テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第36話:飲み込んだ悲鳴で、全てを悟った
彩が慌ただしく蔵を飛び出していった後、辺りには再び静寂が満ちた。
焔は、改めてゆっくりを周囲を見渡した。
破れた扉の隙間から差し込む月明かりが、床に広がったままの血だまりを青白く照らし出している。割れた木箱、転がった得物、そして自らが斬り伏せた骸の気配、争いの残滓がいまだ僅かな余韻を残している。それらすべてが、ついさっきまでここで何が起きていたかを、雄弁に物語っていた。
焔は、自分の腹に触れる。傷はない。彩の力によって、あれほどの深手が跡形もなく消え去っている。だが、その安堵は一瞬で吹き飛んだ。
視線を巡らせた先、傍らに座り込んだまま動かない玲の姿に、焔の意識は釘付けになる。
――ひどい顔色だ。
血の気の失せた顔、色をなくした唇。壁に背を預け、崩れ落ちるようにして座り込んでいる姿は、いつもの飄々とした、どんな傷を負っても悪びれもせず軽口を叩く、あの生意気な女からは、想像もつかないほど頼りなかった。時折、細い肩が小さく震えているのが見える。
「……おい」
掠れた声で呼びかけながら、焔は膝を折り、玲の肩に手を伸ばす。触れた肌は、驚くほど冷たかった。
「……なんですか」
かすかに顔を上げて、玲が応じる。声にも、いつもの張りがない。焦点の定まらない目が、ゆっくりと焔を捉えた。
「その顔色は何だ。彩に、治してもらえばよかっただろうが」
「これは、傷ではなく血の量の問題ですので。彼女の力は及びません。いえ、そもそも……」
説明する声は、いつも通り事務的だった。だが、その口調とは裏腹に、体は小刻みに震え続けている。
「……立てるのか」
「……少し、休めば」
試すように腕を突っ張ろうとした玲の体が、あっさりとぐらつく。焔はとっさにその肩を支えた。
――立てるどころではない。
玲の素っ気ない説明を聞いても、焔の中で焦燥が消えることはなかった。むしろ、その物言いが、事態の深刻さを裏付けているように思えた。この女は、いつもそうだ。他人の怪我や病には、あれほど執拗に、あれほど正確に原因を突き止めようとするくせに、自分の体のこととなると「これくらいは平気だ」の一点張りで済ませようとする。
時間をかければ治る、という言葉も、今は額面通りには受け取れなかった。焔の脳裏に、拘束されていた蔵の中で見た、あの金属の管の光景がちらついた。あれほどの血を失っておいて、悠長に構えていられる道理がない。
「単なる、貧血です。時間をかければ、自然に治ります」
「時間をかける? 悠長なことを言っている場合か」
「他に、方法がありません」
「ある」
焔は、迷いなく言い切った。
「……何を、するつもりですか」
怪訝そうに眉を寄せる玲を、焔は無言のまま見返す。
答える代わりに、迷いなく自らの袖を捲り上げた。露わになった手首を、玲の目の前に突き出す。
「飲め」
「……いえ、そこまでしていただかなくても。私の不調は、いずれ勝手に治るものです」
「遠慮する体力があるなら、さっさと飲め」
「陛下、これでは契約と違います。ただの、私の体力の問題で――」
「屁理屈はいい」
玲が動こうとしないのを見て、焔は苛立たしげに舌打ちする。本当に、面倒な女だ。いつもは図々しいくせに、こういう時に限って遠慮するとは。
血を分け与えることなど、これまで幾度となく繰り返してきた行為のはずだった。契約という建前の下、玲が焔の血を求めることは当然の権利として扱われてきた。それが今、なぜこの女は、こうも躊躇うのか。焔にはその理由が理解できなかった。ただ、悠長に問答を重ねている時間が惜しいことだけは、はっきりと分かっていた。
焔は自ら膝をつくと、玲の口元へと、自分の手首を近づけていった。有無を言わせぬその動きに、玲の抗弁は続かなかった。
玲は、しばらく躊躇うように焔の手首を見つめていた。差し出された肌には、まだ新しい傷一つない。彩の力によって完全に癒えた、健やかな手首だ。それでも玲の目には、何かをためらう色が浮かんでいる。焔にはその理由が読めなかった。
だが、焔の一喝と、自分自身の限界とを天秤にかけた末、玲は諦めたように小さく息を吐いた。
「……失礼します」
震える手で焔の手首を支えると、玲は乾いた唇を、静かにその肌へと寄せていった。
焔は、それを黙って見つめていた。当たり前のように繰り返してきた、いつもの光景のはずだった。焔が対価を差し出し、玲が己の渇きを満たす。ただそれだけの、二人の間で確立された、ありふれた夜の一幕。何も、変わらないはずだった。
やがて、犬歯の先端が、皮膚に浅く沈み込んだ。
瞬間、激痛が全身を奔った。
〇
ーー今思えば、ずっと考えないようにしていたんだ。
犬歯が皮膚を裂く感触は、何度も繰り返してきたそれと、寸分違わないはずだった。薄い皮膚の下で脈打つ場所を探り当て、そこに歯を沈める。溢れ出す血の味も、鉄と、その奥にある仄かな甘さも、いつも通りだ。そう、思っていた。
だが、手首を支える指に、いつもとは違う力がこもっているのに気づいたのは、口をつけてすぐのことだった。普段なら、この人の腕は力なく、こちらに預けられたきり動かない。契約という建前の下、飲まれるがままになる、ただの容れ物のような無防備さがあったはずだ。それが今は、指先が掌に食い込むほどの強さで、握り込まれている。腕全体にも、微かな強張りが伝わってきた。
(……何か、おかしい)
だが、その違和感を深く追う前に、渇きの方が勝った。喉を鳴らして血を飲み進めるうち、これまで頭を覆っていた鈍い霞が、少しずつ晴れていく。血が体を巡り、欠けていた部分を埋めていく、いつもの感覚だ。頭が冴えるほどに、思考は明瞭になっていく。それなのに。ーーいや、それだからこそ、先ほどの違和感が、輪郭を濃くしていくのを止められなかった。
口を離さないまま、私はそっと視線だけを持ち上げた。
そこにあったのは、これまで一度も見たことのない顔だった。固く食いしばられた歯。眉間に深く刻まれた皺。金色の瞳は、わずかに逸らされたまま、こちらを見ようとしない。何かに必死に耐えている、そんな光が、その奥で揺れていた。痛みという感覚そのものを知らないはずのこの人が、こんな表情を浮かべる理由など、一つしか思いつかない。
(――まさか)
痛いのですか、陛下。
そう尋ねたかった。だが、今口を離せば、この光景を見定める機会そのものを失ってしまう気がして、言葉にできなかった。焔は何も言わない。ただ、長く、固く、歯を食いしばり続けている。
血を吸う口の中で、脈が伝わってくる。いつもより速く、強く、まるで駆けた後のような拍動だった。これまで、この人の脈がこんな風に乱れたことがあっただろうか。……いや、記憶にある限り、一度もない。甘いはずの血の味を、今の私はほとんど感じ取れずにいた。
必要な量を飲み終えたところで、私はようやく口を離した。喉を伝って落ちていく熱が、少しずつ体の隅々にまで染み渡っていく。それを感じながら、私は今しがた目にしたものの意味を、ゆっくりと咀嚼していった。
これまで、何度この人の血を吸ってきただろう。数えるだけ無駄なほどの回数を重ねてきたはずだ。その全てが、この人にとっては何の痛みも伴わない、ただの日課に過ぎなかった。
だが、もう違う。
呪いが完治する、ということは同時に、あの「痛みのない夜」が、二度と戻らないということでもある。思えば、この人の血を吸うたび、私は「契約」という建前の下で、ある種の甘えを許されていた。相手が痛みを感じないからこそ、私は遠慮なく牙を立てることができた。罪悪感を抱く必要すらなく、ただ純粋に、目の前の渇きだけを満たせばよかった。それは、私たちだけに許された、歪でありながら確かな絆の形だったのだと、今更ながらに思い知る。
その形が、今、音もなく終わりを迎えようとしている。
「……陛下」
「……何だ」
「痛かったでしょう」
焔は、一瞬、答えに詰まった。その一拍の沈黙こそが、何よりの答えだった。
「……知るか」
いつも通りの、素っ気ない返事。目も合わせず、興味なさげに視線を逸らす仕草まで、いつも通りを装っている。
だが、誤魔化されはしない。
「……そうですか」
これで、確かなものが変わってしまった。
手首に残る、自分自身が刻んだ小さな歯形を、私はしばらくの間見つめていた。この痕が、これから先この人にどれほどの痛みを強いるものになっていくのか、考えるだけで胸の奥が微かに軋む。
隣に座る焔の横顔を、私はしばらくの間、無言のまま見つめ続けていた。夜はまだ深く、蔵の外では、乾いた風が朽ちた扉を小さく鳴らし続けていた。
コメント
1件
うわああ第36話…!😭💦 ようやく焔が痛みを感じるって玲にバレちゃった瞬間、めっちゃ胸締め付けられた…! 「痛かったでしょう」って玲が言うところ、焔が一瞬答えに詰まる間がもうエモすぎて倒れるかと思ったよ…。今まで「痛くない」から成立してた血の契約が、これからどう変わっていくのか想像するだけでドキドキが止まらない…!2人の関係性が新しいフェーズに入った感じがたまらないね✨ 繹尾ぴえんさんの書く静かな夜の緊迫感、マジで引き込まれっぱなしでした…次回も楽しみにしてます🌸