ながら、少しだけ、微笑ましい気持ちになる。長い付き合いの二人の間には、気安さと、それでいて確かな絆のようなものが感じられた。
「それで、結局どうするつもりなんだ、お前は」
勇斗が尋ねると、柔太朗は少しの間、考え込むように黙った。
「たぶん、もう、時間の問題だと思います。あの人、諦める気なさそうなので」
「なら、腹括るしかないだろ」
「なんか説得力ありますね。──自分のことは、ちゃんと括れてるんですか」
痛いところを突かれ、勇斗は言葉に詰まった。仁人はその様子を見て、思わず小さく笑ってしまう。
「勇斗さんも、まだ何か迷ってることあるんですか」
「いや、迷ってはないけど。ただ、こういうのは、慎重にやりたいタイプなんだよね、俺」
「慎重、というより、臆病なだけじゃないですか」
柔太朗が容赦なく突っ込むと、勇斗は反論できずに黙り込んだ。
仁人はその不甲斐なく指摘される姿に、安心すらした。ヴァンパイアという存在も、結局は人間と同じように、迷い、悩み、恋をするのだと、改めて実感できた気がしたから。
柔太朗はそう締めくくると、静かに帰り支度を始めた。
「今日はこれで。あの人、待たせてるので」
「気をつけて」
「勇ちゃんこそ。あんまり、仁人さん待たせすぎないようにしてくださいね」
意味深な一言を残して、柔太朗は店を後にした。残された店内には、しばらくの静けさが漂う。
「なんか、大変そうでしたね」
「うん。あいつも、あいつなりに、必死なんじゃないか」
「勇斗さんは、もう、そういう迷いはないんですか。──俺との、この先のこと」
仁人の問いに、勇斗はしばらく黙った後、ゆっくりと首を振った。
「──迷いはないよ。ただ、仁人くんの覚悟が決まるまでは、急がないでおこうと思ってる」
その言葉に、仁人は小さく頷いた。まだ、はっきりとした覚悟を口にする勇気はない。だが、その日が、そう遠くないことだけは、確かに感じ取っていた。
窓の外の夜は、いつものように静かに更けていく。だが、その静けさの奥には、確かな緊張感が、二人の間に横たわり続けていた。