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第三十三話 無応答層、沈黙の冠
返事の庭防衛戦から一夜が明けた。
衛宮邸の朝は、いつもより静かだった。
誰も大きな怪我をしたわけではない。
返事の庭も守られた。
おかえりの芽も、ごめんの芽も、見ている芽も、送別の芽も無事だった。
けれど、勝ったとは言えなかった。
無答核は逃げた。
返事なんて来ないと告げる、黒い穴を胸に持つ影。
その奥から、さらに別の声がした。
ならば、すべてを無答へ戻せ。
士郎は朝食の準備をしながら、その声を思い出していた。
鍋の中で味噌汁が静かに揺れる。
イリヤは卵を割っている。
ユイは砂糖と塩を間違えないよう真剣に見ている。
ミライは昨日の戦闘記録を読み返している。
凛は座卓で宝石板を広げ、寝不足の目をしていた。
「見つけたわ」
その一言で、台所と居間の空気が変わった。
士郎は火を止める。
「無答核の居場所か?」
「居場所というより、逃げ込んだ層ね」
凛は宝石板を皆へ向けた。
柳洞寺地下。
願いの畑。
返事の庭。
そのさらに奥。
昨日までは何も映らなかった場所に、黒い穴のような反応が浮かんでいる。
メディアが目を細めた。
「これは……神杯炉心の下?」
凛は頷く。
「ええ。神杯の炉心を砕いた時、私たちは願いを燃料から種へ戻した。でも、全部が畑に還ったわけじゃなかった」
ミライが記録を照合する。
「未分類願望群。応答不能、記録不能、休眠不能。三条件を満たす残滓が地下深部へ沈降」
ユイが小さく言った。
「返事を待つこともできなかった願い」
凛は重く頷く。
「その層を、仮に“無応答層”と呼ぶわ」
イリヤの手が止まる。
「そこに行くの?」
士郎はすぐには答えなかった。
行かなければならない。
そう思う。
でも、すぐに飛び込むのは違う。
凛が士郎をじっと見る。
「今日は偵察。目的は無答核の完全討伐じゃない。無応答層の構造確認、無答核の追跡、そして奥にいる何かの正体を掴むこと」
メディアが言う。
「戦闘は避けられないでしょうけど、深入りはしない。撤退線を先に作るわ」
士郎は頷いた。
「分かった。無理に倒しに行かない」
凛は少しだけ目を細める。
「本当に?」
「本当に」
ミライが即座に記録した。
「衛宮士郎、無応答層で無理に単独突入しない宣言。重要度最大」
ユイも頷く。
「大事」
イリヤも頷く。
「すごく大事」
士郎は苦笑した。
「分かってるって」
メディアは肩をすくめた。
「分かっている者ほど、戦場では忘れるものよ」
反論できなかった。
◆
出発前、イリヤは卵焼きを小さな箱に詰めた。
ユイが首を傾げる。
「戦いに卵焼き?」
「バーサーカーに見せる分と、帰ってきた後に食べる分」
イリヤは真剣な顔だった。
「帰ってくる予定があるって、大事でしょ」
その言葉に、士郎は少しだけ胸を突かれた。
帰ってくる予定。
戦いに行く時、それを用意しておく。
それは、ただの食べ物以上の意味を持っていた。
凛も何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「いいわ。帰還目標としては上等ね」
ミライが記録する。
「卵焼き、帰還アンカーとして機能可能」
メディアが呆れたように笑う。
「本当にこの家、何でも術式にするわね」
桜は静かに台所から包みを持ってきた。
「私も、簡単なおにぎりを作りました。戻ったら食べましょう」
メドゥーサは桜の横で頷く。
「帰還後の食事予定。良い固定です」
士郎は皆を見渡した。
凛。
メディア。
イリヤ。
ユイ。
ミライ。
桜。
メドゥーサ。
そして、自分。
英霊の多くはもういない。
アルトリアもアーチャーも帰った。
だが、今ここにいる者たちは、確かに戦う準備をしている。
守るために。
聞くために。
そして、返ってくるために。
◆
柳洞寺地下。
願いの畑は、昨日の戦いの痕跡を残しながらも安定していた。
返事の庭には、四つの芽が揺れている。
外縁には応答待機領域が作られ、黒い小さな種のような無答影たちが静かに沈んでいる。
ヘラクレスの守護結界は、いつもより強く光っていた。
イリヤはその前に立ち、卵焼きの箱を見せる。
「バーサーカー。今日は奥に行く。ちゃんと帰ってくるから、これ置いていくね」
守護結界が淡く震える。
士郎には、それが「行け」と言っているようにも、「必ず戻れ」と言っているようにも感じられた。
メディアが返事の庭の奥に術式を描く。
「ここから先が無応答層への入口よ。正確には、神杯炉心崩壊時にできた沈降孔。普通の霊道じゃない」
凛が宝石を五つ地面に置く。
「撤退用の宝石楔。危なくなったらここまで強制帰還する」
士郎が問う。
「全員分あるのか?」
「あるわよ。あんたの分は二重にしてある」
「なんでだよ」
「説明いる?」
「いらない」
ミライが入口を解析する。
「無応答層、内部からの反響多数。言語化前願望、拒絶反応、応答遮断膜を確認」
ユイは胸を押さえた。
「声が、遠い」
イリヤがユイの手を握る。
「無理しないで」
「うん。でも行く」
ユイは入口を見つめる。
「聞こえないところに、行く」
士郎は一度だけ返事の庭を振り返った。
小さな芽たちが揺れている。
帰る場所がある。
だから進める。
士郎は言った。
「行こう」
◆
無応答層は、音のない場所だった。
足音がない。
呼吸音がない。
衣擦れの音さえ、すぐに飲み込まれる。
通路は黒ではなく、灰色だった。
何も燃えていない。
何も記録されていない。
何も眠っていない。
ただ、空白が積もっている。
壁には無数の手形のような跡があった。
誰かが内側から叩いたような跡。
何度も何度も、返事を求めて叩き続けたような跡。
イリヤが小さく息を呑む。
「ここ、嫌だ」
桜も顔を強張らせる。
「影とも違います。もっと、冷たい」
メドゥーサは桜の前に立つ。
「近づきすぎないでください」
凛が宝石板を見る。
「魔力の流れが変。こっちの言葉や術式が吸われてる」
メディアが杖を軽く振った。
小さな光弾が放たれる。
だが、光は数歩先で音もなく消えた。
「なるほど。攻撃が届く前に“返らない”状態へ落とされるわけね」
士郎は手を前に出す。
「投影、開始」
短剣を作る。
だが、形が歪んだ。
刃の半分が、空白に削られる。
士郎は眉をひそめた。
「投影も乱れる」
ミライが言う。
「無応答層の性質。入力に対する出力拒否。投影魔術は“構造への返答”であるため阻害される」
凛が舌打ちする。
「つまり、全部の魔術がやりにくいってことね」
その時、壁の手形が動いた。
灰色の壁から、細い影が這い出してくる。
昨日の無答影よりも薄い。
人の形を保てていない。
紙を濡らして丸めたような、不安定な姿。
ミライが即座に言う。
「敵性反応。無答影亜種、仮称・無声影」
無声影は口を持たない。
声も出さない。
ただ、手を伸ばしてくる。
返事を求めるのではない。
触れたものから、返事そのものを奪う。
凛が宝石を投げた。
「下がって!」
赤い魔力弾が無声影に当たる。
だが、爆発音がない。
光だけが広がり、次の瞬間には吸い込まれた。
無声影は少し揺れただけで進んでくる。
メディアが術式を切り替えた。
「音を使わない干渉にするわ。凛、光の屈折で足止め!」
「了解!」
凛が青い宝石を砕く。
通路に鏡のような光壁が立ち、無声影の進行方向を歪める。
メディアの神代文字が地面を走り、無声影の足元を絡め取る。
士郎は半壊した短剣を見て、すぐに判断を変えた。
剣ではない。
盾。
返事を返す武器ではなく、沈黙を受け止める防具。
「投影、開始!」
小さな丸盾を作る。
それも歪んだが、剣よりは保つ。
士郎は前へ出て、無声影の手を盾で受けた。
瞬間、耳が遠くなる。
世界が白く抜ける。
誰の声も聞こえない。
凛の叫びも、イリヤの声も、ユイの呼吸も。
何も返ってこない。
胸が冷える。
自分が世界から切り離されたような感覚。
だが、士郎は奥歯を噛んだ。
ここで止まるな。
盾を押し返す。
メドゥーサの鎖が横から走り、無声影を壁へ叩き戻す。
音はない。
だが、影は崩れた。
ユイが士郎の袖を掴む。
「士郎、聞こえる?」
士郎は少し遅れて頷いた。
「ああ。戻った」
ミライが記録しながら言う。
「無声影接触により一時的応答遮断。危険度高」
イリヤが士郎を睨む。
「前に出すぎ」
「悪い」
凛も鋭く言う。
「謝る前に距離を取る!」
「分かった!」
その瞬間、通路の奥から無声影がさらに現れた。
一体、二体、五体。
壁から剥がれるように増えていく。
メディアが目を細める。
「歓迎が熱烈ね」
凛が宝石を構える。
「熱はないけどね!」
◆
戦闘が始まった。
凛の宝石弾が通路を照らし、光の壁を作る。
メディアの神代術式が無声影の動きを縛る。
メドゥーサの鎖が影を絡め取り、桜の影が足元を柔らかく受け流す。
士郎は盾と杭を投影し、前線に出すぎないよう位置を調整する。
ユイは耳を塞ぎそうになりながらも、必死に無声影の気配を読んでいた。
「左、来る!」
彼女の声に合わせ、イリヤが豊穣の種を掲げる。
黄金の小さな根が地面から伸び、左側の無声影の足を止める。
ミライが分類する。
「左個体、応答遮断強度中。凛、光壁二枚で反射可能」
「了解!」
凛の宝石が二つ砕け、光壁が交差する。
無声影は自分の進行方向を見失い、壁へ突っ込む。
メディアの術式がそれを封じた。
しかし、奥からさらに大きな影が現れる。
無声影が重なり合い、一体の獣のような姿を取った。
四足。
長い首。
顔はない。
背中に無数の手形。
ミライが警告する。
「無声影集合体、仮称・無響獣!」
無響獣が駆けた。
足音はない。
だからこそ、接近に気づきづらい。
士郎は反射で盾を構える。
だが、無響獣は盾へ触れる直前、身体を霧のように分解し、士郎の横を抜けようとした。
狙いはユイ。
ユイが固まる。
「っ……!」
メドゥーサの鎖が間に入る。
だが、無響獣は鎖の隙間をすり抜ける。
桜が叫んだ。
「ユイちゃん!」
桜の影が一気に広がる。
黒い水面のような影がユイの前に立ち上がり、無響獣を受け止めた。
音はない。
だが、影と影がぶつかる衝撃で空気が歪む。
桜の顔が苦痛に歪んだ。
メドゥーサがすぐに支える。
「サクラ、吸いすぎてはいけません!」
「分かってます……!」
桜は影を飲み込まない。
包んで、流す。
自分の影に沈めるのではなく、横へ逸らす。
無響獣の身体が崩れかけた瞬間、士郎が杭を投影した。
「凛!」
「合わせる!」
士郎の杭が無響獣の周囲に突き刺さる。
凛の宝石弾が杭の間を走り、赤い線の檻を作る。
メディアの神代文字が檻へ重なり、無響獣を一時的に封じた。
ミライが叫ぶ。
「今、応答遮断膜が薄い!」
ユイが一歩前に出る。
イリヤが隣に立つ。
ユイは震える声で言った。
「聞こえないのが、怖いんだね」
無響獣の身体が揺れる。
ユイは続ける。
「でも、ここにいる」
イリヤも言う。
「私たち、消えてないよ」
ミライが短く告げる。
「応答確認。存在確認」
無響獣の背中の手形が、ひとつずつ淡く光り、剥がれていく。
完全には消えない。
だが、獣の形は崩れ、小さな灰色の種のようなものへ戻った。
凛が息を吐く。
「倒した……というより、戻した?」
メディアが頷く。
「無声影は、返事を奪う影。でも、存在確認を受けると集合を保てないようね」
士郎は盾を消し、息を整えた。
戦える。
ただし、これまでの戦い方とは違う。
斬るだけではない。
守り、逸らし、確認し、返す。
それでも戦いだ。
返事のための戦い。
◆
通路の奥に、広い空間があった。
無応答層の中心ではない。
だが、そこには巨大な門のようなものが立っていた。
門ではなく、耳を塞いだ人影の石像にも見える。
その表面には、無数の文字が刻まれていた。
だが、どの文字も途中で途切れている。
助け――
待っ――
ごめ――
見て――
帰――
許し――
忘れ――
どうし――
最後まで書かれていない。
最後まで聞かれなかった願い。
凛が宝石板を見て、顔をしかめた。
「ここが無答核の通った跡ね。でも、本人はいない」
ミライが石像を解析する。
「無応答層第一関門。名称候補、断句門。未完了願望を途中で切断し、応答不能状態へ落とす装置」
メディアが低く言う。
「装置、ね。自然発生にしては整いすぎている」
士郎は石像を見上げる。
「誰かが作ったのか?」
その時、石像の奥から声が響いた。
『返事は、害だ』
無答核の声ではない。
もっと冷たく、もっと平坦。
『返事は期待を生む。期待は失望を生む。失望は願いを壊す。ゆえに、最初から返事など与えぬ方がよい』
ユイが震えた。
「この声、昨日の奥の声」
ミライが解析する。
「声源、さらに深層。無答核上位存在の可能性」
凛が宝石を握る。
「出てきなさいよ」
声は答えない。
代わりに、断句門の文字が光り出した。
途中で切れた願いの文字が、刃のように剥がれ落ちる。
文字片が空中を舞い、鋭い弾丸となって飛んできた。
凛が叫ぶ。
「散開!」
文字片が通路を裂く。
士郎は盾を投影し、イリヤとユイの前に立つ。
凛の宝石障壁が右側を防ぐ。
メディアの魔術陣が左側を受ける。
メドゥーサが桜を抱えて跳び、鎖で文字片を弾く。
文字片には意味がある。
助けの断片が当たると、身体が重くなる。
待っの断片が当たると、動きが遅れる。
ごめの断片が当たると、胸が締めつけられる。
単なる攻撃ではない。
未完了の言葉が、感情そのものを刃にしている。
ミライが警告する。
「文字片は意味干渉弾。防御には物理盾より概念返答が有効!」
士郎は叫ぶ。
「概念返答って何だよ!」
凛が宝石を投げながら叫ぶ。
「要するに、言葉に返せってことよ!」
メディアが即座に術式を組む。
「断片に続きの場を与えれば、刃としての固定が緩む!」
イリヤが前へ出る。
士郎が止めるより早く、彼女は飛んできた待っの文字へ叫んだ。
「待ってる!」
文字片が震え、刃ではなく小さな紙片になって落ちる。
ユイは見ての文字へ言う。
「見てる!」
紙片になる。
ミライは記の文字へ言う。
「記録する。ただし閉じない!」
紙片になる。
桜はごめの文字に向かって、静かに言った。
「聞いています」
紙片になる。
士郎は迫る助けの文字片を見た。
胸が痛む。
助けたい。
でも、簡単に「助ける」とは言えない。
士郎は歯を食いしばり、叫んだ。
「手を伸ばす!」
助けの文字片が震える。
完全な答えではない。
それでも、刃は少し鈍る。
士郎は盾で受け流し、文字片を地面へ落とした。
凛が叫ぶ。
「それでいい! 言い切れないなら、今できる返事で返す!」
戦場に声が飛ぶ。
待ってる。
見てる。
聞いてる。
手を伸ばす。
忘れないようにする。
今は分からない。
でも、ここにいる。
断句門の文字片が次々と紙へ戻っていく。
メディアが大きな魔法陣を展開した。
「凛、今!」
「合わせる!」
凛の宝石が七つ砕け、赤、青、緑、黄の光が断句門を縛る。
メディアの神代文字が門の中央へ突き刺さる。
士郎は最後に杭を投影した。
ただの杭ではない。
返事の庭で使った境界杭。
それに、今日拾った紙片の概念を重ねる。
未完の言葉に、余白を与える杭。
「投影、完了!」
士郎は杭を断句門の中央へ投げ込んだ。
杭が刺さる。
瞬間、途中で切れていた文字の下に、白い余白が生まれた。
助け――
待っ――
ごめ――
見て――
それぞれの下に、続きが書ける余白。
断句門が大きく揺れる。
奥の声が初めてわずかに歪んだ。
『余白は、期待を生む』
士郎は答える。
「期待が全部叶うわけじゃない。でも、最初から切る理由にはならない」
断句門に亀裂が入った。
砕けるのではない。
開く。
門の中央に、さらに深い道が現れた。
凛が宝石板を見る。
「道が開いた。でも、奥の反応が強すぎる。今日はここまで」
士郎は奥を見る。
暗い。
その奥で、何かが待っている。
無答核ではない。
それより上位の何か。
声なき願いを、最初から切り落とすもの。
メディアが言う。
「撤退よ。目的は達成したわ。第一関門を開いた。これ以上は危険」
士郎は頷いた。
「分かった。戻ろう」
凛が少し驚いた顔をする。
「素直ね」
「今日は偵察だって言っただろ」
イリヤが少し笑う。
「成長した」
ユイも頷く。
「えらい」
士郎は複雑な顔をした。
「褒められてる気がしない」
ミライが記録する。
「衛宮士郎、撤退判断成功。重要成長項目」
今度は少しだけ、士郎も笑った。
◆
帰還した時、返事の庭は静かだった。
ヘラクレスの守護結界が彼らを迎えるように揺れる。
イリヤはほっとしたように卵焼きの箱を手に取った。
「ただいま、バーサーカー」
光が応える。
ユイが小さく言う。
「ただいま」
ミライも続ける。
「ただいま。偵察任務完了」
士郎も言った。
「ただいま」
返事の庭の、おかえりの芽が揺れた。
まるで小さく返しているようだった。
おかえり、と。
◆
衛宮邸へ戻ると、全員が疲れ切っていた。
だが、約束通り食事をした。
イリヤの卵焼き。
桜のおにぎり。
士郎の味噌汁。
無応答層で音を奪われた後だからか、箸の音さえ温かく聞こえた。
凛は宝石板に今日の情報をまとめながら言う。
「無応答層第一関門、断句門を開放。奥に上位存在を確認。声だけだけど、性質は分かった」
メディアが続ける。
「無答核が“返事は来ない”という諦めなら、奥の存在は“返事など最初から不要”という切断ね」
ユイが呟く。
「最初から、聞かない」
ミライが言う。
「仮称が必要」
凛は少し考えた。
「沈黙の冠」
士郎が顔を上げる。
「冠?」
「願いに返事を与えず、最初から切り落とす支配構造。王冠みたいに上から押さえてる感じがする」
メディアが頷いた。
「悪くない名ね。沈黙冠、とでも呼びましょう」
桜が静かに言う。
「それが、最後の敵ですか?」
凛は宝石板を見つめる。
「たぶん。神杯の炉、願録の固定、無答核の諦め。そのさらに奥にある、“願いは聞かれない方が傷つかない”という思想。それが沈黙冠」
士郎は拳を握る。
「聞かれなければ、傷つかない……」
分からないわけではない。
願いを言って返ってこないなら、最初から言わない方がいい。
期待して裏切られるくらいなら、最初から期待しない方がいい。
そう思う心は、きっと誰の中にもある。
だからこそ強い。
次の敵は、ただの怪物ではない。
願いそのものを口にする前に止めるもの。
沈黙の冠。
士郎は静かに言った。
「なら、こっちは言葉を持っていく」
凛が頷く。
「言葉だけじゃ足りない。戦闘準備も必要よ。今日の無声影と無響獣、断句門の文字片。次はもっと強いのが来る」
メドゥーサが静かに言う。
「戦う相手がいるなら、私は前に立ちます」
桜も頷く。
「私も支えます」
メディアは杖を置きながら言う。
「次までに、無応答層用の防音ならぬ防無答結界を組むわ。声を奪われると厄介すぎる」
ミライが記録する。
「次回作戦、沈黙冠調査および無答核再接触。必要装備、応答鐘、余白杭、防無答結界、帰還アンカー」
イリヤが卵焼きを指差す。
「帰還アンカーはこれ」
凛が笑った。
「採用」
ユイは小さく言った。
「次は、もっと声が聞こえない場所に行くんだね」
士郎は頷く。
「ああ。でも、一人じゃない」
ユイは士郎を見る。
そして、小さく頷いた。
「みんなで聞く」
◆
深夜。
願録聖堂に、新しい頁が浮かんだ。
無応答層偵察。
そこには今日の記録が記されている。
無声影。
無響獣。
断句門。
未完の言葉。
余白杭。
沈黙冠。
士郎の文字。
助けるとは言い切れなかった。でも、手を伸ばすとは言えた。
凛の文字。
無応答層は魔術との相性が最悪。次回までに対策必須。沈黙冠、かなり厄介。
イリヤの文字。
ただいまって言えた。帰る予定があるのは強い。卵焼きは本当に大事。
ユイの文字。
聞こえない場所は怖い。でも、ただいまって言えた。
ミライの文字。
撤退成功。情報獲得。怖いが、次も行く。
桜の文字。
影で受け止めすぎないこと。見ているだけでなく、境界を守ること。
メドゥーサの文字。
無声の敵は厄介。だが、サクラには触れさせない。
メディアの文字。
沈黙を術式化した敵。興味深く、非常に不愉快。
玄礼の文字。
返事が傷を生むなら、沈黙はそれを避ける。だが、避け続けた願いは何になるのか。学習継続。
頁の最後に、白い余白が残る。
柳洞寺地下の返事の庭では、四つの芽が静かに揺れている。
その外側の応答待機領域では、黒い小さな種たちが沈黙している。
さらに奥。
断句門の向こう。
沈黙冠の声が、深い闇の中で囁いた。
『言葉は傷になる』
『願いは応えられぬ時、呪いになる』
『ならば、願う前に閉じよ』
その声に、無答核がひざまずくように沈んでいた。
胸の黒い穴が、さらに深くなる。
『返事は、来ない』
沈黙冠は答えた。
『ならば、返事を待つ庭など不要』
黒い冠の形をした影が、闇の中でゆっくりと浮かび上がる。
神杯戦争、第三十三夜。
士郎たちは無応答層へ踏み込み、無声影、無響獣、断句門との戦いを越えた。
返事を奪う影。
音を消す獣。
未完の言葉を刃にする門。
その奥で、沈黙冠の存在が明らかになった。
神杯が願いを燃やした。
願録が願いを閉じ込めた。
無答核が返事を諦めた。
そして沈黙冠は、願いそのものを口にする前に閉じようとしている。
願えば傷つく。
返事を待てば壊れる。
ならば最初から黙っていればいい。
その冷たい理屈に抗うため、士郎たちは次の戦いへ向かう。
第三十四話へ続く。
コメント
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読み終えました。今回は「無応答層」の探索ですね。音が奪われる、投影が歪む、魔術が吸われる——そんな過酷な環境設定がよく練られていて、世界観に引き込まれました。特に「断句門」の“助け——”“待っ——”といった途中で切れた願いの文字が刃になる仕掛け、とても印象的です。あれに「待ってる」「見てる」と返すことで紙片に戻す戦い方、発想が素敵だなと思いました。それと、イリヤの卵焼きを「帰還アンカー」にするという発想、この作品らしい温かさで好きです。次は「沈黙の冠」との対決ですか。楽しみにしています。
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