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春を謳歌した植物たちが夏の花々に衣替えを終えて短い夏を謳歌しはじめた頃、一日の休暇の前半をキングサイズのシーツの波の上で過ごし、休暇時の定番となっているランチを恋人のクリニックで平らげたリオンは、午後の診察の準備に取りかかる二人を尻目に大きな欠伸をし、休診だったらこのカウチソファで寝そべっているのにと呟き、昼前まで寝ていた人間が何を言うとリアが目を吊り上げる。
「どーしようかなー」
今日の午後はどのように過ごそうかと嘯くリオンの髪を撫でてホームに戻らないのかと問い掛けたウーヴェは、掌の下の頭がぐりんと動いて青い目が見上げてきた為、どうしたと首を傾げる。
「ホームに戻ったら寝られねぇ」
だからまだ寝るつもりなのかとウーヴェが呆れた声を発しようとした時、リオンが奇妙な声を発して美術館に行って来ると宣言したためにリアが目を丸くする。
「美術館?」
「そう。……俺が美術館に行ったら変か、リア?」
「え? いえ、そうではないわ」
でもまさか美術館という言葉が聞こえてくるとは思わなかったから驚いただけと、心底驚いていることを表すように言い訳する彼女を不満そうに見上げたリオンだったが、ウーヴェがもう一度髪を撫でて頭の天辺にキスをしたことで不満が抜けていく。
「行きたいと思うのなら行ってくればいい」
「……うん」
リアも悪気があって言った訳ではないと囁くとリオンの手が上がってウーヴェの首筋に添えられ、何を望んでいるのかを察したウーヴェが薄く開く唇にキスをすると青い瞳が笑みの形になる。
「美術館で次の展覧会のフライヤーがあれば貰ってきてくれないか?」
「ん、りょーかい――リア」
「なに?」
「美術館のカフェでさ、すげー美味いビスケット食わせてくれるんだけど、持って帰ってくるから作ってくれよ」
美術館に出向く理由が心を豊かにするためよりも身体の飢えを満たすためだと知ったリアが呆気に取られる横ではウーヴェが小さな溜息を吐くが、なあとリオンがせっつくように問い掛けると彼女の顔にも笑みが浮かぶ。
「ええ、良いわ」
あなたがそこまで言うのなら余程美味しいのでしょう、食べてみたいから持って帰ってきてと片目を閉じたリアにリオンも満足そうに頷き、もう一度ウーヴェにキスを強請った後、カウチから立ち上がって伸びをする。
「じゃあ行ってくるかー。オーヴェ、仕事終わったら連絡ちょうだい」
その言葉にリオンのジーンズの尻ポケットから無機質な着信音が流れ出し、三人の視線が音の発生源であるリオンの尻へと向けられる。
「出なくて良いのか?」
「んー、どうでもイイや」
「こら」
仕事で緊急の呼び出しだったらどうするんだとウーヴェが目を吊り上げるが、今日は完全休養日だから電話を掛けてきても気力がない為掛かりませんと宣言してあると返され、何だその言い訳はと更に呆れるが、その間中も携帯からは着信音が流れていて、いい加減に出ろとウーヴェが苦笑する。
「オーヴェもしつこいな。放っておけばいいって」
「リーオ」
しつこいよりも何よりも延々と流れ続ける着信音を聞いているのは精神的によろしくないこと、こんなにも長い間呼び出し続けるというのはやはり仕事仲間からではないのかと問いかけても無視を決め込んでしまったリオンにウーヴェがこめかみを引き攣らせ、いい加減に出ろと再度言い放つと同時にローウエストのジーンズを引っ張って注意も引く。
だがリオンが穿いているジーンズが腰履きのものだった為、ウーヴェのその行為はジーンズのポケットを引っ張ってしまい、注意を引くどころかリオンの尻に注目させてしまうような事態を引き起こしてしまう。
「!?」
「きゃー! あにすんだよ、オーヴェっ!!」
リアが驚きに目を丸くし、リオンがさすがに顔を赤くしてジーンズを引っ張り上げようとする前でウーヴェが深々と溜息を吐き己の行為を詫びようとするのだが、そんなウーヴェがふと見えている下着にあるものを発見して瞬きを繰り返す。
「リオン、お前……下着を裏表に穿いていないか?」
「へ!? あ、ホントだ。やだー、リオンちゃんったら恥ずかしぃ」
聞いているこちらが恥ずかしくなるような黄色い声を挙げてしなを作るリオンに頭痛を堪える顔で俯いたウーヴェは、とにかく早く履き替えろと言い放つが、すぐ近くで異様な雰囲気を感じ取って我に返る。
「――!」
「……そこの二人、セクハラで訴えても良いのよ? 何がリオンちゃんったら恥ずかしぃ、よ。聞いているこっちが恥ずかしいわ」
どうせ昨夜思う存分ベッドの中でイチャイチャした後に薄暗い中で下着を穿いたか、それとも今朝起き抜けに寝ぼけて穿いたら裏表を間違えていたのだろうと、聞きようによってはそちらの方がセクハラで訴えられるようなことを言い放ち、何でも良いから裏写りしているテディベアをさっさとジーンズの中に閉じ込めろと目を据えたリアに顎で指示をされてそそくさとジーンズをあげたリオンは、オーヴェがジーンズをずらすからリアに怒られたと涙目になり、ウーヴェはウーヴェでお前がさっさと携帯に出ないから悪いんだと互いに責任を押しつけ合う。
「美術館のカフェのレモンタルトを食べたいし、美術館の向かいに新しいカフェが出来たそうなの。そこの名物になりそうなものも食べたいわ」
その一言を笑顔で告げられてしまうと男達は逆らえる筈もなく、白と金の頭が一度上下したのを見届けた彼女は、たった今見てしまった裏返しのテディベアのことは綺麗さっぱり忘れたと笑みを浮かべる。
その笑顔に安堵した二人は、胸を撫で下ろしつつもやはり一時とは言え離れ離れになる前の儀式として互いの手の甲と頬へのキスを交わすと、手を挙げてリオンが出て行く。
その背中を見送ったウーヴェはリアが仕事モードに気分を切り替えてくれたことに感謝しつつ午後の診察の準備に取りかかるのだった。
ウーヴェには美術館に行くと伝えたリオンだったが、本当の目的地は美術館ではなく、立派な建物に隣接するカフェだった。
このカフェを発見したのはウーヴェと一緒にこの美術館を訪れた時だったが、それ以降実は密かに一人でここにやって来ると、その時々の心境から庭がよく見える席でぼんやりと時を過ごしたり、人目を避けたいときは奥まったテーブルでコーヒーを飲んだりしていたのだ。
休日が重なれば二人で出かけることが多いが、こうしてどちらかだけが休日だった場合は当然別行動になってしまう。
以前のリオンならば一人で過ごす休日など想像できず、またそんなことが耐えられるはずもなく、携帯に登録している遊び友達に片っ端から連絡を取り、相手をしてくれる人を捜していた。
だが、昨年の夏に経験した辛く悲しい出来事をウーヴェの手を借りて二人で乗り越えた今、リオンはあの日告げられた言葉を忘れず、また疑う必要もないため、こうして今美術館横のカフェで一人のんびりとカフェラテを飲んでいた。
カフェの店員ともいつしか顔馴染みになり、リオンが今日の気持ちは庭だと告げていつものラテを注文し、庭に出ていつものテーブルに腰を下ろす。
庭を渡る風はすっかりと夏色になっていて、緑を鮮やかなものにしてくれる日差しも心地よく、二人が良く出かける公園ならば上半身どころか丸裸になって芝生に寝転がりたいと思うほどの陽気だったが、さすがに美術館のカフェで裸になる訳にはいかず、ティアドロップ型のサングラスを頭に押し上げると、背後から疑問と確信が混ざった声が聞こえてくる。
「――リオン?」
その女性の声に驚いて振り返った先にリオンが発見したのは、胸元が大きく開いたサマーセーターにボディラインがはっきりと出る細身のカラージーンズを穿いた女性で、リオンがぼんやりとその名前を呼ぶと彼女の顔に満面の笑みが浮かび上がる。
「エマ?」
「久しぶりね!」
まさかこんな所で会えるなんてと、エマと呼ばれた女性が感激の表情でリオンの前に腰を下ろし、頬杖をついてさっきはどうして電話に出てくれなかったんだと頬を膨らませながら煙草に火をつけた為、リオンが青い目を瞠って掌に拳を打ち付ける。
「何だ、エマだったのか」
「ずっと鳴らしてたのにどうして出てくれなかったのよ」
リオンのジーンズをずり下ろすという醜態をウーヴェが晒す切っ掛けになった着信の主が分かり、一体何の用事だと恨みがましい目で見つめると、退屈しているから遊びましょうと誘われて瞬きを繰り返す。
「へ?」
「一人なんでしょ?」
あんたがこんな所に一人でいるなんて信じられないけど一人でいるのだから暇なんだろう。だからこれから遊ばないかと顔を寄せつつ密かな声で囁くエマにパチパチと瞬きをしたリオンだったが、エマの期待の籠もった視線を肩を竦めて遮るとそんな気持ちにならねぇと笑う。
「え?」
「悪ぃ。エマには言って無かったか?」
あらかたの友人達には話をしたが、ひとりの寂しさを紛らわせる為に誰かと一緒にいる必要はなくなったと答え、意味を察して険しくなるエマの顔に苦笑する。
こうしてリオンの前で煙草を吸いながら遊ぼうと誘ってくるエマとは刑事になる前からの付き合いで、リオンが初めて女というものを意識したのもエマの姉のラウラが豊満なボディで、熱を帯びた顔を抱き寄せて気持ちよくしてあげると囁いたからだが、エマはその姉よりも細身で笑えば小さな八重歯が見え隠れする顔は一瞬幼さも感じさせるが、その顔で彼女が囁くのはベッドの上で一緒に遊ぼうという夜の色香を滲ませた声だった。
以前ならば休日に一人きりになりたくない思いからエマの誘いに乗っていただろうが、今のリオンには彼女に告げた様に時間潰しであったりその場凌ぎで抱くような女は不要だった。
だから彼女の誘いに目を伏せて肩を竦めると、太陽と月が描かれているラテのカップを手にする。
「悪ぃな、エマ。遊びたいのなら他を当たってくれ」
久しぶりに顔を合わせた友人の誘いを断るような薄情な男とは思わなかったと睨まれてもう一度肩を竦めたリオンは、そこにいるのが濃い化粧をした女ではなく凛とした立ち姿を容易く想像させる匂いと、膝を折ってしまっても恥ずかしくないと思える優しさや強さを持つ永遠の恋人であれば良いのにと呟き、エマの目を吊り上げさせてしまう。
「まさか本当に、あんたの口からそんな言葉を聞く日が来るなんて……」
死んだラウラやゾフィーが聞けば目を剥くだろうと笑うエマにリオンも無言で肩を竦め、あいつが気付かせてくれたとだけ返すと彼女が何かに気付いた様に目を瞠る。
「ゾフィーが俺に教えてくれたんだよ」
去年の夏、ゾフィーが命を賭けて教えてくれたのは、もう自分たちは一人ではない、何処にいたとしても帰る場所がある安心感だった。
その教えを形にしたのが今の恋人だと、ひっそりとだが自慢する顔で告げ、今こうしてここでお茶をしている時も、互いの仕事の都合で離れ離れにならなければならない夜でさえもお前は独りではないと言葉と態度で教えてくれる人が傍にいるんだと目を伏せたリオンは、己でも不思議な程その言葉を素直に受け入れ、まるで金科玉条のように己の最上に置くようになっていた。
「……そ、うなの……」
「ああ」
今まで付き合ってきた彼女達の誰もがこんな思いを抱かせてくれなかったこと、真実の愛や永遠の愛など陳腐なものだと思っていたが、本物を手に入れたノダと知った今、初めてそれを実感したとも答えると、エマが最早何を言ってもリオンは以前のように明るく我が儘で手が掛かるがそれでも愛していた男には戻らないと気付き、頬杖をついて寂しそうに笑みを浮かべる。
「あんたはずーっと前のままだって思ってたけど、人って変わるのね」
「何だよ、それ」
「ラウラもゾフィーも、あんたが変わって喜んでるわよ、きっと」
今は亡き二人だがきっと天国から見守ってくれていると笑って煙草を揉み消したエマは、本当に残念だが道ですれ違っても無視なんてしないでちょうだいと笑い、リオンの顔に太い笑みを浮かべさせる。
「いくらあんたの恋人が嫉妬深かったりしても、道で会った時に無視なんて絶対止めてよ」
「分かってるって」
今の恋人はそんなに嫉妬深いヤツではないと笑い、顔を寄せるエマの頬にキスをしたリオンは、チャオと手を挙げて立ち上がる彼女を見送る。
過去の己が必要としたその時その時限りの彼女達は、当然ながらその時にだけリオンを助けてくれていた。
だが、そんな彼女達は日々の暮らしや仕事に追われていたり一緒にいる時でさえも常に感じていた孤独を癒す存在にはなり得なかったことに僅かに罪悪感を抱くが、今の己は一人であっても孤独ではないことを教えてくれる存在が常に傍にいることを思い出し、幸せだなとぽつりと呟く。
過去の己の所業を精算するにはまだまだ痛い目に遭うかも知れないが、己が歩んできた道が帰結する先での痛みならば逃げ出す訳にも行かなかった。
その痛みは甘んじて受けようと頷くと、周囲から好奇の目で見つめられている事に気付き、そちらに顔を向けてにこにこと笑みを浮かべれば相手がさっと視線を逸らす。
本当ならばもっとゆっくりとラテを楽しんでビスケットも貰って帰るつもりだったが、いつまでもここにいれば噂好きな人々に話題を提供してしまうと気付き、ラテを半分以上残して席を立ち、カウンターの中で様子を見守っていた店員にレモンタルトを一台持ち帰ることを伝えてボックスに詰めて貰い、また来る事を伝えて店を出るのだった。
仕事を終えたウーヴェが頼まれていた通りリオンに電話を掛けた時、ウーヴェが想像していた場所とは違う場所にリオンがいたため、軽く驚いてしまう。
午後の診察の前にクリニックを出て行ったリオンは、美術館のカフェからきっと児童福祉施設に戻ってマザー・カタリーナらの手伝いをしていたと思っていたのだ。
だが声の向こうから伝わってくるのは静かな気配で、児童福祉施設ではなかなか経験できない静けさの中にリオンがいる事を察する。
『オーヴェ?』
「あ、ああ、何でもない。今終わったがどうする?」
今日は食事の用意が何もないからゲートルートに行くか他の店に行く必要があると伝え、伝わり掛けた驚きを何とか押し殺すと、ピッツァのデリバリを頼もうと返される。
「ピッツァ?」
『うん。デリバリで良いからさ、ピッツァにしようぜ、オーヴェ』
リオンと付き合いだしてからウーヴェは自宅周辺のレストランや店でデリバリを依頼できる店を探し、発見した時には二人で注文をして店の味について批評を交わし合っていた。
だからいつも頼むピッツァの店を想像し、そこで良いのなら帰ってから注文しようかと笑うと、今日は俺が家にいるから晩飯の用意をすると返されて今度こそ絶句してしまう。
今まで付き合ってきた中でリオンが自ら進んで食事の用意をすると口にしたことはなく、驚きのあまり沈黙してしまうとリオンが不審そうな声で問いかけてくる。
『オーヴェ、俺が用意するって言ったから驚いてんだろ?』
その声は不機嫌さよりも驚かせてやった楽しさが滲んでいて、顔は見えないが本心も同じ所にあると察したウーヴェがにやりと笑みを浮かべ、明日は槍でも降るんじゃないのかと告げると途端に不満の声が携帯を通して届けられる。
『むー。そんなことを言うオーヴェなんかキライだっ』
その声もいつも一緒にいる時に聞いているものだった為、冗談だと告げるとこれまたいつものように笑えない冗談は禁止と怒鳴られ、はいはいと適当にあしらうと急に声のトーンが変化をしウーヴェが眉を寄せると小さな小さな声が聞こえてくる。
『……早く帰ってこいよ』
「ああ。すぐに帰る。だから待っていてくれ、リーオ」
電話で声を聞いているのも良いが、やはり話をする時には顔を見て間近で温もりを感じながらが良いと頷いたウーヴェは、すぐに帰るから待っていてくれと再度伝え、今日はあっちのバスタブに湯を張ったことも教えられてとくんと胸をひとつ跳ねさせる。
「分かった」
『じゃあオーヴェ、気をつけて帰って来いよ』
「ああ」
最大限気をつけつつ最速で帰ると伝えて通話を終えたウーヴェは、クリニックの戸締まりなどを確かめると、両開きの重厚なドアを閉めてセキュリティを確かめると、階段を使って地下駐車場に停めてあるスパイダーの元まで駆け下りるのだった。