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気がつけば、朝になっていた。
自分も、彼も、何も着ていない。
肌のあちこちに、昨夜の熱の残り香だけがまとわりついている。
ベッド横の棚には、使い終わったタオル。
ゴミ箱には丸められたウェットティッシュ。
(……後始末、ちゃんとしてくれてる)
そんな小さなことが、どうしてか救いのように思えた。
けれどすぐに――
昨夜、スマホのレンズ越しに泣き崩れた自分の顔が浮かぶ。
『逃げたら、ばら撒くよ』
その声を思い出すだけで、胸の奥がじくじくと痛んだ。
(……逃げないための“理由”ができた。
そう思えば、少しだけ楽になれる)
彼の寝息に耳を澄ませながら、横顔をそっと見つめる。
この朝だけは――
恋人みたいに、守られているふりをしていたかった。
体の向きを変え、彼の顔を覗き込む。
重たい前髪の隙間から覗く、長いまつ毛。
少し尖ったアヒル口が、眠たげに結ばれている。
(……こんな顔、ずるい)
「ん……? ちかちゃん……おはよ」
彼はゆっくりと目を開け、昨夜とはまるで別人みたいに優しい声で囁いた。
そのまま腕が伸びてきて、そっと抱き寄せられる。
胸がきゅっと掴まれる。
昨日の行為が嘘みたいで、本当に最初から恋人だったみたいな朝だ。
「お風呂、入ろ?」
いつもの調子で笑いながら、手を差し出してくる。
その自然さが、逆に恐ろしい。
湯船の中で向かい合わせに座る。
彼は責めない。問わない。触れすぎない。
ただ「大丈夫?」と髪を撫でるだけ。
その優しさが、やけに胸を刺した。
(ずるい。優しくしないで。そんな顔、しないで)
「昨日のこと、怖かった?」
小さな声で問われる。
頷くと、彼は少し笑って、
「もうしないよ。……大事にするから」
嘘か本当かなんて、もうどうでもよかった。
ただ今だけは、恋人みたいな朝に溶けていたかった。
静かな湯気の向こうで、視線が絡まる。
「ねえ、ちかちゃん。僕の曲の中で、何が好き?」
不意の質問に、胸が跳ねる。
「えっと……選べないです。
本人さんの前だと、なんか……えらべなくて」
彼が小さく笑う。
指先が頬に触れ、くすぐったいほど優しい。
「なにそれ。かわいい」
頬に残る温度が湯よりも熱くて、思わず視線をそらす。
それでも、追うように顔を近づけてくる。
「“我逢人”とか……“ツキマシテハ”とか……好きです」
おそるおそる答えると、彼はふっと唇をゆるめた。
「ふーん、なら――」
少し照れたように、しかし逃がさない声で。
湯気の中、彼は歌い出した。
低くてあたたかい声が、お風呂の静けさに広がっていく。
その優しさが、心の底をゆっくり溶かしていくようで――
泣きそうになった。
(ずるい。どうしてそんな顔で、そんな声で……)
ほんの一瞬だけ、
昨日の恐怖も支配も痛みも、全部夢だったように思えた。
優しいところもあるのかもしれない――
そう思ってしまう自分が、一番怖かった。
湯気に溶けた彼の歌声が、耳にこびりついて離れない。
まるで、その優しさすら……私を縛るためにあるみたいに。
お風呂から上がって髪を乾かしていると、
鏡越しの彼がふいに声を落とした。
「ねえ、ちかちゃん。今日、予定ある?」
突然の問いかけに、息が止まる。
「……ない、です」
「そっか。じゃあさ、朝ごはん――
いや、もう昼ごはんかな。食べに行こうよ」
当たり前みたいな笑顔。
恋人みたいな誘い方。
断る理由なんて、言えない。
一緒に服を着て、並んで支度をする。
鏡の前で髪を整える彼の横顔を見るたび、
ほんの何秒かだけ、本当に“恋人同士”みたいだった。
部屋を出る直前――
ドアノブに触れたところで、後ろから強く抱きしめられた。
「……ちかちゃん」
耳元に落ちる声は、
昨夜の支配とも、お風呂の優しさとも違う。
“離さないで”と告げるみたいな、不安を孕んだ声。
「逃げないでね?
いなくなったら……僕、寂しいから」
寂しいなんて。
そんな弱い言葉を言われたら、断れなくなるのを知っているくせに。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
彼がゆっくりマスクを外し、
触れるだけの軽いキスを落とす。
それだけで、心臓が痛いほど跳ねた。
「行こ」
差し出された手を握ると、
指を絡めてきた。
普通の恋人みたいに。
いや、それよりずっと強く。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
でも彼の手の温度が、それをすべて消してしまう。
(恋人じゃない。
でも、恋人みたいに扱われる――
それがいちばんつらい)
逃げられないのは分かっている。
それでも、手をほどく勇気はどこにもなかった。
店に入ると、ほんのり甘い香りが漂っていた。
窓際の席に案内され、向かい合わせに座る。
彼はメニューを眺めながら、
穏やかで自然な笑顔を向けてきた。
「付き合ってくれてありがと。
ここ来たかったんだよね」
その何気ない一言が、胸の奥をそっと揺らす。
「パンケーキと、オムレツ……どっちにしようかな」
「私、パンケーキ食べたいので……半分、食べますか?」
言った途端、彼の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあそれにしよ。……嬉しい」
そんな当たり前みたいな言い方が、逆につらい。
恋人でもないのに、恋人みたいな距離感。
料理が運ばれると、彼は嬉しそうに写真を撮って、
そのままスマホをこちらへ向ける。
「ねえ、ちかちゃん。こっち向いて」
「え……?」
「そんな緊張した顔しないで? ほら」
頬に指を添えられ、優しく向きを整えられる。
パシャ、とシャッター音。
画面を覗いた彼が、ふっと目を細める。
「……ねえ。
他の男に、こんな顔しないでね?」
声は優しいのに、目だけ笑っていない。
胸の奥がひくりと跳ねる。
「え……し、しないです」
「ほんと? 僕だけ、でしょ?」
逃げ道を塞ぐ囁き。
「……はい」
彼が満足げに微笑む。
「ちかちゃん、美味しそうに食べるね。かわいい」
「え、そうですか……?
ほんとに美味しくて……」
「パンケーキ、ちょうだい?」
軽く口を開けて“あーん”の仕草。
その自然さが、胸を強く締めつける。
食事を終え、外に出ると、昼下がりの風が心地よかった。
駅までの道を歩く間も、彼は指を絡めたまま離さない。
恋人みたいに――
でも恋人以上に強く。
駅前に着いた瞬間、彼は立ち止まった。
「……ちかちゃん」
呼ばれた声は甘く弱く、どこか頼るようだった。
それがいちばん断れない声だと知っている。
そっと手を握り直し、顔を近づけてくる。
「ねえ、また会えるよね?」
真正面から逃げ道を塞ぐ距離で。
「……はい」
「連絡、ちゃんとしてね?
返事ないと……不安になるから」
切実さを装った声。
その奥に潜む独占欲は隠しきれない。
「あの……でも、もときさん、お忙しいですよね……?」
彼の目が一瞬、細くなる。
次の瞬間――耳元に唇が寄せられた。
「それとこれとは別。
ちかちゃんは……“特別”だから」
ぞくりと全身が震える。
甘いのに、冷たい鎖みたいな言葉。
離れる直前、彼はマスクを少し下げ、
柔らかい笑顔で囁いた。
「またね、ちかちゃん」
その優しさが――
どこまでも残酷だった。