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「名前なんていらないよ」
最初にそう言ったのは、たぶん俺だった。
あるいは、あいつだったのかもしれない。
記憶は曖昧で、境界線みたいににじんでいる。どこからが俺で、どこまでがあいつなのか、もうはっきりとは言えない。ただ一つ確かなのは、あの言葉だけがやけに鮮明に胸に残っているということだ。
――名前なんていらないよ。
その言葉に、あいつは笑った。
「そんなん言うて、後で困るんちゃうん?」
からかうような関西弁。軽い調子なのに、どこか奥に沈んだ重さを含んでいる声だった。
「困らないよ。どうせ、すぐ忘れる」
俺はそう答えた。強がりでもなんでもなく、本気だった。
この世界では、記憶は長く続かない。人の顔も、声も、存在も、少しずつ風化していく。まるで最初からなかったみたいに、跡形もなく消えていく。
だから名前なんて、必要なかった。
それでも、あいつは言った。
「ほな、せめて呼び方くらい決めとこか」
「いらないって言ってるだろ」
「ほな、俺が勝手に決めるわ」
あいつは少し考えてから、笑った。
「お前のこと、“お前”って呼ぶ」
「……そのままじゃないか」
「ええやん。似合っとるで」
その笑い方が、妙に気に入らなかった。
なのに、嫌いじゃなかった。
俺たちは、それからずっと一緒にいた。
理由なんてない。ただ、気づいたら隣にいた。歩く速さも、息の合い方も、不思議とぴったりで、まるで最初から決まっていたみたいだった。
あいつはよく喋った。
どうでもいいことばかりだったけど、その一つ一つが、妙に耳に残った。
「なあ、お前。もし名前あったら、どんなのがええと思う?」
「興味ない」
「つれんなぁ。俺はな、ちょっと変わった名前がええなって思うねん」
「変わってるって?」
「呼んだら、ちゃんと振り向いてくれるやつ」
「……普通だろ」
「せやろか?」
あいつは空を見上げながら、ぽつりと続けた。
「呼んでも振り向かんやつ、多いやん」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
確かに、この世界では、呼びかけはすぐに空気に溶けてしまう。届いたとしても、相手がそれを覚えている保証はない。
だから、名前なんて――やっぱり、いらないはずだった。
それなのに。
ある日、あいつが急に言った。
「なあ、お前」
「なんだ」
「もし、俺が消えたらどうする?」
あまりにも唐突で、俺は少しだけ考えた。
「別に。どうもしない」
「ほんまに?」
「この世界では普通のことだろ」
「……そっか」
あいつは笑った。でも、その笑い方はいつもと違っていた。
どこか、諦めたような、静かな笑いだった。
それから、少しずつ違和感が増えていった。
あいつの言葉が、ところどころ抜け落ちる。
昨日話したことを、今日には覚えていない。
俺の顔を見て、一瞬だけ迷うような表情をする。
「……お前、誰やったっけ」
冗談みたいに言って、すぐに笑う。
でも、その目は笑っていなかった。
俺は初めて、怖いと思った。
消える、ということが。
「なあ」
ある日、俺はあいつに言った。
「名前、つけるか」
あいつは目を丸くした。
「なんや急に」
「呼び方があったほうが、忘れにくいかもしれない」
「……今さらやな」
そう言いながら、あいつは少し嬉しそうに笑った。
「ほな、お前が決めてや」
「なんで俺が」
「言い出しっぺやろ」
俺は少し考えた。
でも、どんな名前もしっくりこなかった。
どれも軽くて、簡単に消えてしまいそうで。
「……やっぱりいい」
「なんやそれ」
「名前なんて、意味ない」
「またそれかいな」
あいつは呆れたように笑った。
でも、その日から、俺は何度も考えた。
あいつの名前を。
呼んでも消えない、ちゃんと届く名前を。
そして、ある日。
ついにその瞬間は来た。
「あれ……」
あいつが立ち止まった。
「どうした」
「なんや、変やな……」
あいつは自分の手を見つめていた。
その輪郭が、少しずつぼやけている。
「おい」
「なあ、お前」
あいつは笑った。
「俺、もうあかんみたいや」
冗談みたいな言い方だった。
でも、違った。
確実に、消えかけていた。
「待てよ」
俺は思わず手を伸ばした。
触れたはずなのに、感触が薄い。
「大丈夫やって」
あいつはいつもの調子で言う。
「こういうもんやろ、この世界」
「……」
「泣きそうな顔すんなや」
「泣いてない」
「ほな、その顔なんやねん」
あいつは少しだけ目を細めた。
「……なあ」
「なんだ」
「最後にさ」
あいつは言った。
「名前、教えてくれへん?」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
名前なんて、いらないと思っていた。
意味なんてないと、思っていた。
でも――
今、この瞬間だけは違った。
「俺は――」
言葉が喉に詰まる。
怖かった。
名前を与えたら、それも一緒に消えてしまう気がして。
それでも。
「ないこ」
俺は言った。
それが、どうしてその名前だったのか、自分でもわからない。
でも、確かにそれが“俺”だった。
あいつは、驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……ええ名前やな」
「そっちは?」
「俺か?」
あいつは少しだけ考えて、肩をすくめた。
「忘れてもうた」
「……」
「せやけど」
あいつは俺を見た。
まっすぐに、消えかけの瞳で。
「お前が呼んでくれるなら、それでええ」
俺は、もう一度手を伸ばした。
今度は、ちゃんと掴みたかった。
「―――」
名前を呼んだ。
その瞬間。
あいつの輪郭が、ふっとほどけた。
風が吹いた気がした。
静かな、優しい風だった。
何も残らなかった。
声も、形も、温度も。
ただ、確かにそこにいたという感覚だけが、胸の奥に残っていた。
俺は一人になった。
それでも。
「……またな」
誰もいない空に向かって、そう呟いた。
名前なんて、いらないと思っていた。
でも、今は少しだけ違う。
呼びたかった。
ちゃんと、届くように。
たとえ、もう返事がなくても。
それでも――
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