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第三話 呼ばれる名
自分の名前を、誰かに呼ばれる夢を見た。
低く、遠く、濁った声だった。
怒っているのか、泣いているのかも分からない。ただ必死で、何度も同じ名を繰り返していた。
「……晴明……」
その声で、晴明は目を覚ました。
いつもの部屋。
いつもの光。
いつもの、安心できるはずの景色。
なのに、胸の奥がざわついていた。
「……今の、誰だろう」
独り言は、誰にも拾われない。
ここでは、呼ばれる名はいつもひとつだけだ。
『起きたかい、晴明』
やはり、声はすぐそこにあった。
「……おはようございます、ご先祖様」
晴明公は、いつも通り微笑んでいる。
でも今日は、その笑顔が、少しだけ遠く見えた。
『何か、夢でも見たのかな』
「……はい。
僕の名前を、呼ばれてました」
晴明公の眉が、わずかに動く。
『それは、君の名前だからね』
「……それが」
晴明は、少し迷ってから言葉を続けた。
「僕、“晴明”って呼ばれると、落ち着くんです。でも……」
言葉を切る。
『でも?』
「それ以外で呼ばれると、
胸が、ざわざわして……」
晴明公は、何も言わずに聞いている。
否定も、肯定もしない。
「……昔、別の呼ばれ方をしてた気がするんです。
でも、思い出そうとすると……」
頭の奥が、じくりと痛む。
晴明公が、ゆっくりと口を開く。
『思い出さなくていい』
やや、強い声だった。
晴明は、はっと顔を上げる。
「……どうしてですか」
晴明公は、一瞬だけ言葉を選ぶように視線を逸らし、それから、いつもの穏やかな調子に戻った。
『名前というのはね、
生き方そのものなんだ』
「……生き方」
『君は“晴明”として、ここにいる。
それで十分じゃないか』
その言葉に、晴明の胸が、ちくりと痛んだ。
「……それって」
晴明は、初めて自分から踏み込む。
「“晴明”じゃない僕は、いらないってことですか」
空気が、ぴたりと止まる。
晴明公は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、今までで一番、長く感じられた。
『……そんな言い方をする必要はないよ』
やっと返ってきた声は、優しい。
けれど、どこか慎重だった。
『君は、君だ。ただ――』
そこで、言葉が途切れる。
「ただ……?」
促すと、晴明公は、静かに続けた。
『外の世界では、
君は“名前”に振り回されていた』
その瞬間、
視界の端に、知らない景色が差し込んだ。
白い部屋。
硬い床。
誰かが、名札を見て、ひそひそと話している。
「……っ」
晴明は、思わず目を押さえる。
『無理に見なくていい』
晴明公の声が、すぐ近くに戻る。
『君は、ここで守られている』
「……守られてる、って」
指の隙間から、晴明は晴明公を見た。
「ご先祖様は、
“僕”を守ってるんですか」
『もちろんだよ』
即答だった。
『君が壊れないように。
二度と、同じ苦しみを味わわないように』
「……それは」
喉が、ひくりと鳴る。
「僕のため、ですか?」
晴明公は、少しだけ微笑んだ。
『君のためだよ、晴明』
その微笑みを見た瞬間、
胸の奥で、何かが静かに折れた気がした。
――“僕のため”。
その言葉は、否定できない。
否定してしまったら、この世界そのものを、壊してしまいそうだった。
「……分かりました」
晴明は、視線を落とす。
「僕は……晴明で、いいです」
晴明公の表情が、はっきりと緩む。
『それでいい』
そう言って、そっと頭を撫でる。
『君は、正しい名を選んだ』
その言葉に、安心が広がるはずだった。
なのに――
胸の奥で、別の名が、小さく震えた。
呼ばれなくなった名前。
思い出されない名前。
それでも確かに、“自分だったもの”。
晴明は、それを無理やり押し込める。
ここでは、“晴明”でいなければならない。
それが、守られている証なのだから。
晴明公は、満足そうに晴明を見つめていた。
――その視線が、
“名前を与える者”のものだということに、
晴明は、まだ気づいていない。
コメント
1件
今回も最高でした! 最初に晴明君の名前を呼んだのは誰なのかな? 晴明公が守っているって言ってたし、晴明君は此処に来る前は何があったのか… 続き楽しみにしてます!