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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
井垣グループは白河財閥と並ぶ大企業と私はお祖父さんから聞いていた。
その会社を動かすために優秀な人間を集めたとお祖父さんは言っていたのを思い出す。
壱都さんはわかっていた。
父を長く社長の椅子にとどめておくわけがないということを。
その上で、いったん社長の椅子を譲ったのだ。
「わざわざお出迎えいただきありがとうございます。もう皆さんと仕事ができないかと思っていました」
壱都さんはしらじらしくそんなことを口にした。
心にもないくせに。
じろっーと横目で壱都さんを見ると『なにか?』というように笑顔で私に応じた。
「朱加里お嬢様、白河社長とのご婚約おめでとうございます」
「いやあ、朱加里お嬢様のおかげで白河家の壱都さんを婿に迎え、社長になっていただけるとは我が社も安泰だ!」
お嬢様って私はいつからそんな呼び方になったのだろう。
つい数日前まで朱加里さんだったような気がする。
それに婚約って、婿って?
本人完全無視でいつの間にそこまで話が進んでいるの?
「あ、あの……」
「皆さんの英断のおかげですよ」
私の前に壱都さんが出ると、爽やかな微笑みを浮かべ、善良そうなオーラを振り撒いた。
その上、謙虚なセリフを並べる。
「私のような|若輩者《じゃくはいもの》を信じ、社長という大役をお任せいただけたことを感謝します。皆さんの器の大きさに感服しました」
もう呆れて物も言えなかった。
そんなこと少しも思ってないくせに壱都さんはさらりと言ってのけた。
「いやいや!会長の遺志を継げるのはご指名があった壱都さんだけですよ!」
「それに仕事ぶりもすばらしい」
「取引先から壱都さんが社長と聞いたから、契約したと言われては、こちらも前の社長に戻りましたとは、恥ずかしくてものも言えません」
「海外からの大口契約も控えているというのに井垣社長は余計なことをしてくれたものだ」
壱都さんから軽く持ち上げられただけでこれだ。
騙されていますよと私が教えてあげたいくらいだった。
「未熟な私達二人ですが、今後ともご指導いただきますよう、よろしくお願いいたします」
壱都さんは私の肩を抱き、にっこりと微笑んだ。
「よろしくお願いします……」
王子のように微笑む壱都さんの隣で私はひきつった笑みを浮かべていた。
でも、誰も気づかない。
壱都さんと話すのに忙しい人達は私の顔なんて、少しも気に留めていなかった。
「いやあ、仲がよろしくて一安心ですな」
「朱加里お嬢様、しっかり壱都さんの心を掴んでくださいよ」
「婚約パーティーの日取りも決めなくてはいけませんな」
「会長が亡くなったばかりで、派手なパーティーはできませんが、お披露目だけでもしておかないと」
重役の人達は壱都さんを逃がさないように囲い込むつもりのようだった。
「お祝いまでして頂けるなんて、ありがたいね。朱加里?」
「そ、そうですね」
言いたいことは色々あったけれど、私が言えるのはこれが精いっぱいだった。
「社長室に戻ろうか」
正式に|井垣《いがき》の社長になった|壱都《いちと》さんはすぐに仕事に戻った。
戻ったというより、部屋に入ったというほうが正しいのかもしれない。
ずっと仕事だけはしていたのだから。
疲れた顔は一切見せずに重役達はもちろん、社内の人間には徹底して王子のような顔をして、あっという間に井垣グループを正常に戻した。
私は簡単な仕事を手伝うだけで、他に何ができるわけでもなく、お茶をいれたり、書類を整頓したり、|樫村《かしむら》さんが不在の時には電話をとったりと、それくらいだった。
「温泉とはなんだったのだろう……」
遠い目でビルの外を眺めた。
私、温泉に行ったのかな?
行ってたよね?
どんどん仕事をこなす壱都さんを見ていると、夢のような気がしてきた。
コピーした書類を手に社長室に戻ると、壱都さんと樫村さんが私の顔を見た。
「な、なんですか?」
「お客様がくる。お茶を用意してもらえるかな?」
「はい」
お湯を沸かしていると、社長室に誰かが入ってきた気配がした。
「申し訳ありません……!」
声を震わせ、謝る声は私がよく知っている人の声だった。
「町子さん!」
「|朱加里《あかり》。久しぶりだろう?話したいこともたくさんあるんじゃないかな?」
壱都さんの笑顔が怖い。
町子さんは私の顔を見ず、目を閉じていた。
「町子さん、元気でした?今、どうしているんですか?」
「朱加里さん……いえ、朱加里お嬢様」
「私はお嬢様じゃありません。そんな呼び方はやめてください」
「朱加里さん。まだ問題は解決してませんよ。だから、彼女を呼んだ」
樫村さんが低い声で言った。
「樫村さん?」
「朱加里さんにはお伝えしていませんでしたが、井垣会長が朱加里さんのために遺した財産を奪い返すために争っている最中です」
壱都さんが社長に戻ったから、解決したものだと思っていたけど、私が相続した財産の方はまだ解決していなかった。
「井垣会長が認知症だったと彼女が嘘をついたせいで、こんなことになっているんですよ」
「町子さんだけじゃない。井垣家で働いていた人間を買収したのか、脅したか―――嘘の証言を集め、こちらが不利な状況に置かれている。井垣家を辞めたと聞いたから、樫村に町子さんを連れてきてもらったんだ」
「申し訳ありません」
町子さんは深く頭を下げた。
「息子が就職する際に井垣社長にお願いして、井垣に入社させていただいたんです……。もし、私が朱加里さんに味方するなら、コネ入社だと言いふらし、息子を退職に追い詰めてやると脅されて。息子には家庭があるんです。仕事を失うわけにはいきません」
泣きながら、町子さんは訴えたけれど、壱都さんの目は冷たい。
「だからといって、井垣会長の名誉を傷つけるような真似をしていいのか?会長はあなたにもいくらか遺しているはずだ。朱加里を頼むと言ってね。違いますか?」
びくりと町子さんは体を震わせた。
「会長はあなたの息子が入社した時に経緯を調べているはずだ。会長はその時、信頼していたあなたにまで裏切られたと感じたに違いないですよ」
「壱都さん、町子さんを責めないでください」
「別に責めているわけじゃない」
庇ったのが、気に入らないのか、壱都さんは不機嫌そうな顔をした。
「壱都さんが財産を持たない私でもいいと言うなら、財産はいらないです。私は壱都さんがいてくれれば、それでいいんです」
「それは―――」
怖い顔をしていた壱都さんの表情が崩れた。
「今、言わなくてよかったかな」
「えっ?」
いつならよかったんだろうと思いながら、町子さんをソファーに座らせた。
「温かいお茶を持ってきますね」
お茶を出すと町子さんは軽く頭を下げた。
町子さんも若くはない。
井垣を辞めて、すぐに次の勤め先が見つかるとは思えなかった。
一緒に働いていた時より、そんなに時は過ぎてないのに体は小さく見え、丸まった背中のせいか、老いて見えた。
「井垣の家を辞めたのはお祖父さんに申し訳なく感じていたからでしょう?」
町子さんは小さくうなずいた。
「だって、町子さん。私によく言ってたじゃないですか。体が動く間は井垣の家を辞めないって」
「朱加里さん……」
「仕事を辞めて生活のほうは大丈夫ですか?」
「息子夫婦の家に今は住んでいて、なんとか生活をしております……」
「そうですか」
「本当に申し訳ございませんでした」
体を小さくし、町子さんは何度も謝った。
「もういいんです。私、壱都さんがいてくれるだけでじゅうぶん幸せですから」
「それは俺にだけ言ってくれたらいい」
不貞腐れる壱都さんは子供みたいだった。
樫村さんもがっかりしていたけど、町子さんをこれ以上、責める気はないようでホッとした。
何度も町子さんは謝りながら、帰って行った。
町子さんがいなくなると、樫村さんは盛大なため息をついた。
「はあ。せっかくの証人がいなくなりましたよ」
「町子さんが息子さん夫婦にお世話になっているなら、なおのこと仕事がなくなったら困るじゃないですか」
「人がいいにもほどがある」
「私も町子さんが裏切ったと聞いた時はショックでしたけど、なにか理由があるんだと思っていましたから」
樫村さんは肩を落とした。
「せっかく財産を取り返せそうだったのに」
「また他の方法を考えるか。朱加里がそういうなら仕方ない」
機嫌がいい壱都さんを樫村さんは恨めしい目で見ながら言った。
「壱都さん、いい笑顔ですね」
「酷いことはしないでくださいね?」
その笑顔に嫌な予感しかない。
「わかっているよ」
本当に!?
第二、第三の町子さんがやってこなければいいけれど。
壱都さんの笑顔を見ていると、信じることができなかったのだった。