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第37話:救世主の椅子は、もう埋まっていた
東の空が白み始めた頃、蔵の外で複数の足音と話し声が近づいてくる気配がした。
「玲様、陛下! 神官の皆様と、無事合流できました!」
彩を先頭に、数名の神官たちが蔵の中へと駆け込んでくる。彼らは倒れている賊の骸と、床に広がる血だまりの惨状に一様に息を呑んだが、すぐに指示を待つように彩へと視線を向けた。
「すぐに荷馬車を手配します! お二人とも、決して無理に動かないでくださいね」
てきぱきと指示を出す彩の姿は、いつもの献身的な聖女そのものだった。神官たちの手を借り、私たちはどうにか荷台へと運び込まれる。荷馬車が動き出す直前、彩が窓越しに顔を覗かせた。
「玲様。……本当に、ご無事で良かったです」
その声には、演技ではない、心からの安堵だ。
「彩殿にも、大変な負担をおかけしました。……ありがとうございます」
「いいえ! これくらい、当然のことです。……わたくしはこれから、他の神官様方と一緒に、負傷された方々への追加の手当てと、大神官様へのご報告に向かいます。玲様たちは、どうぞそのまま王都へお戻りください」
「分かりました。……お気をつけて」
「はい! また落ち着きましたら、必ずお伺いいたしますね」
彩は最後にもう一度、私の手を両手でぎゅっと握りしめると、晴れやかな笑顔を残し、他の神官たちと共に別方向へと駆けていった。
(……本当に、変わらない人だ)
荷馬車が、街道を進み始める。しばらくの間、車内には規則正しい車輪の音だけが響いていた。
「……彩の奴も、律儀なことだな」
窓の外を眺めたまま、焔がぽつりと呟く。
「彩殿らしい、と言うべきでしょう。……陛下は、お加減いかがですか」
「治ったと言っただろうが。……お前こそ、まだ顔が真っ白だぞ」
「血を作っている最中です。時間が経てば戻ります」
いつも通りの、噛み合わないようで噛み合っている会話。それだけのことに、私はなぜか小さな安堵を覚えていた。神官たちが差し入れてくれた薬湯を口に含む。温かいものが喉を通るたび、少しずつ指先にまで力が戻ってくるのが分かった。
だが揺れる車内で、私の頭は昨夜の記憶を繰り返し反芻していた。金属の管に貫かれた痛み。焔の絶命しかけた顔。自らの手首に犬歯を立てようとした、あの一瞬。……そして、代わりに彼の血を吸った時に感じた、あの異様に速い脈拍と、強張った横顔。あの後のことを、私はまだうまく処理しきれていなかった。
ふと見ると、焔は自分の手首に、無意識に指を這わせていた。私の視線に気づいたのか、彼はすぐにその手を止め、何事もなかったかのように腕を組み直す。
(……気にしているのですね。痛かったことを)
窓の外を睨むその横顔には、まだ拭いきれない苛立ちが滲んでいる。だがそれが何に対する苛立ちなのか、今の私にはまだ、正確に読み取ることができなかった。
○
半日ほど揺られた後、荷馬車はようやく王都の外門をくぐった。だが、その瞬間から、私は言いようのない違和感を覚え始める。
門番たちの態度が、以前とは明らかに違っていた。以前ならば、私たちの馬車を見とめるなり、多少なりとも親しみを込めた会釈を寄越したものだ。今は、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように視線を逸らし、そそくさと敬礼だけを済ませる。
「……妙だな」
「……ええ」
大通りを進むにつれて、その違和感は、確信に近いものへと変わっていく。以前、感謝の言葉と共に頭を下げてきたはずの露天商の女は、私と目が合うなり、慌てて品物の陰に身を隠すようにして顔を伏せた。井戸端で洗濯をしていた女たちは、荷馬車が通り過ぎる音に一斉に顔を上げたが、私の姿を認めるなり、何かに気づいたように口をつぐみ、互いに視線を交わし合うだけだった。
その中に、見覚えのある顔を見つけた気がした。……お篠だ。彼女は、水路沿いの角に立ち尽くし、こちらをじっと見つめていた。だが私が視線を返すと、彼女は弾かれたように顔を伏せ、人混みの中へと紛れて消えていった。その一瞬の表情に浮かんでいたのは、敵意ではなかった。むしろ、何か言いたいことを飲み込んでいるような、困惑と申し訳なさの入り混じった色だった。
「……あいつら、何を怯えている」
焔が低く、苛立たしげに呟く。
「分かりません。ですが、以前とは明らかに、私への態度の質が違います」
「質、だと」
「以前の陰口には、まだ悪意や好奇心という、感情がありました。……今のこれは、もっと乾いています。まるで、私に関わること自体が、危険であるかのような」
焔は答えなかった。ただ、窓の外を睨みつける金色の瞳に、剣呑な光が宿っていくのを、私は横目で見ていた。御者が、居心地悪そうに手綱を握り直す気配が伝わってくる。
「……今日は、広場の方には近づかない方がよろしいかもしれませんね」
小声で、独り言のように御者が漏らした。
「何かあるのですか」
「い、いえ……その、何と申しますか……」
御者はしどろもどろに言葉を濁し、それ以上は何も言わなかった。だが、その反応こそが、何よりも雄弁だった。
(……広場に、何かがある)
御者の歯切れの悪い態度に、私は嫌な予感を覚えた。だが、その予感を確かめずにいられるほど、私は聞き分けの良い性格をしていない。
「広場を通ってください」
私がそう告げると、御者は明らかに躊躇う素振りを見せたが、焔の一睨みで、渋々と手綱を切った。
荷馬車が広場に差し掛かった瞬間、私はその理由を悟った。広場の中央、以前なら大道芸人や物売りで賑わっていたはずの場所に、人だかりができている。彼らが見上げているのは、真新しい高札だった。以前、私自身の功績を讃える文言が掲げられていたのと、寸分違わぬ同じ場所に。
荷馬車を降り、人垣をかき分けるようにして高札の前に立つ。群衆の何人かが、私の姿に気づき、ざわめきながら道を空けた。その視線には、恐れとも、気まずさとも、憐れみともつかない、複雑な色が浮かんでいる。
高札には、こう記されていた。
「先の疫病治療薬に、重大な欠陥のあることが判明。服用した患者の一部において、当初の回復から一転し、深刻な再発症状を引き起こす危険性が確認された。事態を憂慮した神殿は、聖女・花宮彩様の御力のもと、急ぎ『真の治療薬』を調合し配布。これにより、被害の拡大は食い止められ、王都の混乱は収束に向かっている。関係者一同、深く反省し、被害に遭われた方々への対応を全力で進めている」
何度も、文字を読み返す。読み間違いであってほしいと、心のどこかで願いながら。だが、そこに書かれた文言は、何度読んでも同じだった。
(……欠陥。私の処方に、欠陥があった?)
あり得ない。頭の中で、処方の手順を一つ一つ反芻していく。触媒の配合比、浸出時間、材料の品質検分……。どの段階を思い返しても、致命的な過ちは見当たらない。何度も検証を重ね、椿の伝手と彩の協力で確保した材料を、寸分違わぬ配合で仕上げたはずだ。
だが、その分析が徒労に終わることも、私は薄々気づいていた。目の前にあるのは、既に「事実」として確定された文言だ。私一人の記憶と検証など、この木札に刻まれた言葉の重みには到底敵わない。
群衆の中から、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「……あれが、例の」
「聖女様がいらっしゃらなかったら、大変なことになっていたらしいわね」
「陛下も、どうしてあんな薬師を……」
一言一言が、鈍い刃のように胸に突き刺さる。だが、痛みよりも先に立つのは、奇妙な冷静さだった。
(……感情的になっている場合ではありません。まずは、事実を確認することです。誰が、何を根拠に、この文言を掲げさせたのか)
そこまで考えて、私はふと、自分の思考が奇妙なほど平静であることに気づいた。まるで、自分自身の評判の崩壊すら、一つの症例として観察しているかのように。それが果たして強さなのか、それとも単なる現実逃避なのか、今の私には判断がつかなかった。
〇
高札の前で立ち尽くす私の隣に、焔が並んだ。彼が文言を読み終えた瞬間、周囲の空気が、目に見えて張り詰めた。
「……ふざけるな」
低く、地の底から響くような声だった。焔は腰の刀を鞘ごと引き抜くと、その柄で高札を思い切り叩き割った。バキンッ、という乾いた音とともに、木片が四方に飛び散る。群衆から悲鳴にも似たどよめきが上がった。
「誰が、こんなものを掲げた」
周囲に居合わせた役人らしき男を、焔は鋭く睨みつける。男は真っ青になって後ずさった。
「そ、それは……、宰相様の御指示で……!」
「宰相、だと」
焔の金色の瞳に、剣呑な光が宿る。私はその横顔を見上げながら、拳を握りしめていた。
(……宰相。久我玄安様)
脳裏に、あの糸目の宰相の、笑わない目の色が浮かぶ。だが今は、その意味を深く考える余裕がなかった。
「玲」
「……はい」
「城に戻るぞ。……この目で、確かめてやる」
低く、抑えた声だった。だが、その底に滾る怒りは、隠しようもなかった。
「……はい」
私は、再び荷馬車へと乗り込んだ。心のどこかで、まだ信じられずにいた。だが、確実なのは一つだけだ。何かが、私の知らないところで、大きく動いていた。
荷馬車が動き出す。割れた高札の残骸を、夕暮れの風が乾いた音を立てて撫でていった。
〇
(ここもですか……)
荷馬車が正門を潜った瞬間から、私は先ほどと同じ空気を肌で感じ取っていた。
門番たちは変わらず槍を掲げて敬礼の姿勢を取るが、その視線はどこか宙をさまよい、決して私と目を合わせようとしない。ただ、腫れ物にでも触れるような、居心地の悪い沈黙だけがある。夕刻の光が石畳を橙色に染め、長い回廊の先には、いつもよりも遠く感じる本殿の灯りが見えていた。
焔は馬車を降りるなり、大股で本殿へと歩き出した。その背中から立ち上る不機嫌の気配は、隠しようもなく濃い。
「……何の騒ぎだ、この空気は」
誰にともなく呟いたその声に応じるように、回廊の先から、若い官吏が息を切らして駆けてくる。議会の使い走りとして何度か顔を合わせたことのある男だった。だが今日の彼は、いつもの慇懃な物腰をかなぐり捨てたように、ただただ狼狽えていた。焔の姿を認めるなり、その場に崩れ落ちるようにして平伏する。
「へ、陛下! ご無事のご帰還、何よりにございます……!」
「無事かどうかは見れば分かるだろう。それより、街の高札はどういうことだ。説明しろ」
「そ、それが……月白様の処方に『重大な欠陥』が判明しまして、教会より、緊急に『真の治療薬』を配布した次第で……。これにより、王都の混乱は収束に向かっている状況でございます……」
「治療薬の欠陥について伺います」
努めて平静な声で、私は割って入った。感情ではなく、事実だけが欲しかった。
「具体的に、どのような症状が、何名の患者に、いつ確認されたのですか」
「そ、それは……申し訳ございません、私では、詳しい記録までは……」
「知るか、なら誰の指示でこうなった」
「宰相様が……久我様が、この件につきましては全て取り仕切っていらっしゃいまして……」
焔の眉間に、これ以上ないほど深い皺が刻まれる。その手が、腰の鞘へと無意識に伸びかけるのを、私は横目で確認していた。
「陛下。まずは、話の分かる方から詳細を伺うべきです。この方を責めても、事実は出てきません」
「……ちっ」
舌打ち一つで、焔はどうにか矛を収めた。だが纏う不機嫌の気配は、少しも和らいではいなかった。
「あ、あの、宰相様には既に、陛下のご帰還をお伝えしてございます。ほどなく、こちらに……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、回廊の奥から、静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
まるで見計らったかのような登場だった。急遽設けられたらしい小規模な謁見の間に、糸のように細めた目と、穏やかな微笑みを湛えた久我玄安が、ゆったりとした足取りで姿を現す。灯りが灯され始めた室内で、狼狽える官吏とは対照的な、その落ち着き払った所作そのものが、かえって私の神経を逆撫でした。
「これはこれは、陛下。……そして玲様も。このように、ご無事のご帰還、心より安堵いたしました」
深々と一礼する玄安に、焔は答える代わりに鋭い視線を返した。その言葉遣いに、非の打ち所はない。だが、その滑らかさこそが、何かを隠すための厚化粧のようにも思えた。
「回りくどい前置きはいい。街の高札の話だ。誰が、何を根拠に、あんなものを掲げさせた」
「……はい。恐れながら、順を追ってご説明いたします」
玄安は静かに語り始めた。
「玲様の治療薬を服用された患者様のうち、複数名に、当初の回復から一転して、極めて重篤な再発の症状が確認されましてございます。事態を重く見た神殿が、急ぎ『真の治療薬』をご用意し、聖女様御自らの献身により、これ以上の被害拡大を食い止めたのでございます。……すべては、煌牙帝国の民をこれ以上の混乱から守るための、苦渋の対応とご留意願いたいのです」
告げられた内容は、どれも街の高札で目にしたものと大差なかった。だが玄安の口から語られると、まるで既に検証済みの、動かしがたい事実であるかのように響く。
「その再発症例について、詳細をお聞かせください」
私は往診鞄を抱え直し、あくまで事務的な口調で続けた。
「何名に、どのような症状が、いつ確認されたのですか。それと、教会が用意されたという『真の治療薬』の成分も、併せて伺いたい」
「……申し訳ございません。事態があまりに急を要したため、記録の整理が追いついておらぬのが実情でございます。教会の秘薬の成分に至っては、これは神殿の秘伝に属するもの。わたくしの一存でお答えできる範疇を超えておりまして」
もっともらしく、しかし核心には決して触れない答えだった。私は、ここで一つの事実を突きつけることにする。
「では、一つだけ確認させてください。拘束される直前、私は自分の目でお梅殿の家に残された『再発の薬』を確かめました。色も、匂いも、あれは、私が処方したものとは明らかに異なっていました」
一瞬、玄安の糸目が、ほんの僅かに見開いた気がした。だが、それも一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「……ほう、それは初めて伺うお話でございますな。……その薬包でしたら、既に教会の方で回収され、検分中と伺っております。もし本当に不審な点があれば、いずれ然るべき形で明らかになりましょう」
「いつ調べ終わる」
「教会の作業でございますので、こちらでは何とも……。ですが、ご心配には及びません。もはや事態は収束しておりますゆえ」
(……調べる気など、端からないのですね)
怒りではなく、もっと冷たい何かが、腹の底に沈んでいくのを感じた。証拠は、確かにこの手で確かめたはずだ。それなのに、それは今、私の手の届かない場所へと、静かに運び去られてしまった。
「玲が、そんな見間違いをする女に見えるか」
焔が低く問う。
「滅相もございません。玲様の御力は、この身をもって陛下ご自身が最もよくご存知のはず。……ただ、確たる証拠がすでに教会の管理下にある以上、憶測でこれ以上の詮索をするのは、いたずらに混乱を招くばかりかと存じます」
言葉の上では私を庇いながら、その実、何一つ自分の手で検証する気がないことだけが、はっきりと伝わってきた。私はそれ以上、この糸目の宰相から新たな言葉を引き出せるとは思えなかった。だからこそ、最後にどうしても確かめておきたいことがあった。
「……お梅の一家は、今どうしていますか」
「そちらでしたら、聖女様の御力により、一命を取り留められたと聞き及んでおります。……不幸中の幸いにございましたな」
「……そうですか」
安堵と、割り切れない痛みが、同時に胸の中で渦を巻いた。助かったことは、紛れもなく良いことだ。それなのに、なぜこれほど、胸が冷たいのだろう。かつて自分の手で診た、あの小さな家族。自分の薬が届かなかった場所を、別の誰かの光が救った。ただそれだけの話のはずなのに、頭の中でうまく処理できない何かが、澱のように残っていく。
「彩殿には、直接お話を伺うことはできますか」
「彩は今、感謝の意を伝えたいという民の対応に追われておりましてな。……なにぶん、此度の一件で、すっかり英雄のように担ぎ上げられておりますゆえ。落ち着き次第、必ずや玲様にもご挨拶に伺わせましょう」
玄安はそこで一度言葉を切り、私を見据えるように、ゆるやかに続けた。
「玲様のご献身がなければ、そもそも多くの命が失われていたことも、また事実。……誰も、玲様のこれまでの御功績を、否定などしておりませんとも」
表向きは擁護するその言葉が、尚更残酷な皮肉として響いた。私はそれ以上、何も言わなかった。言ったところで、この男の穏やかな微笑みを崩す言葉など、今の私は持ち合わせていない。
○
玄安との謁見を切り上げ、私たちは重い足取りで研究棟へと戻った。
誰もいない部屋には、いつもと変わらぬ薬草の匂いが満ちている。だが、棚に並んだ器具の一つ一つが、今はひどく他人行儀に見えた。この場所は、皇后という座への対価として与えられたはずの「最高の職場」だった。それが今、まるで空虚な箱のように、私の目には映っている。
「……おい」
沈黙を破ったのは、焔だった。長椅子にどかりと腰を下ろしながら、こちらを見もせずに続ける。
「何ですか」
「お前、俺の体を調べてみろ」
唐突な物言いだった。だが、その声の奥に、何かを確かめたがっているような気がした。先ほど玄安に手も足も出なかった苛立ちを、目に見える、確かめられるものへとぶつけたいのかもしれない。私はそれを深く追及せず、薬師としての手順に従うことにした。感情の行き場のない今、目の前の作業に没頭できることが、むしろありがたかった。
「……分かりました」
往診鞄から手早く道具を取り出し、いつもの手順で焔の脈を取る。指先に伝わってくるのは、驚くほど穏やかで、規則正しい拍動だった。
「脈拍、正常です。……以前より、随分と落ち着いていますね」
続けて、瞳孔の反応を確かめる。金色の瞳が、灯りにすっと反応する。異常はない。
「陛下。今も、誰かを傷つけたい、殺したい、という衝動はありますか」
「……あ?」
「正直に答えてください。これは診察です」
焔はしばらく考えるように黙り込んでから、ぽつりと答えた。
「……ない。ここのところ、ずっとない」
「……そうですか」
私はこれまで何度となく肌で感じ取ってきたはずの、あの淀んだ、狂気じみた殺気の気配を、もう一度だけ探る。だが、それはもう、どこにも見当たらなかった。
「陛下の呪い……無痛症も、殺人衝動も、確認できる限り、完全に消え去っています。おめでとうございます。……完治です」
自分の声が、思ったよりも平坦に響いたことに、私自身が驚いていた。
「……そうか」
それだけ答えて、焔は視線を逸らした。何かを言いかけたようにも見えたが、結局その言葉は、形にならないまま飲み込まれた。
(今日で、治療を始めてから六十六日目。……薬効が完全に定着するとされる、まさにその日だ)
皮肉なものだ。私の薬師としての人生で、最も確かな勝利を証明できたこの日に、私の評判は地の底まで落ちている。積み上げてきた成果と、崩れ落ちた名誉が、同じ日の上に重なり合っている。その事実を、どう受け止めればいいのか、私自身にもまだ分かっていなかった。
その時、コンコン、と控えめな音がした。障子の向こうから、聞き慣れた声が響く。
「薬師殿……いらっしゃる? こんな夜更けに、ごめんあそばせ」
障子を開けて現れたのは、落ち着いた言葉とは裏腹に、慌てて駆けつけてきたことが一目で分かる、乱れた裾のままの椿だった。
「ご無事だと聞いて……。でも、この目で確かめないと、安心できませんでしたの」
「……ご心配をおかけしました。この通り、無事です」
椿は私の顔色を確かめるように、しばらくじっと見つめた後、詰めていた息を吐き出した。
「本当に、良かったですわ……とは言えないようですね。もしよろしかったら教えてくださらない?」
それから椿は、高札のこと、玄安との謁見のこと……、私が語る一部始終を、黙って最後まで聞いていた。聞き終えた後、彼女はしばらく思案するように扇を閉じたり開いたりしていたが、やがて、静かに口を開いた。
「……薬師殿。わたくし、少し腑に落ちませんの」
「何がですか」
「あまりにも、手際が良すぎますわ。教会の『真の治療薬』とやら、あれほどの規模の代物を、こうも短い間に用意できるものかしら。……薬師殿が材料を集めるのに、あれほど苦労なさったというのに」
(……確かに)
椿の指摘は、単なる感覚に過ぎない。証拠は何もない。だが、その素朴な違和感は、私の中でも燻っていた疑念と、静かに重なり合った。
「……仰る通りかもしれません。ですが、今の私には、それを検証する手立てがありません」
「ええ。……今すぐには、無理でしょうね」
椿はそれ以上、深く追及しようとはしなかった。ただ、その言葉の端に、彼女が静かに何かを覚悟している気がした。程なくして、椿は「また明日にでも様子を見に参りますわ」と言い残し、夜更けの回廊へと戻っていった。
○
椿を見送った後、研究棟には再び静寂が満ちた。
長椅子に深く沈み込んだまま、焔は腕を組んで目を閉じている。眠っているわけではないと、その呼吸の浅さで分かった。
焔の呪いは、完治した。それは紛れもなく、薬師としての私の勝利だ。だが同時に、彼の身体を治すという、この関係の出発点にあった「契約」もまた、今夜、静かに役目を終えたということでもある。
「ーーなんぞ、知るか」
目を閉じたまま、焔がぽつりと口を開いた。
「陛下」
「宮廷の連中がどう囃し立てようが、お前の薬が効いたことは、この体が一番よく知っている。……それだけで、十分だろうが」
いつもの、ぶっきらぼうな物言いだった。慰めの言葉には、程遠い。
「……そうですね」
そう答えながら、私は棚に並ぶ器具を、一つ一つ目で辿った。
(この部屋は、陛下の呪いを治すための対価として、与えられたものでした)
瑠璃の蒸留器、絡繰の遠心筒、玻璃の温室。
(その呪いが、今夜、完全に消えました)
どれも、治療への対価として与えられた、私の価値そのものを象徴する品々だったはずだ。だが今、それらは、ただそこにあるだけの、意味を失いかけた道具の山にしか見えなかった。
(……それなら、この部屋も、私も、これから先――)
そこから先を考えることを、私は意図的に止めた。今夜はもう、これ以上何かを結論づける気力が残っていない。
「……お休みなさい、陛下。今日は、色々とありましたので」
「……ああ」
焔は答えたが、目を開けようとはしなかった。
私は灯りを一つだけ残し、静かに機材の並ぶ棚へと向き直る。瑠璃の蒸留器が、灯りを受けて鈍く光っていた。以前なら、その輝きを見るだけで胸が高鳴ったものだ。今は、ただ静かに、そこにあるだけだった。
(……何かが、終わった。そして、何かが、まだ始まってすらいない)
言葉にならない予感だけが、静かに、胸の底に沈んでいった。
コメント
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第37話、読み終えました。高札を叩き割る焔の怒りが痛いほど伝わってきて、息をのみました。玲が冷静さを保ちながら「何かが終わった」と感じるラストの静けさが、とても重くて切ないです。彩の献身と宰相の巧みな話術の対比も見事でした。焔の呪いが完治したまさにその日に名誉が崩れる皮肉……世界の仕組みに翻弄される玲の立場に、胸が締め付けられます。続きが気になります!