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杜若様が私の涙を見て驚いた顔をしたけど、何も言わずに長い指先で涙を拭ってくれた。涙を拭うたびに大丈夫だと言ってくれた。
私はきっと杜若様にこんなに優しくされる資格なんてない。なのにこの優しさを手放すことが出来ないと知った。
土蜘蛛にきっと狙われた私は、今すぐここを出て行ったほうがいい。
なのに杜若様の体に、私が縋るようにその背中に手を回していた。
人からこんなに優しくされて嬉しい。
なのに切ない。
杜若様に触れるほどに切なくて、胸が痛くて、それでも離れられない気持ちは──恋。
そう思った。
好きだなんて、口が裂けても言えない。
だから、なんとか自分の手で涙を拭って杜若様を見上げた。
「杜若様、いつか。いつか。ちゃんと私のことを話します。今はその代わりに、私の好きなものを聞いてくれますか? そして杜若様の好きなものも教えて下さい」
そうだ。私はあの朝に答えられなかったことを答えたいと思った。
杜若様は私の髪を撫でながらうなずいてくれた。
「私の好きなものは、おいなりさん。油揚げのお味噌。ばあやが作ってくれたご飯も好きです」
口から出た言葉はとても拙いと自分でも思った。
でも、杜若様はそれをとても嬉しそうに聞いてくださる。その笑顔がまた胸を甘く切なく締め付けた。
「他には?」
「甘いものも好きです。暖かくて、明るい所も好き。雑誌のカフェーのメニューを眺めたりするのも好き」
「あぁ、まだ喫茶店に行けてなかった。絶対に一緒に行こう」
「はい。あとはここにいる皆様が好きです。これで全部。私が好きなものはこれで全部です」
その中では杜若様が一番好き。
最後の言葉が言いたいのに。
どうしても言えなくて、杜若様の背中に回した手に力を込めるだけになってしまった。
私はかつてこの人の前世に殺された。
今はこの人になら殺されてもいいと思った。
今だけはこの腕の暖かさに酔いしれたい。今だけは許して欲しい。
その為ならどんな罰でも、受けると神様にお願いした。
深く呼吸を繰り返して、少し落ち着くと杜若様が私の耳元で囁いた。
「じゃあ、俺の番だな。俺が好きなものは環だ」
「っ、そんな。わ、私達出会って、そんなに経ってない……っ」
自分で言うのもなんだけども、言わずにはいられなかった。
「そうだな。出会って間もない。でもどうしようもなく惹かれる。それに妖を相手に俺の妻だと名乗りを挙げる女なんて、惚れてしまうのは当然だろう?」
問われて、キャラメルよりも甘い言葉に頭と心が痺れてしまった。
視界いっぱいに杜若様の端正な顔が迫り、顎を緩やかに掴まれた。
すると体全体に痺れるほどのドキドキが私を襲う。
「……今度は拒まないんだな」
「──拒む理由が無くなったから」
すると杜若様が微笑んだ。
「やっと妻を口説き落とせた。環、好きだ」
「はい」
杜若様が静かに瞳を閉じた。そして唇が私に近づく。ドキドキして心臓が口からこぼれないように、きゅっと硬く口を閉じる。
杜若様の唇がそっと私の唇に触れようとした瞬間。
スパァンっと襖が外れる勢いで開いた。
そこに眼鏡が傾いた石蕗様と宇津木様がいた。
「緊急にて失礼します、杜若様……って」
「どうしたんですかっ。石蕗様。襖で固まっている場合ですか。これは緊急事態で、うわー! 僕も何も見てません。僕も何も見てません。僕も何も見てませーん!」
宇津木様の口調で、今度は碧様に見られたと思った。
こんなとき。どうしたらいいのか分からない。
いっそまた気を失った方が楽なのかなとか思っていると、杜若様が海よりも深い深いため息をついた。そして石蕗様と宇津木様にぎぎっと首を傾けた。
「五分外で待っていてください。五分でなんとかします」
その言葉に反応したのは私。
思わず杜若様の腕の中で聞いてしまった。
「五分!? か、杜若様は五分で、私に何をしようと思っているのかなっ!?」
「……出来る限りのことを」
「なんだか、出来ることの幅が広そう!」
真面目に答える杜若様に顔が熱くなった。
私達がそんなことを言い合っていると石蕗様がこちらに寄って来た。
「申し訳ございません。夫婦漫才と睦み合いは、ひとまず後にしてくださいっ。本当に緊急事態なんです。杜若様、申し訳ない。これを見て下さいっ」
石蕗様は傾いた眼鏡をすちゃっと正しながら、懐から高貴な紫の|袱紗《ふくさ》を恭しく机の上に置いた。
そして石蕗様は未だに私の体を離さない杜若様をじっくりと見つめて、薄い唇を開いた。
「帝からの直筆の書状です。従者の方より、御前会議が三日後に決まったと連絡を受けた次第です」
「!」
杜若様の体が驚きで揺れた。
私もびっくりする。
帝都を治める天帝。帝。そんな偉大な方から手紙が来るなんて確かに緊急事態。
杜若様は一瞬だけ、天を仰いでから私を見た。
「環、続きは必ずする。環は何も心配することはないから、ゆっくり寝ていてくれ」
そっと密着した体と離れてしまった空間に切なさを覚えながら、事態が事態だけに仕方がない。
そして帝からの手紙なんて──なにかあるのでは。
それがどうか平和なことであるようにと祈りながら、口の中に残ったキャラメルの甘さの余韻の中に、今さらほろ苦さを感じるのだった。