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会った翌日から——
いや、別れた直後から、彼のLINEは明らかに変わった。
『おはよう、起きてる?』
『今日なに食べた?』
『寒いから暖かくしてね』
『ねえ、ちかちゃん。次会ったときさ……何食べたい?』
優しいはずなのに、
どこか“逃げ道を塞ぐような”気配が滲んでいた。
返事を送れば、数分以内に返ってくる。
(こんなに仕事してるはずなのに……?)
不思議だった。
だけど——
“特別だから”
あの言葉が胸の奥に触れるたび、
拒む理由は少しずつ溶けていった。
文面だけのやりとりが続いた数日。
電話も、次に会う約束もないのに、
心のどこかがずっと落ち着かなかった。
週末。気分転換に美容院へ行き、
軽く整った髪に少しだけ気持ちが晴れた。
そのあと買い物をして、
“今日は何も起きない土曜日”になるはずだった。
——夕方17時。
画面が光り、携帯が震える。
彼からの着信。
胸がひくりと跳ねる。
おそるおそる電話をとる。
「……はい」
『ねえ、ちかちゃん。今から会いたい。無理?』
息が止まる。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
「……大丈夫です」
『ありがと。嬉しい』
その瞬間、彼の声がふわっと和らぐ。
恋人みたいに優しく。
『今から支度するよね?
ゆっくりでいいから』
「……はい」
短い沈黙が落ち、“音”だけが胸に響いた。
そして——
まるで初めから決まっていた選択肢みたいな声で。
『……ちかちゃん。今日は、僕の家に来てほしい』
「……え、家……ですか?」
『うん。そっちのほうが落ち着くし……
ちかちゃんと、ちゃんと一緒にいたいから』
“ちゃんと”——
その一言が、やけに甘く胸に絡みついた。
断れない。
——断るという発想すら浮かばない。
『代々木八幡駅まで来れる?迎えに行くから』
「……わかりました」
『……気をつけてね。
着く時間、また教えて。
会えるの、楽しみにしてる』
電話が切れても、
握ったスマホを持つ指がじんじん震えていた。
震える理由が、
怖さか、期待か、
そのどちらでもないものなのか——
自分でも分からなかった。
部屋が静まり返る中、
心臓の音だけがやけに大きい。
(……また、行くんだ)
胸がぎゅっと痛んだ。
酷いことをされたのに。
泣かされて、脅されて、あんなことまでされて——
なのに“行く”と答えてしまった。
罪悪感が喉の奥に張りつく。
(でも……逆らったら)
脳裏に、あの夜の光。
スマホのレンズ。
泣き崩れた自分。
逃げたら——という声。
考えたくなくて目をぎゅっと閉じた、そのとき。
ピコン、とLINE通知。
『ちかちゃん、無理しなくていいからね』
少し間を置いて、もう一通。
『いつも可愛い格好してるけど、
今日はすっぴんでいいよ。だる着でもいいし』
胸がひゅっと縮む。
優しさを装っているのに、
“もう逃げ道はない”と告げているみたいだった。
まるで、飾らない私を
当然のように抱く気でいるようなメッセージ。
『来てくれるだけで嬉しいから』
その一文が、決定打。
嬉しいわけがない。
怖い。
でも——断れない。
スマホを胸に押し当て、
声も出ないまま深く息を吸った。
(……もう、行くしかない)
自分に言い聞かせるように立ち上がる。
姿見の前に映る自分は、
“すっぴんでいい”と言われたのに、きちんとメイクをしていた。
薄く伸ばしたファンデ。
最小限のアイメイク。
少し整えた眉。
服も“だる着”なんて選べなかった。
淡い色のニットに黒のスキニー。
そして落ち着いた色のコート。
(なにしてるんだろう……)
やめればいいのに。
行かなければいいのに。
でも“嫌われたくない”と“怖い”が混ざり合って、
体が勝手に支度を進めていた。
美容院帰りの髪は柔らかく、
鏡に映る自分は——
まるで“会いたいひとがいる女の子”みたいで、胸がきゅっと痛い。
罪悪感はあるのに、
それ以上に“また会える”という期待が消せない。
最低限の荷物を入れ、玄関を静かに閉めた。
電車に乗る前、「18時半ごろ着きます」と震える指で送る。
返信はすぐ。
『うん、待ってるね』
たったその文字が胸をきゅっと締める。
代々木八幡駅に着くと、心臓が一気に早くなる。
階段を上がり、改札へ向かう足取りは落ち着かない。
マスクをして俯きながら歩く。
(一応……彼の家に行くんだし……
でも……なんでこんなに苦しいの……)
改札の向こうを見た瞬間——
胸が強く跳ねた。
そこに、すぐ分かるシルエット。
背は高くないのに、目を引く空気。
マスク越しでも遠くからでも“彼”だとわかる。
(……本当に、いる)
改札を通る前から、彼は手を振っていた。
子犬みたいに嬉しそうな顔で。
見つけた瞬間、ぱっと目元が明るくなる。
それだけで胸がずきんと痛む。
改札を抜け、一歩踏み出す。
「ちかちゃん」
小さく呼ばれるだけで息が詰まる。
マスク越しの私を見て、
彼は甘えるように目を細めた。
「すぐわかったよ。
来てくれてありがと」
ゆっくり歩み寄り、
当然みたいに手を伸ばしてくる。
恋人みたいな迎え方。
逃げられない距離。
周りには人がいるのに、
自分たちだけが切り取られた世界みたいで喉がひりつく。
(なんで……こんなに嬉しそうなの……)
嬉しさ、罪悪感、期待、恐怖が
全部いっしょくたになって胸が痛む。
彼の指先がそっと触れ——
自然に、指を絡める。
「……行こ?」
逆らう気持ちは、もうどこにもなかった。
「ちょっと家まで歩くけど……ごめんね」
絡めた手のまま街灯の下へ歩き出す。
歩くたび、親指が優しく手の甲を撫でる。
恋人みたいなのに、どこかざわつく。
ふいに覗き込むように顔を寄せられた。
「……ちかちゃん、髪切ったよね?
かわいい」
レイヤーを入れた髪を真っすぐ見つめる視線は、
甘さと所有欲が混ざっていた。
「あ……はい。今日、美容院行きました」
彼はふっと目を細める。
「え、じゃあ……」
私の正面へと立つ。
「可愛くなったちかちゃんに……
僕が一番最初に会ったんだよね?」
照れたように笑いながら、
絡めた手をぎゅっと強く握る。
「……なんか、嬉しくてさ。
こういう“最初”って、全部僕がもらいたいんだよね」
街灯の下、逃げられない距離で覗き込んでくる。
「ほら、だって——」
一拍置き、マスクを少し下げる。
唇の端がゆるく上がる。
「ちかちゃんは、僕のだし?」
優しい声なのに、言葉だけが鋭い。
そして、囁きのようにもう一滴。
「……ね?
誰にも渡す気、ないから」
笑顔なのに、
甘くて静かな鎖のようだった。