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第四話 外の名札
その日は、最初からおかしかった。
晴明は、廊下を歩いていた。
いつもの家の、いつもの廊下のはずなのに、畳の感触が、ほんの少しだけ違う。
柔らかすぎるような、沈み込むような。
「……?」
立ち止まって、足元を見る。
畳だ。確かに畳。
でも、その縁に――白い線のようなものが走っている。
「こんなの……あったっけ」
しゃがみ込んで触れようとした瞬間。
『晴明、どうしたんだい』
背後から声がかかる。
「ご先祖様……」
振り返ると、晴明公は、いつも通りそこにいた。
変わらない姿。変わらない声。
なのに、今日は少しだけ、距離が遠く感じる。
「この廊下……なんだか、変で……」
言いながら、もう一度足元を見る。
――白い線は、消えていた。
『気のせいだよ』
晴明公は、穏やかに言う。
『ここは、君の意識の中だ。
揺らぐことはあっても、壊れはしない』
「……壊れない」
その言葉を、ゆっくり反芻する。
「じゃあ、もし……違うものが混じったら」
そこまで言ったところで、
遠くから、また音がした。
――ガラガラ、という、金属の擦れる音。
晴明の背筋が、ひやりとする。
「……今の」
『聞かなくていい』
安倍晴明の声は、いつもより少しだけ低かった。
けれど、音は止まらない。
近づいてくる。
廊下の向こう、角の先から。
晴明は、思わず一歩、そちらへ近づいた。
「……何か、ある」
『晴明』
呼び止める声を、振り切るように、角を曲がる。
そこにあったのは――
見覚えのない扉だった。
白くて、無機質で、取っ手が金属製の扉。
「……これ」
手を伸ばした瞬間、
視界が、ぐらりと歪んだ。
白い光。
鼻につく、消毒液の匂い。
――ピッ、ピッ、ピッ。
前にも一度聞いたことのある一定のリズムで鳴る音。
「……っ」
頭の奥に、急に情報が流れ込んでくる。
ベッド。
白い天井。
自分の腕に巻かれた、細い管。
そして――
視界の端に、ぶら下がっている小さな札。
「安倍 晴明」
「……あ」
声にならない声が、喉から漏れる。
“安倍”。
その名字が、胸に突き刺さる。
「……僕、これ……」
思わず振り返ると、
そこには、すぐそばに晴明公がいた。
『見てしまったね』
責めるでも、怒るでもない。
ただ、事実を受け止める声。
「……ご先祖様」
喉が、からからに乾く。
「僕の名前……
あそこには、“安倍”って……」
最後まで言えなかった。
晴明公は、少しだけ目を伏せる。
『外だからね…』
「……外?」
その一言で、世界が、また揺れた。
畳の廊下が戻ってくる。
障子も、柱も、元通り。
ただ、胸の奥に残った感覚だけが、消えない。
「……じゃあ、僕は」
声が、震える。
「ここでは、晴明で……
外では、安倍晴明で……
どっちなんですか」
晴明公は、ゆっくりと近づき、晴明の前に立つ。
『君は、晴明だ』
きっぱりとした声。
『“安倍”という名は、重すぎる。
君が背負う必要はない』
「……でも」
晴明は、拳を握りしめる。
「あそこにいた僕は……
ちゃんと、生きてた気がします」
震えながらも、はっきり言った。
晴明公の目が、わずかに細くなる。
『生きていたから、壊れたんだ』
静かな断定。
『だから、ここにいる』
「……それは」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「僕が……
弱いから、ですか」
しばらくの沈黙。
晴明公は、そっと首を振った。
『違う』
そして、優しく微笑む。
『君が、僕だからだ』
その言葉で、すべてが繋がってしまう。
同じ名。
同じ血。
同じ“守られるべき存在”。
「……じゃあ」
晴明は、かすれた声で言う。
「僕が起きたら……
あなたは、どうなるんですか」
晴明公は、少しだけ驚いたように目を瞬いたあと、
すぐに、いつもの笑みを浮かべた。
『さあ。
でも、それを考える必要はないだろう?』
その言い方が、
答えそのものだった。
晴明は、それ以上、聞けなかった。
白い扉も、名札も、音も。
すべて、再び霧の向こうへ押し戻されていく。
残るのは、
ここが“選ばれた場所”だという感覚だけ。
「……分かりました」
晴明は、目を伏せる。
「僕は……晴明で、います」
晴明公は、満足そうに頷いた。
『それでいい。
君は、ここにいる間は――
何者にもならなくていい』
その言葉に、救われた気がしてしまう自分が、
いちばん、怖かった。
晴明はまだ知らない。
“外の名札”が、
もう完全に、消えたわけではないことを。
そして晴明公が、
次はもっと静かに、確実に、
その存在を塗り潰しに来ることを。
コメント
1件
晴明君が居た場所は意識の中だったのか…そしてあの扉とか、消毒の匂い今は病院に居るのか? 晴明君は晴明公と名前が似ているから妖怪と何かあったのかな? 続き楽しみにしてます!