その一
世間では師走一色となり始めた十二月上旬。高梨にミーティングルームへ呼ばれた梢は、幹部役員との協議の末、『ひかり書房』として久子との契約を打ち切ることを決めたことを聞かされた。
「彼女のことは忘れて、これからも励んでくれ」
「はい」
久子との関わりがなくなり安堵した梢は、その夜久子の件を笑理にも伝えた。
「当然の処分だよ、梢にあんなことしたんだから」
これ以上のことは何も求めない梢に対し、笑理はまだ気に入らない様子だった。
「どうかした?」
「『ひかり書房』で書けなくても、他の出版社で書くでしょう。何か腑に落ちないというか……いっそのこと作家辞めれば良いのに」
「笑理……」
自分事のように怒ってくれることが、梢にとっては嬉しかった。
「あのさ、梢。一緒に、旅行行かない?」
すると笑理は改まったように提案をしてきた。
「旅行?」
「もうすぐ、お母さんの三回忌なの。お墓参りに行きたくてさ。それに、おばあちゃんやお姉ちゃんに、梢のこと紹介したいの」
梢に断る理由などなく、大きく頷いて、
「うん。デートは何回もしてきたけど、旅行は初めてだもんね」
恋人との旅行という楽しみが増え、梢の顔には明るい笑顔が戻っていた。
翌週。梢と笑理は、早朝出発の高速バスに乗り、約六時間をかけて岐阜県高山市の奥飛騨に到着した。
十二月の奥飛騨は既に雪が降り始めて気温も寒く、連絡バスを乗り継いで『奥飛騨クマ牧場』に赴いたときには、梢も笑理も持参していた厚手のコートを羽織り、マフラーを首に巻いた。
「すごい! こんなに間近で熊見たの初めて」
子どものように興奮気味で熊を見る梢を笑理は愛おしそうに見つめている。また、ピンクのマフラーと、萌え袖状態でコートを羽織っているのも重なって梢が可愛く見え、一人ほくそ笑んでいた。完璧なビジュアルとはまさにこのことだと、熊を眺める梢の横顔を、笑理はスマホで撮影した。
「ほら、笑理も見てみなよ」
手招きをされて、笑理は梢の隣から熊を眺めた。幼少期、父や母、姉と共に家族旅行で奥飛騨に来た時は必ずと言って良いほど足を運んだ思い出の場所で、ふとその頃の記憶が脳裏をよぎった。
ツキノワグマの子熊との記念撮影をし、売店でお菓子やファンシーグッズを購入した後、二人は建物を背景に自撮りの記念写真も撮った。
会場にいる間、常に可愛らしい笑顔を絶やさなかった梢を見て、自分は心底惚れているということを改めて実感していた。
その二
奥飛騨温泉郷は、平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高の五つの温泉地で形成されている。梢と笑理は『奥飛騨クマ牧場』からタクシーで十五分ほどの平湯に向かった。その一角に、昔ながらの二階建て木造建築で、しっかり手入れされた日本庭園が設えられている『奥飛騨温泉郷平湯・湯の宿むらた旅館』があった。
タクシーを降りてすぐ、梢は外観を物珍しく見上げて、
「ここが笑理のおばあちゃんの旅館」
「そうだよ」
笑理にとっては、母の納骨の際に宿泊して以来二年ぶりだが、長い年月来ていなかったような懐かしい気持ちであった。
梢と笑理がロビーへやってくると、フロントから黄土色の布地に写実的な草花模様という加賀友禅の着物の若い女性が姿を現した。
「笑理ッ」
「久しぶり、お姉ちゃん」
迎えたのは、笑理の三歳年上の姉、朱理であった。
「こちらが、お連れ様?」
「うん。私の担当をしてくれてる編集者の山辺梢ちゃん。高校の時のテニス部で後輩だった子なの」
「初めまして、山辺梢と言います」
「若女将で笑理の姉の朱理と言います。本日は遠いところお越しくださり、ありがとうございます。お疲れになりましたでしょう、早速お部屋にご案内いたします」
祖母を手伝っていることもあり、佇まいに品が出てきていると姉の姿を見て笑理は思った。
「おばあちゃんは?」
「今、組合の会議で出かけてて、夕方には戻ってくると思う。夕飯時になるとみんなバタバタしちゃうから、夜にでもゆっくり挨拶に行くわ」
「うん」
朱理に案内され、梢と笑理は二階にある客室の一室を案内された。広々とした十畳の和室で、広縁からは山の景色が一望できる造りである。
「良い部屋ですね」
「ありがとうございます」
「ねえお姉ちゃん。もう露天風呂って入れる?」
「うん、うちは十五時から夜中の十二時まで入れるの。朝は六時から入れるから朝風呂にも良いと思う」
朱理は改めて正座をして宿泊の案内を一通りすると、仕事に戻っていった。
「じゃあ梢、一緒にお風呂行こうか」
「うん」
浴衣に着替えた梢と笑理は、風呂場へと向かった。ちょうど他に客もおらず、内湯に入った後、頑丈な岩造りの露天風呂に浸かった。
「はあ、極楽だ!」
「良いところでしょ、ここ」
「また来ようね」
笑理はふと、梢を後ろから抱きしめた。
「今晩、ちゃんとおばあちゃんとお姉ちゃんに話すね」
「うん」
二人きりの空間になっているのを良いことに、笑理は優しく梢に口づけをした。
その三
夕食は広間で他の宿泊客と同時に取った。仲居が運んできた料理は、飛騨牛の陶板焼や山菜の天ぷらなど、板長が腕によりをかけて名物や旬の食材を調理した彩り豊かなものばかりであった。
幼少期から変わらぬ味で笑理にとっては懐かしい味だが、梢は初めて食べるものばかりでどれも美味しそうに食べていた。
「どうしたの?」
不思議そうに梢が見つめた。
「ううん。やっぱり、美味しそうにご飯食べる梢って可愛いなと思って」
笑理はうっとりと、梢を見つめながら箸を進めた。
九時を回り、客室に戻っていた梢と笑理は、缶チューハイを飲みながらのんびりとしたひと時を過ごしていた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
廊下から女性の声が聞こえて梢が答えると、朱理と共に、井桁模様をあしらった藍色着物の老女が一緒に入ってきた。所作の美しさから、品格の良さがにじみ出ている。
「本日は、湯の宿むらた旅館にお越しいただきありがとうございます。大女将の村田房代と申します」
丁寧に三つ指を立てて挨拶をした笑理の祖母房代に対し、梢も改まったように、
「『ひかり書房』で編集者をしています、山辺梢です」
笑理は微笑みながら房代を見て、
「おばあちゃん、久しぶり」
「笑理、ようおんさった」
梢にとっては聴き慣れない岐阜弁だった。
「山辺さんは、笑理の高校時代の後輩でもあると、若女将から聞きました。当時から本当にお世話になったそうで」
「いえ、お世話になってるのは私の方です」
すると笑理は、険しい顔でボソッと一言、
「お父さんが、よろしくお伝えくださいって」
笑理のその言葉で朱理が険しい顔になり、房代も明らかに不機嫌な顔になったのを梢は見逃さなかった。
「お父さんに会ってるの? 母子家庭だって……」
梢は不思議そうに尋ねると、笑理は一瞬うつむいたが、
「私、梢に黙ってたことがあるの」
「……?」
「親が離婚する前までの私の名前はね、高梨笑理って言うの」
「高梨って……え、噓でしょ……」
梢の中で大きな衝撃が走った。
「嘘じゃない。あの高梨部長が、私たちのお父さんなの」
「山辺さんが笑理の担当編集者と聞いたとき、おそらく接点はあるのではと思っておりました」
房代の後ろで正座していた朱理が重い口を開いた。
「恥をお話しますが、この子たちの母親は旅館を継ぐのが嫌で家を出ていき、勤めていたクラブで出会った常連客と結婚しました。ただ、その相手が女性にだらしのない人で……」
梢は黙って房代の話を聞き続けた。
その四
「結婚して二人の子どもができた後も、あの人はほとんど家庭を顧みなくて。身の回りの世話をしてくれる、体の良いお手伝いさんが欲しかっただけなんでしょう。離婚した後だって、養育費払えば済まされると思って、父親らしいことなんて何もしなかったんですよ。この子たちの母親が亡くなったときも、笑理に持たせた香典も突き返してやりました」
嫌悪感満載で話す房代を見て、高梨がこの家族たちから相当嫌われていることを梢は察した。
「私が大学在学中にコンクールに応募して、ペンネームでデビューしたとき、お父さん……高梨部長は別のプロジェクトで忙しくて、私の作品を読んでなかったの。後になって、私だって知った時は驚いたらしい」
笑理が冷静に口を開いた。
「『ひかり書房』に応募したのは、高梨部長がいらっしゃったから?」
「うん。本当の目的は、あの人に私の存在を知らしめたかったからなの。結果としては同じような仕事をすることになるなんて、とんだ皮肉だよね」
「……」
「お母さん、亡くなる前、私に呟いたの。ごめんねって。何に対して謝ったのか分からないけど、家族に謝罪しながら死んでいったお母さんが哀れに思えてさ……」
梢は笑理にどう言葉をかけて良いのか分からなかった。
「この子たちの母親は早くに亡くなりましたけど、二人の娘がそれぞれの思いをもって今を生きてるだけで、あの世から喜んでると思います。朱理はこの旅館を継いでくれてますし、笑理も作家として活動しながらも、母親の三回忌のために帰ってきてくれましたし」
梢がふと笑理を見ると、笑理は大きく頷くと正座をした。
「あのさ、おばあちゃん……。こっちに来たのは、確かにお母さんの三回忌のためでもあるんだけど、本当はもう一つあるの」
房代と朱理は不思議そうにお互いの顔を見合った。
「私ね、今、梢と付き合ってて、同棲もしてるの。私は、女の人しか好きになれないの」
笑理のカミングアウトを梢は黙って聞き、そのまま房代たちに頭を深々と下げた。
「そう……。まあ、そうなるのも無理ないわ。けど、笑理が幸せに暮らしてるんだったら、おばあちゃん、何も言わないわ。あんたの人生なんだから」
「お姉ちゃんも……」
笑理の目には涙が浮かび、梢はもう一度房代たちに頭を下げ、
「ありがとうございます……」
「今日はごゆっくりお休みください。では、私たちはこれで」
房代と朱理は三つ指を立てて頭を下げると、去っていった。
その五
房代と朱理が去った後、笑理は安堵の様子だったが、梢は笑理と高梨の関係性のことが頭からは離れず難しい顔のままである。
「いつ言おうか、ずっと迷ってた……」
梢の中で、一つ合点がいくことがあった。それは、件のパーティーの後、二日の休みを経て復帰した際、高梨から何も言われなかったことだ。
「もしかして、笑理が何か言ったの?」
「まあね」
パーティーの翌日、笑理は買い物に出かけると外出をしていた。その時、笑理が高梨と会って梢との関係性を説明したことを、梢は聞かされた。
「あの人に、私の恋愛をとやかく言う資格なんてないもん。自分だって好き放題やってきて、家族を壊したんだから」
「これまで他人のふりをしてたのは、周囲の人たちに家族だってことを知らされないようにするため?」
「うん……。だから、梢にもなかなか言い出せなくて。それに、西園寺久子のことも……」
「西園寺先生?」
「離婚する頃、あの人の不倫相手だったのが西園寺久子」
笑理が久子を毛嫌いしていた本当の理由が、梢にはようやく分かった気がした。
「生理的に嫌いって言ってたけど、本当は家族崩壊の原因になった人だったからなんだね」
「そういうこと……。私の親を離婚に追い込んで、梢にもあんなことして、私は一生あの女を許さない」
梢は雰囲気を変えるように優しく微笑んで、
「今日はもうゆっくり休もうよ」
「そうだね」
笑理も小さく頷いた。
それぞれの敷布団の中で眠っている梢と笑理だったが、笑理はどうも寝付くことができず、何度も寝返りを打っている。
「寝れないの?」
笑理の様子に気づいた梢が振り向いた。
「まあね……」
「一緒に寝ようよ」
梢が掛布団をめくった。笑理が枕を持って、梢の隣に密着するように入る。
「ねえ、笑理」
「……?」
「私、まだ全然笑理のこと知らなかった。今日、それを痛感した気がする。笑理は、ずっと苦労してきたんだね……。でも、もうそんな思いさせない。私がいるから」
これまで何度も頭を撫でられてきた梢は、今日初めて笑理の頭を撫でる側となった。
「ありがとう。私、梢を担当者にしてくれた高梨部長には感謝してる」
「高梨部長は、私が後輩だってこと知ってたんじゃないかな。学生時代に接点があることを分かったうえで、私を担当にしたのかもしれない」
「どうでも良いよ。梢と出会えただけで十分なんだから」
「笑理……」
梢は笑理の額にキスをした後、ゆっくりと唇を近づけて口づけをしあった。