「へー。
あの部屋で録音したら、笑い声が入ってたんだー?
……笑うかなあ」
久しぶりに道で猫を抱いた北原に出会ったので。
部屋で録音したときの話をしたら、北原は、ぼそりとそんなことを言った。
「き、聞いてみられます?」
悠里はまだとっていたあの音声を北原に聞かせてみた。
北原は、うーん? という顔をしている。
その間に、猫は腕から降りて、何処かに行ってしまった。
つい、そちらを見ていると、北原が後ろで呟いていた。
「ちょっと違う気がするな~」
違うって。
いや、なにとっ!?
なにがっ!?
とか思っているうちに、北原は逃げた猫を抱き上げ、行ってしまった。
「てなことがあったんですよ」
翌朝、昨夜の話を七海にすると、
「謎な人だな」
と整理した郵便物を受け取りながら、デスクから顔を上げ、七海が言う。
「北原さんは、あの霊が何者なのかわかっているのかな?」
「なんかそんな感じですよね」
そこで、七海が少し考えてから言った。
「……ちょっと検証してみるか」
「え?」
「お前の部屋に行って、調べてみよう」
後藤が社長室に入ろうとしたとき、
「お前の部屋に行って、調べてみよう」
という七海の声が聞こえてきた。
社長も必死だな。
なんとか、ユウユウと二人きりになろうとして、と思いながら、後藤はノックするのをやめる。
実は今日の後藤には、従弟からの指令が出ていて。
悠里に頼み事をしなければならなかった。
社長の邪魔はすまい。
ユウユウは社長との話が終わったら、出てくるだろうから、それまで待とう。
さりげなく待とう。
後藤は社長室の扉の前から離れると、スマホを手に、スケジュールをチェックするフリをする。
悠里はすぐに出てきた。
うむ。
猫のこと以外で、個人的に話しかけるのは、ちょっとためらわれるな。
妙な奴だが、これでも、社長の恋人候補だからな。
ゆくゆくは社長夫人とかなるかもしれん。
待て。
すると、俺はいずれ、こいつに、顎で命令されたりするようになるのか。
はい、奥様、とか言ったりするようになるのか。
「あ、後藤さん、お疲れ様で……」
「おのれ」
えっ? おのれ?
と悠里が自分を見る。
……しまった。
動揺と屈辱のあまり、口から出てしまったようだ。
「そんなこと考えてたんですか、後藤さん。
いや、私、別に社長と結婚する予定はありませんから。
そもそも、社長も本気で私に言っているわけではないでしょう。
たまたま、そこにいたからでは?」
ははは、と笑いながら、悠里は、パシュッと炭酸飲料の入ったボトル缶を開けている。
秘書室に寄ってから、悠里を誘い、あの猫の自動販売機のところまで来ていた。
「そんなことはないと思うぞ、ユウユウ」
と言うと、悠里が何故か不思議そうな顔をする。
そこでかなり迷って、後藤は後ろ手に隠していたものを出した。
「ユウユウ。
頼みがある」
「はあ」
「お前にこんなことを頼むくらいなら、今すぐ、部署を変えてもらうか。
違う会社に行きたい、くらいの気持ちなのだが」
どんだけ追い詰められてんですか、という顔を悠里がする。
後藤は、迷う気持ちを振り払うように色紙を突き出した。
色紙の先端で、悠里を突き殺しかねない勢いで。
「すまないが、サインをくれないかっ。
俺の可愛い従弟のためにっ」
と言うと、悠里は、
はは……と困ったように笑い、
「それで、さっきからユウユウと呼んでらっしゃったんですか?」
と言う。
「……呼んでたか? 俺が」
「呼んでましたよ……」
「すまん。
昨日、従弟がずっとお前のことをユウユウ、ユウユウと言っていたので暗示にかかった」
と後藤は謝った。
……よし、これで肩の荷が下りた、と思いながら、後藤は職場の廊下を歩いていた。
しかし、これはちょっとした危険物だぞ、と色紙を眺める。
七海に見られたら、大変なことになるからだ。
猫好きな従弟に、職場の猫を見せてやろうとあの動画を見せた。
自分で猫の写真を撮ろうとしても、警戒したようにこちらを見ていたりして、上手くいかないからだ。
だが、従弟は猫より、悠里の笑い声に反応した。
「あれっ? この人、ユウユウと笑い方そっくりっ」
お前、社長より、気づくの早いな。
社長よりあいつに愛があるのか。
っていうか、みんな、声より笑い声を言うが、あいつ、ほんとにラジオで笑ってるだけだったんだな、と思う。
違うと言おうと思ったが。
小さいときから可愛がってきたので、高校生になっても幼く感じる従弟のキラキラした瞳にやられ。
「小さいときから、ずっと聴いてたラジオ番組に出てた、ユウユウって人の笑い声にそっくりなんだよ、この人っ。
ユウユウって、どんなときでも、聴いてるだけで、気持ちが明るくなる笑い声の人なんだっ。
テストで15点とかとっても、気持ちが明るくなったよっ」
……それは何点満点でだ?
明るくなるな、と思ったが。
解答欄を縦横書き間違えたのだと言う。
むしろよく、15点もあったな……。
というか、合っていたところは、そもそも、その答えの記号が間違っていたのでは……?
とかいうエピソードを聞いていたら、つい、もっと喜ばせたくて言ってしまった。
「その人はユウユウ本人だ。
今、うちの会社にいるんだ」
「そうなんだっ?
アシスタント、卒業しちゃって。
他のラジオにも出ないから、どうしてるのかなあと思ってたんだよ。
会社で朝の情報番組とかやってるの?」
いや、まあ、そんな感じのトークだが。
どんな会社だ……。
「すごいなあ、お兄ちゃん。
ユウユウと働いてるのか~」
妙な尊敬のされ方をしてしまった。
他のことで尊敬されたい、と思っていたが。
従弟のキラキラした瞳には勝てなかった。
「祥也、ユウユウにサイン頼んでみてやろうか?」
うんっ、と大層喜ばれ、後藤は幸せな気持ちになった。
……あいつに頭を下げる屈辱も、あのときの幸せの代償だと思えば耐えられないこともないこともなかったな。
だが、この色紙はどんな物より危険だ、とへたくそな字でユウユウと書き殴られている色紙を見る。
……俺が貞弘のファンかと思われるではないか。
破損しないように、かつ、帰るまで誰にも見つからないように隠しておかねば。
さっき、ぶち猫が珍しく自分からやってきたが。
手を出すといつものように逃げるだろうから、色紙を突き出してみようかとか。
色紙の上に、いつも携帯している猫の餌を載せてみようかとかいろいろ思ったが。
頑張って、やらずにおいたし。
早く鞄に入れて……
って、向こうから社長ーっ!
後藤は怯えながらも、さりげなく、色紙を持った手を背中に回し、一礼したあと、用もないのに、給湯室に入った。
「あれっ、後藤さんじゃないですかっ」
と総務の大林修子が一オクターブ跳ね上がったような声で言う。
「あ、すまない。
ちょっと水を――」
と適当なことを言ったが、すぐに、
「水ですねっ。
お薬ですか?」
とコップに水を注いでくれた。
チラと廊下を窺うと、チラ、とこちらを見ながら七海が通っていった。
「あ、後藤さんっ。
それ、悠里のサインじゃないですかっ?」
「大林さんもあいつの芸名ご存じなんですか?」
「はい。
欲しくもないけど、なにかの弾みで値がつくかもと思って。
私もサインもらったんで」
「それだ。
ありがとう、大林さん」
と言うと、
「えっ?
あ、は、はいっ」
と修子は赤くなる。
そうだっ。
それだ。
そう言おうっ。
なにかの弾みで値がつくかもしれないと思って、もらったとっ。
それなら、社長も誤解しないはずだ。
さっきの視線がちょっと気になるが……と後藤が思うその頃、しっかり誤解した七海はいろいろと不安になっていた。
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