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その夜、仁人は自分から、勇斗にこう告げた。
「今夜、ちゃんと話したいことがあります」
改まった様子に、勇斗はいつもの飄々とした空気を引っ込め、静かに耳を傾けた。
閉店後の店内、二人だけの静けさの中で、仁人はゆっくりと言葉を選ぶ。
それはまるで、口に出してしまったら、もう戻れないとわかっているかのように。
「覚悟、決めました。勇斗さんに、噛んでほしいです」
その一言に、勇斗は驚いたように目を見開いた。
これほどまっすぐに、仁人が自分の意志を差し出してくる瞬間を、初めて見た気がした。
「──本当に、いいのか?」
「はい。ずっと、考えてました。柔太朗さんの悩みを聞いた時も、正直、他人事とは思えなかったので」
「怖くない?」
「怖いですよ、当然。でも、それ以上に、全部を、ちゃんと知りたいと思ったので」
その言葉に、勇斗の胸の奥が、じんと熱くなった。
確かめるように、仁人の頬をそっと指で撫でて、手を添えた。
「──なら、ちゃんと、キスさせて」
答えを待たず、深く口づけた。
長く、そして濃密なキスだった。舌先が絡み合い、互いの吐息が混じり合う。ただ、これから先の覚悟を、互いの体温で確かめ合うためのものだった。
唇が離れた時、仁人は小さく息を弾ませていた。頬は上気し、瞳には、隠しきれない熱が浮かんでいる。
「──ちゃんと、伝わりました?」
「十分すぎるくらい」
勇斗はそう答えると、仁人の体をゆっくりと反転させ、背後から抱きしめるように腕を回した。正面から向き合うのではなく、後ろから包み込むような体勢に、仁人は一瞬、戸惑いを見せる。
「こっちの方が、怖くないでしょ」
耳元で囁かれた声に、仁人は小さく頷いた。確かに、正面から牙を近づけられるよりも、こうして包み込まれている方が、不思議と安心感がある。今から戻れないことをするのに。腕の中に、すっぽりと収まりながら、仁人は静かに目を閉じた。
勇斗の指先が、仁人の襟元に触れ、そっと引き下げる。露わになった首筋に、夜の空気がひやりと触れた。
「緊張してる?」
「してないと言ったら、嘘になります」
「うん。だから、少しだけ、目、瞑ってて」
言われるがまま瞼を閉じようとした仁人だったが、その前に、勇斗の片手が、そっと目元を覆った。温度の低い掌が、瞼の上に重なる。目の前が暗く閉ざされて、何も見えない。
「なんで、目隠しまで」
「見られたくないんだ、俺の顔」
その理由に、仁人は小さく笑いそうになった。
「今更、格好つけてるんですか」
「格好つけてるわけじゃなくて。たぶん、俺、今から結構、余裕なくなると思うから。そんな顔、見せたくない」
誰かに縋るような、余裕のない自分の顔を、大切な相手にだけは晒したくない。そんな不器用な優しさが、掌越しに、確かに伝わってくる。
「分かりました。見ない代わりに、ちゃんと感じさせてください」
その言葉に、勇斗は小さく息を呑んだ。目隠しの下で、仁人がどんな表情をしているのか、見ることはできない。だが、その声の柔らかさと言葉で、十分すぎるほど、覚悟の強さが伝わってきた。
背後から抱きしめられたまま、仁人は腕に、体重を預けた。視界を奪われたことで、他の感覚が、いつもよりずっと鋭敏になっていく。首筋に触れる吐息の熱、肌に触れる指先の冷たさ、そのすべてが、これまでにないほど鮮明だった。
「いくよ」
短い言葉の後、首筋に、鋭い痛みが走った。声も出なかった。
だが、それはすぐに、別の感覚へと溶けていく。目隠しをされたまま、仁人はただ、聴覚と触覚だけで、勇斗の存在を感じ取っていた。
口の中に流れ込む血の味に、勇斗の喉が、小さく鳴る。長い年月をかけて、ようやく巡り会えた、かけがえのない味わいだった。理性の奥に押し込めていた執着が、堰を切ったように溢れ出す。
「──っ、勇斗さん」
仁人の声が、小さく震えた。痛みは確かにあるはずなのに、それ以上に強く込み上げてくるのは、満たされていくような、不思議な陶酔感だった。視界を塞がれたまま、仁人は背後から包み込む腕の力強さに、身を委ねる。
しばらくして、勇斗はゆっくりと顔を上げ、目元を覆っていた手を離した。
仁人が目を開けると、そこにはいつもの、少し照れくさそうな勇斗の笑顔が戻っていた。
「見せてもらえなかったですね、結局」
「次の機会があったら、考えとく」
はぐらかすように笑う勇斗に、ようやく緊張が解けたように仁人は小さく息を吐いた。
首筋には、小さな傷跡が残っている。勇斗はそこに、労わるように舌を這わせた。傷口は、驚くほど早く塞がっていく。
「痕、残っちゃったね」
「いいです、それは」
仁人は気怠げに笑いながら、指先でそっとその跡に触れた。
「なんか、これで、本当に、勇斗さんのものになった気がします」
その言葉に、勇斗は目を細めた。愛おしそうな、それでいてどこか安堵したような響きだった。
「──ずっと、囲い込みたかったから。仁人くんのこと」
「知ってます、それは。もう、十分伝わってました」
二人の間に流れる空気は、これまでのどの夜よりも、穏やかで確かなものだった。窓の外では、いつものように、静かな夜が更けていく。仁人はもう、逃げるつもりも、疑うつもりもなかった。ただ、この人の隣にいることが、いつのまにか、自分自身の帰る場所になっていることを、静かに受け入れていた。