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第42話:裏切れなかった忠義、されど破られた沈黙
夜更けの政務室に、灯りが一つだけ灯っている。
焔は積み上げられた書類に目を落としていたが、同じ一文を三度読み返して、ようやくそれが先月の年貢報告であることに気づいた。玄安に詮索を封じられてから、表立った捜索の手はとうに止まっている。街から上がる些細な報告にも、目を通さずにいた。この一月あまり、その全てが空振りに終わっているのだ、もう意味はない
そこへ、控えめな足音とともに侍従が現れる。
「陛下。夜分に恐れ入ります。女官長・椿様が、火急のご相談があると、お目通りを願っておいでです」
(椿が、この時間にか)
脳裏に、少し前の回廊で偶然鉢合わせた、あの短いやり取りが蘇る。「あいつは、無事なのか」と静かに問うた自分に、椿は「存じません」と答えた。だが、扇を握るその指先が、確かに震えていた。
「通せ。それと、今夜この部屋に近づく者は、お前以外一人もいらん。誰も入れるな」
侍従が一礼して下がっていく。
(どうせ、別の要件だ。さしずめ奉納祭の事務関係だろう)
そう己に言い聞かせるほどに、胸の奥では抑えきれない何かが、逆に大きく脈打っていた。
○
障子の向こうに衣擦れの音が近づき、椿が姿を見せた。いつもの洗練された所作で一礼するが、頬はわずかに強張り、扇を持つ指先に隠しきれない緊張が滲んでいる。彼女は部屋の隅々にまで視線を巡らせ、誰もいないことを確かめてから、ようやく口を開いた。
「これから、わたくしがお話しすることは、薬師殿との約束を破ることになります。……それでも、お聞きになりますか」
焔の全身が、瞬時に張り詰める。
「……知っているのか。あいつが、どこにいるか」
「存じております」
短い、しかし途方もなく重い肯定だった。
「なぜ、今まで黙っていた」
「薬師殿に、頼まれたからです。『ここだけの話にしてください』……あの方との約束を、わたくしはこの一月、唯一違えずに守り抜いてまいりました。ですが、もう、これ以上は黙っていられません」
椿は懐から数枚の覚書を取り出し、卓上に広げていく。
「まず、これを。教会が『真の治療薬』の配布を始めた日付です。城下で荷運びを差配する家の女官の筋から確かめが取れております。高札が立てられたのは、ご記憶にございますでしょう。ですが実際に荷が動き始めていたのは、その三日も前でございました」
「……三日、前?」
「はい。欠陥が『発覚』する前から、教会は既に大量の『真の治療薬』を用意していたことになります。それに、霧百合の球根のことも、薬師殿とわたくしの伝手だけで五百個集めるのに、あれほど骨を折ったことを、陛下もご記憶のはず。教会が独自に、あれほど短期間で同じ数を用意できるはずがございません。雲海地方の問屋筋にも当たらせましたが、あの時期、新たに大量の球根が動いた記録は、どこにもございませんでした」
焔の眉間に、深い皺が刻まれる。
「そしてもう一つ。薬師殿がお気づきになった、薬包の色と匂いの違い。あれを、陛下の御前で宰相様に直接お伝えになったはずです」
「……ああ。玄安は、教会が回収し検分中だと答えた」
「ですが、検分をした記録は、教会にも宰相様のお手元にも、どこにもございませんでした。あの薬包は、あれきり誰の目にも触れておりません」
焔は拳を卓上で握りしめた。紙の端が、みしりと歪む。
「……握り潰した、ということか」
「確たる証拠と呼べるものは、これらの中に一つもございません。ですが、あまりにも都合が良すぎるのです」
焔は、しばらくの間、蝋燭の炎を睨みつけたまま動かなかった。怒りが、腹の底で静かに凝固していく。
だが椿が本当に伝えたかったのは、その先だった。
「陛下。薬師殿が、なぜご自分から身を引かれたのか。その、本当の理由についてです」
椿は、玲が発つ前夜に手引きを頼んできたこと、その時一度だけ「本当に、それでよろしいの」と踏み込んで尋ねたことを語った。
「薬師殿はこう仰いました。『陛下の呪いは完治しました。私の役目は、もう終わったのです』……『椿様。私は逃げるのではありません。ただ、潮時を見極めているだけです』、と」
焔の喉から、押し殺したような呻きが漏れた。
「わたくしには、分かるのです。あの方は、ずっと、ご自分を『不要になれば捨てられる道具』だと思い込んでいらした。幼い頃、跡取りが生まれた瞬間に家から追いやられた記憶と、陛下の完治とを、重ね合わせてしまわれたのでしょう」
(皇后になった後も、と、俺は言ったはずだ)
焔は両手で顔を覆った。指の隙間から漏れる荒い呼吸だけが、部屋に響く。
(あれを、本気にしていなかったわけじゃない。本気にしすぎて、怖くなったんだろうが)
「わたくしも同罪です。もっと早く、こうして陛下にお話ししていれば。ですが、約束を守ることこそがあの方への忠義だと、そう思い込んでおりました。……ただ、調べを進めていくうちに、それを天秤にかけ続けることが、もう、わたくしにはできなくなったのです」
涙を拭った椿は、真っ直ぐ焔を見つめた。
「陛下。行き先を、申し上げます。実家を更に北上した国境沿いに在る、森の小屋です」
長い沈黙が落ちる。焔はその一言を、頭の中で何度も反芻した。
「……なぜ、今になって話す気になった」
「考えたのです。薬師殿が本当に望んでいらしたのは、誰にも見つからず独り朽ち果てることだったのでしょうか。……いいえ、そうではないと思うのです。あの方は、ただ、必要とされなくなることが怖かっただけ。それに、先日、陛下が灯りもつけぬまま研究棟に一人で立ち尽くしていらしたと、ある女官から伝え聞きました。薬師殿も、陛下も、互いにを必要としている。ならば、これ以上黙っていることこそが、お二人にとっての罪だと悟ったのです」
「……お前は、約束を破った。玲に、恨まれるかもしれないぞ」
「ええ。覚悟の上でございます。本当の忠義とは、言われた通りに黙り続けることではなく、その方が、本当に幸せになる道を選び取ることだと、わたくしは思うのです」
焔は、しばらくの間、椿の顔をじっと見つめていた。
「……分かった。玄安には、絶対に気取られるな。彩にも、何も言うな」
「承知いたしました。彩様は、おそらく何もご存知ないかと。あの方もまた、利用されているだけなのでしょう」
焔は小さく頷いた。
「……陛下。どうか、薬師殿を迎えに行ってさしあげてください。あの方は、きっと今も、独りで意地を張っていらっしゃるはずですから」
焔は答えなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
「それでは、陛下。わたくしはこれで、失礼いたします」
一礼した椿の背中に、もう迷いは見えなかった。障子に手をかけたところで、最後に一度だけ振り返る。
「……陛下。どうか」
それだけ言うと、椿は静かに一礼し、部屋を後にした。
そこに在るのは、女官たちの手で紡がれた、玲の無実を証す幾つもの糸。
卓上に広げられたままの覚書が、灯りの下で頼りなく揺れている。その片隅に記された、たった一つの地名だけが、焔の頭の中で何度も反響していた。
コメント
1件
ああもう、椿……!😭 彼女がずっと黙ってたのは玲との約束を守るためだったけど、「本当の忠義」に気づいて動いたのが胸熱すぎる。 焔が玲のことを「本気にしすぎて怖くなった」って自覚してるところも、研究棟で立ち尽くしてた話も、お互い必要としてるのにすれ違ってもがいてる感じが切なくてたまらん。玲が「道具だと思い込んでる」とこ、あの子の生い際考えたら刺さるわ…。 焔、絶対迎えに行ってくれ頼む!!🔥