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※ふたりはお付き合いしてる設定
すべて妄想です
レコーディングブースの中は、冷たい空気に満ちていた。窓の外は漆黒の闇。深夜だ。
僕はヘッドホンをそっと外した。弾き終えたばかりのキーボードから手を離し、ブースの外にいる元貴を見た。カチッという小さな音、それは僕の心臓の鼓動よりも大きく響いた気がした。
「んー……違うんだよなぁ、りょうちゃん」
元貴の声は、彼自身の疲労のせいか少し掠れていた。でも、その言葉は鋭い刃のように僕の胸を突き刺す。
「技術的なことじゃない。この曲に求めている『熱』が、まだ出てないんだよ。今のテイクはさ、何かすっごく真面目な『お手本』みたい」
唇を噛んだ。自分が元貴の要求に応えられていないのはわかっている。今回の曲は激しく燃えるようなイメージで、そのうえ難しいフレーズが多用されている。この曲に求められているのは、技術以上に感情の爆発だ。なのにテイクを重ねるうちに指先が冷たくなり、頭が真っ白になって自分でどう弾いているのかわからなくなってくる。
感情をこめようとするとミスをする。だからミスしないようにすると感情のない音になる。
完全に悪循環に陥っているのが自分でもわかった。ああ、僕だけがみんなの時間を、元貴の集中力を奪っている。その焦燥感で、僕はますます納得のいく演奏から遠ざかっていった。
ブースのガラスの向こう。若井がじっと僕を見つめているのがわかった。彼のギターパートは完璧に終わっている。
普段なら僕を笑わせるような仕草をする彼が、ただ静かに見守っている。今はその優しさが、僕にはかえって重かった。早く終わらせたい。若井を、みんなを早く家に帰したい。
結局、ブースを閉め切ってのテイク取りは、日付が変わるまで続いた。
「……りょうちゃん、これでラストにしよう」
元貴の、もうこれ以上は無理だという投げやりなような、それでも諦めていない声が響いた。僕は最後の力を振り絞った。もう技術は気にしない。
荒削りでも、テンポが多少揺れても、指が少しミスをしても構わない。この長い夜に感じた悔しさ、焦燥、そしてこの曲への純粋な気持ちを、そのまま鍵盤にぶつけた。
ブースを出た時、僕は立っているのがやっとだった。足に力が入らずフラフラしながらみんなの元に戻る。
すぐに若井が僕を支えて背中に手を当ててくれた。
「涼ちゃん、お疲れ様。まじで、お疲れ」
その声が、すごく優しくてじわっと涙が浮かんだ。
元貴は少しの沈黙の後、微笑みながら小さく頷いた。
「……うん、いいね。今のがずっと俺が求めてた音だよ。すっごく気持ちがこもったいい演奏だったよ、りょうちゃん」
その言葉を聞いた瞬間、僕は全てから解放された。同時に、極度の疲労と、何テイクも重ねてしまったことへの情けなさで、全身の力が抜け落ちるのを感じた。
自分の車で来ていた若井はマネージャーに僕を乗せて帰ると告げ、みんなに遅くなった謝罪とあいさつをしてふたりで車に乗り込む。
若井は僕に何も聞かずに、自分のマンションへ直行した。そのことに僕は安どしていた。なんとなく今日は一人にはなりたくなかったから。
若井のマンションに着いても、僕たちはほとんど口をきかなかった。若井はただ、僕の背中を支えるように寄り添ってくれる。
シャワーを浴びて、若井のTシャツとスウェットを借りてベッドに潜り込む。若井の部屋の匂い、慣れたシーツの感触。いつもなら一瞬で寝落ちるのに、今日は違った。
若井が僕を抱き寄せ、頭を撫でてくれる。
「おやすみ、涼ちゃん。明日は昼からだし、ゆっくり休んで」
「ありがとう。若井もゆっくり休んでね、おやすみなさい」
おやすみとは言ったものの、彼の腕の中にいるのに、僕の身体は石のように強張っていた。呼吸も深まらない。僕の意識はまだ、あのスタジオにいる。鍵盤と睨み合っている。
「…涼ちゃん?寝てないでしょ」
しばらく経って耳元で囁かれ、ごまかせないと悟った。小さく息を吐き出す。
「ごめん、若井……眠れない」
「やっぱり」
若井が身体を起こし、柔らかな間接照明だけをつけた。僕も身体を起こし、膝を抱える。
頭の中に、元貴の「お手本みたい」という言葉が焼き付いていた。
「僕、今日全然ダメだった。元貴に「お手本みたい」って言われた時、本当に情けなくて。みんな、夜遅くまで待たせて……」
声が震えた。レコーディングという戦場から離れた途端、後悔と自己嫌悪が容赦なく僕を襲ってきた。
若井が優しく僕の手を取り、手の甲にキスをした。その柔らかくて温かい感触が少しだけ痛い心を温めてくれる。
「そんなことないよ。最終的に、元貴がすごく良かったって言ってくれたでしょ」
「そうだけど……何テイクも重ねて、やっとだよ?最初からあんな演奏が出来てたら、みんなもっと早く帰れたのに。僕が、僕だけが、足を引っ張ったんだ」
僕は顔を伏せた。若井は僕の頭をそっと撫で続ける。
「あのさ、涼ちゃん」
若井の落ち着いた声が響く。
「俺が知ってる涼ちゃんは、誰よりも努力してるよ。今日だって、レコーディングの直前まで仕事で動いてたじゃん。家に帰って疲れてるはずなのに、俺が寝た後もリビングでヘッドホンしてあの曲ずっと練習してたの、俺は知ってるんだからね」
その言葉に、僕はハッとして顔を上げた。隣で眠っている彼を起こさないようにと気を付けていたつもりだったけれど。僕の努力を、夜中にひっそりやっていたことを、彼は知っていた。
「俺から見たら今日の涼ちゃんはミスしないようにって、焦ってるように見えたんだ。気持ちはわかるよ。俺もバカみたいに難しいフレーズあると、わけわかんなくなることあるから。でも涼ちゃんはいつも元貴の世界観を深く理解して、それを素直に鍵盤に乗せるよね。最後のテイクは涼ちゃんが元貴から受け取った世界観がそのまま溢れ出てた気がする。元貴が最後に「気持ちがこもったいい演奏だった」って言ったのは、その溢れ出たものをちゃんと受け止めたってことだと思うんだけど」
「うん……若井の言った通り。ずっと間違えないようにって力入っちゃってて。でも元貴からラストにしようって言われてさ。もう少しくらいミスしてもいいやって開き直って、僕が感じてるもの全部音に乗せようって思って弾いたの」
「そっか……本当にがんばったね、涼ちゃん」
優しく微笑んで、若井は強く僕を抱きしめてくれる。
「誰かに言われたからとかじゃなくて、涼ちゃんの音を一番近くで聞いている人間として言うけど、今日の最後のテイクは本当に最高だった。俺、聴いてて震えたもん。だから、自分を責めないで」
僕は彼の肩に顔を埋め、深く、深く呼吸をした。若井の温かい体温と、真摯な言葉。それだけで、あのスタジオで固まってしまった僕の心が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「……ありがとう、若井」
少しだけ元気が出たらお腹が空いてきちゃったな。
「ねぇ、若井……僕なんか、お腹空いちゃった。多分、いろいろ力使いすぎた」
そう言うと、若井は目を細めて笑った。
「はは、涼ちゃんらしいな。よーし、じゃあ、ちょっと気分転換に散歩しようか。外の空気吸ったら、スッキリするよ。アイスでも買ってこよう」
身バレしないようマスクをして帽子をかぶり、僕たちは深夜の街にスウェット姿で飛び出した。手を繋ぎ、コンビニに向かう。アスファルトの冷たさが、まだ熱を持っている僕の頭を冷やしてくれた。
「それにしてもさ、こんな時間にアイスとか、完全に太っちゃうパターンだよねー」僕は笑った。
「いいの。頑張ったご褒美だよ」
さっきまで僕を苛んでいたレコーディングのことは、もう話題にしない。
「そういえばさ、今日の昼若井変なダンスしてたじゃん。あれ何?」
「あー、あれね、動画サイトのマネして……って、涼ちゃん見てたの?あの時涼ちゃんいなかったからやったんだけど」
「見てたよ。だってあの時はまだ暇だったんだもん。トイレ行って戻ったら若井が変なダンスしてたから、ドアの外からおもしろいなぁって見てた」
「うわ、めっちゃ恥ずかしいやつじゃん。あれさぁ、元貴に無理やりやらされたんだよ」
他愛のない、どうでもいい会話。このどうでもいい時間が、僕には何よりも必要だった。僕を縛り付けていた鎖が、夜の空気の中に溶けていく。
コンビニで、僕はちょっとリッチなカップアイスを選び、若井はいつものコーンタイプを選んだ。
帰り道、僕たちはマンションとは逆方向の、誰もいない小さな公園に寄り道した。ベンチに並んで座り、夜空を見上げる。そして、アイスの蓋を開けた。
「んー、美味しい」
一口食べた瞬間、体中に染み渡る冷たさと甘さ。生き返るなぁ。
「ね、涼ちゃん。俺、涼ちゃんのああいうとこ、すごく好きだよ」
「ああいうとこ?」
「泣きながら、プレッシャーで潰れそうになりながら、それでも最後まで絶対にあきらめない。そのやりきったって結果が、あのテイクなんだよ」
若井は静かに、僕の目を見て話す。
「俺は、涼ちゃんが頑張ってるのを知ってる。だから、たまには頼ってよ。こうやって一緒にアイス食べて、どうでもいい話してさ。涼ちゃんがまた明日から頑張れるエネルギーをチャージするのも、俺の役目なんだから」
僕はカップを握りしめたまま、若井の方に向き直った。
「うん。本当にありがとう、若井。若井がいてくれてよかった。若井の言葉で、全部報われた気がする」
僕たちは残りのアイスを食べ終え、空の容器を手に立ち上がった。もう夜風は冷たくない。
マンションに戻り、ベッドに入る。若井は今度は、僕を安心させるように抱きしめてくれた。
「おやすみ、涼ちゃん」
「おやすみ、若井」
彼の胸に顔を押し付け、規則正しい心臓の音を聞く。頭の中のレコーディングの音は完全に消えた。あるのは愛しい人の温もりと鼓動だけだ。
張り詰めていたものが全て解き放たれ、僕は深い眠りに落ちていった。