王宮の作戦室には、重たい空気が漂っていた。 アデルは、地図を広げながら言った。
「敵の本拠地が判明した。 次の一手は、討伐だ。 この国の空を守るため、風を断ち切る者を排除せねばならん」
セレナは、静かに頷き、レオは真剣な表情で地図を見つめていた。
そのとき――私は、ふと手元の籠を開けた。
「…あの、皆さん。 焼きたてのパン、いかがですか?」
三人が一斉にこちらを見た。
「アイリス…今、作戦会議中だぞ」 アデルが、眉をひそめながら言った。
「だからこそ、パンです。 渋い話には、甘いパンが必要なんです」
私は、ふわふわの果実パンを差し出した。
「このパン、路地のルースさんが焼いてくれたんです。 “王子様が戻ってきた祝い”だそうです」
レオは、思わず笑った。
「君って…本当に空気係だね。 重たい空気を、パンで軽くするなんて」
セレナも、パンを手に取りながら言った。
「この香り…作戦よりも先に心が動くわね」
アデルは、しばらく黙っていた。 そして、ふっと笑った。
「君は、風を通すだけでなく、空気を焼き直す者だな」
私は、パンをかじりながら答えた。
「焼き直し、大事です。 焦げた空気は、ちょっと苦いですから」
その言葉に、三人は思わず吹き出した。
「アイリス、君がいると王宮が柔らかくなる」 レオが、果実の甘みを味わいながら言った。
「でも、敵討伐は甘くないぞ」 アデルが、パンをかじりながら言った。
「だからこそ、甘いパンで始めましょう。 空気が整えば、風も強くなります」
その日、作戦室の空気は少しだけ軽くなった。 パンの香りが地図の上に漂い、重たい話に柔らかさが加わった。
作戦は、見事に成功した。 アデルが率いた王宮の部隊と、ギルドの冒険者たちが協力し、賊の本拠地を制圧した。私は見ていることしかできない自分に少しいらだった。
「敵の指揮官は捕らえた。 だが…問題は、その背後にいた者だ」
アデルは、王宮の作戦室で地図を見つめながら言った。
「黒幕は、隣国“ヴェルディア”。 かつて、王妃セレナに毒を盛った者たちの出身地だ」
その言葉に、空気が一瞬、凍った。グレイヴの故郷ヴェルディア。
セレナは、静かに紅茶を口にしながら言った。
「そう…やっぱり、あの国だったのね」
アデルは、拳を握りしめた。
「私が見逃した過去が、今になって国を揺るがせた。 セレナ、お前にあんな思いをさせたのに…私は何もできなかった」
その言葉に、セレナはふっと笑った。
「アデル、あなたは“風を通す”ことを選んだ。 それが、私にとって何よりの救いだったわ」
そして、アイリスがそっと言った。
「私も…毒を食べたから、王族の皆さんと話すことができました。 あの出来事がなかったら、私はただの“厨房のメイド”で終わっていたかもしれません」
レオは、驚いた顔でアイリスを見た。
「君…それを笑って言えるの?」
「はい。だって、毒の渋みがあったからこそ、今の甘みがあるんです。 人生って、ちょっと焦げたくらいが美味しいんですよ」
セレナは、目を細めて笑った。
「アイリス、あなたの言葉は、とても柔らかいわね」
アデルは、しばらく黙っていた。 そして、静かに言った。
「君たちが笑ってくれるなら、私はその過去を受け止めよう。 過去は消すものではない乗り越えるもの。 どんな悲惨な過去も財産となる」
その言葉に、王宮の空気が少しだけ揺れた。
毒を盛られた過去。 それによって生まれた絆。 そして、今の風。
それは、渋みと甘みが混ざり合った、王宮の空気そのものだった。
王宮の作戦室で、アデルは地図を広げながら言った。
「ヴェルディアとの外交は、正式にはまだ始まっていない。 だが、君の“風”なら、先に空気を見てくることができるかもしれない」
私は、深く頷いた。
「わかりました。 お忍びで行きます。 でも、一人では心細いので…ギルドの仲間に声をかけても?」
「それが、君らしいな」
アデルは、微笑んだ。
その日、私はギルドへ向かい、ミラに相談した。
「ヴェルディアへ行きたいんです。 空気を感じて、風が通る道を探したい」
ミラは、少し驚いた顔で言った。
「ヴェルディアは、風が止まった国よ。 でも…あなたが行くなら、風が揺れるかもしれない」
集まったのは、薬草師の少年ルカ、地図職人の老女エマ、剣士のカイ―― 王宮の兵ではない、でも“空気を感じる”仲間たち。
ヴェルディアの国境を越えた瞬間、空気が変わった。
風がない。 音がない。 人々の足音すら、どこか沈んでいた。
「…ここ、本当に風が止まってますね」
私は、マントを握りながら言った。
町に入ると、建物は整っていた。 でも、窓は閉じられ、店の看板は色褪せ、笑い声はなかった。
「誰も、名前を呼び合っていない」
ルカが、ぽつりと呟いた。
「空気が、重いです」
エマが、地図を見ながら言った。
「風が通らない場所は、心も閉じてしまうんですね」
私は、果実の屋台の前で立ち止まった。
店主は、無言で果実を並べていた。 私は、そっと声をかけた。
「こんにちは。とても綺麗な果実ですね」
店主は、驚いた顔で私を見た。
「…そんなふうに言われたの、久しぶりです」
「名前、教えていただけますか?」
「…マルクです」
「マルクさん。この果実、甘そうですね。 渋みはありますか?」
マルクは、少しだけ笑ってくれる。
「…少しだけ。 でも、芯は甘いです」
その笑顔に、私は風を少し感じた。
「じゃあ、私が味見してもいいですか?」
マルクは、果実を手渡してくれた。
「どうぞ。 あなたは優しい人のようだしね」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
ヴェルディアの町は、確かに風が止まっていた。 でも、名前を呼び、声をかけることで―― 風は、少しずつ揺れ始めていた。
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