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ドロシアは悩んでいる。
私は沈黙を守った。
子供たちはホットミルクを飲みきって椅子の上、可愛らしく船を漕いでいる。
ノワールは子供たちを何処に寝かせようか迷い、ランディーニは私の手の下に潜り込んで艶やかな羽根を触らせてくれた。
『数日なら全員の滞在を許可しますが、それ以上であるならば、男の子は今すぐにでも強制浄化いたしますよ?』
不意に割り込んできたのは夫の声。
眠りの淵へ落ちかけていた子供たちまでもが飛び上がって起きてしまった。
ドロシアは流せるはずもない冷や汗を流している。
『私の愛しい妻は弱者に甘い。ですが私は妻に必要以上に甘えたがる輩を許すつもりは微塵もないのですよ』
夫は威圧をかけているようだ。
ノワールとランディーニまでもが苦しげな表情をしている。
「た! あなたっ!」
喬人《たかひと》さんと言いかけて改める。
「まだ子供でしょう? それに霊体じゃないですか! 現れていきなりの威圧は可哀相です!」
『……我《われ》は時空制御師の称号を持つ者。我の対応が理不尽なものであるか、答えよ。ブライアン』
威圧が……たぶん幼い子供でもぎりぎり応対ができるレベルにまで……下げられた。
「じ、時空制御師様に申し上げます。ぼ、じ、自分は、長兄と長姉に頼まれました、母を、頼むと」
『続けなさい』
「ありがとう、ございます……姉も、妹も……母を頼まれました。ですから、自分がいなくとも問題はありません。ただ! その……」
『女の身では母親を守りきれないと心配を?』
「はい。あとは! 母を思って先に逝った長兄と長姉との約束を破るのが、とても! とても申し訳なく、思うのです」
子供たちは、ただただドロシアを守りたかったようだ。
愛はなくとも深く情を寄せていた夫に裏切られた彼女を。
衝撃のあまり、人でもなく霊でもなく、悍《おぞ》ましい異形《いぎょう》になりかけてしまったのだろう彼女をどうにかして助けたくて、逝き、また断腸の思いで残ったのだ。
幼子たちの情深さはドロシア譲りに違いない。
「ブライアン……」
はっきりと言われたのは初めてなのかもしれない。
ドロシアの瞳からは涙が溢れて止まらなかった。
「だ、大丈夫よ、ブライアン! 私とベアトリスが頑張るから、貴男は御方様のお言葉に甘えなさい!」
「うん。おにいさま、わたしも、がんばるから! おにいさまとおねえさまに、よろしくおつたえして!」
甘えなさいと言い切った、オーレリア。
ベアトリスも同意する。
ああ、そうか。
夫は、子供を何時《いつ》までも縛りつける母親が許せないのだ。
たとえそれが、子供たち自身が下した、苦渋の決断による結果だったとしても。
『ドロシア。お前は何処まで罪深き存在だ? 子供たちに妾の子であるという負の遺産を生まれながらに背負わせた挙げ句に、死して尚、手前勝手な言い分で子供を縛りつけるとは! 母親の風上にも置けぬ!』
「御方様には、どうぞ、お慈悲を! 哀れな、憐れな母なのです!」
オーレリアが夫の前に土下座する。
ブライアンもベアトリスもそれに倣った。
「あ、ああ、わたし、わたしは……」
ドロシアは混乱している。
幼い子供たちを近くに置き、生前と変わらずに理想の母親として接してきたのだろう。
自分の巻き添えともいえる形で殺された子供たちが不憫で、開《ひら》けていたはずの未来を奪ってしまった罪を少しでも、贖おうとして。
それはきっと、心からの贖罪だったのだ。
ドロシア自身の罪悪感から逃れようとしての行動ではなくて。
だからこそ、子供たちがここまで食い下がる。
「旦那様。それではドロシアさんも、お子さんも可哀相よ。旦那様は結果を重視する。
経緯も重視する。どこまでも冷静に判断を下す。心から尊敬しているわ。でも……心も考えてあげてほしいの。この場合、ドロシアさんは子供たちに対して加害者であるかもしれないけれど、情状酌量の余地が多分にある被害者でもあるのだから……」
『……我が最愛の妻はどこまでも優しい。子供たちの態度は褒めるべきものです。その子供たちを育んだのは紛れもなく母親である貴女なのでしょう。その点は考慮します』
「ありがとう! たか! 旦那様!」
『あとで存分に名前を呼んでくださいね? ……ドロシア! 顔を上げよ!』
涙でぐしゃぐしゃになり、艶っぽさは形《なり》を潜めて、ただ途方に暮れる子供のような無垢な表情で、ドロシアは夫を見上げる。
『貴女はこの屋敷に残りなさい。そして、子供たちが天へ帰るのを大人しく見送りなさい』
「!!」
『子供たちは全員、浄化します……もし、長兄長姉に咎められたら、時空制御師に命じられたと、私を言い訳に使うことを許しましょう』
「母を一人には!」
オーレリアが必死の形相で叫ぶ。
ブライアンもベアトリスも繰り返し頷いている。
『それが貴女の母親に与えられる罰です。一番辛い罰でしょう。しかし同時に、許しでもあるのですよ? 貴方たちが傍にいては、彼女は永遠に先には進めないでしょうから』
子供たちも気がついていたのだろう。
反論することはなく、唇を噛み締めて耐えている。
『……ドロシアの、これから先の短くはない今世《こんせ》での霊としての時間は、今までよりも遥かに穏やかなものになると、時空制御師の名において約束いたしましょう。だから、貴方たちは安心して逝きなさい』
「自分たちの父親は、どうなりますか?」
ドロシアの心を落ち着かせない最大の原因をブライアンが挙げる。
結果次第では夫の言葉に逆らうつもりである、強すぎる瞳をしての発言だった。
『その点も安心するといい。彼には己の行いに相応しい因果が巡るだろう』
「ぐ、具体的には?」
『死すら遠く及ばない、長く辛い生を』
冷ややかな夫の言葉に全員が硬直する。
夫を一番理解している私ですら想像できない陰惨な未来が、男には用意されたようだ。
『ドロシアの淀みが一瞬で払拭されるような相応しい末路が、彼には待っています』
「そう、ですか……姉さん。じゃあ、いいかな?」
「ええ、いいと思うわ」
「わたしも! おかあさん、いままでどうもありがとう!」
ベアトリスがドロシアに抱きつく。
小さな体をドロシアが抱き返した次の瞬間には、ベアトリスの姿が消え失せる。
あっけなさ過ぎる浄化だ。
「え? え! ベアトリス! ベアトリス!」
「母さん、落ち着いて。兄さんと姉さんが迎えに来てくれたから、安心して」
「え?」
ブライアンが指差す方向は、ただ明るかった。
異様に、明るかった。
私には見えないがブライアンの言葉通りの光景が広がっているのだろう。
ドロシアの顔に懐かしそうな色がさした。
「母さん。今までありがとう。僕たちは母さんの子供に産まれて幸せだった。先に逝くけど、向こうで待ってるから、何時まででも待っているから、何時か僕たちの所に来て、あの男の末路を教えてね?」
魂を癒やす時間は永遠でもあり、一瞬でもあるという。
ただ永遠なのだとしても、兄弟姉妹全員が揃った生活はきっと、永遠が一瞬に思えるほど楽しいに違いない。
「ブライアン……ええ、ええ。待っていて? 必ず貴方たちの元へ辿り着くわ。お土産話も忘れなくてよ」
飛びついたベアトリスとは違い優しくドロシアに抱きついたブライアンの体を、ドロシアは抱き締めてのち、額へキスを落とした。
私がよく夫にされる、労りに満ち溢れた口付けだ。
逝ったはずの長兄長姉が待っていてくれていたと知り、ドロシアは驚くほど落ち着いたようだった。
どこまでも静かに、本来の彼女の姿であろう優しさが滲み出る所作と言葉でブライアンを見送る。
額に口付けを落とされて照れた、男の子らしい表情のまま、ブライアンは浄化された。
「お母様、何時も私たちの幸せを一番に考えてくれてありがとう。今度はお母様の幸せを一番に考えてね?」
「子供たちの幸せが私の一番の幸せなのよ? そこは譲れないわ」
「もう終わった恋を引き摺らない一番の方法は、新しい恋っていうじゃない? お母様はまだお若いから絶対に良い人が見つかると思うの」
恋愛好きな少女らしい言葉だが、いろいろと突っ込みたい。
ちらっと夫を見れば、可笑しそうに微笑んでいる。
「新しい恋……ふふふ。そうね。考えてみるわ、オーレリア」
ドロシアはオーレリアの発言を否定しなかった。
案外と思うところがあったのかもしれない。
私は夫しか知らないし、知るつもりは未来永劫ないが、ドロシアのような女性であればむしろ推奨したい。
……霊同士の恋愛
なかなかに新しい。
抱き締めたオーレリアの髪の毛を梳き上げたところで浄化が完了する。
私たちには見えない子供たち全員に向かって手を振るドロシアの笑顔はどこまでも爽やかで、彼女がやっとのことで悍ましい感情の一部から開放されたと断言できる、誰しもを魅了せんばかりの美しいものだった。