「沙織さんが戻ってきたから、様子を見に来ただけだったのに、いきなり叩かれたの。私がいたから怒ってしまって。でも、まだ離婚をしていないんだから当たり前だよね」
叩かれてもいない頬に手を当てて、美咲さんは涙を流している。女優も真っ青なその演技に、私は唖然としてしまう。
しかし、もうどうでもよくて、私は淡々と片付けを始めた。
「おい、沙織。お前何してるんだ?」
芳也は何も話さない私に、苛立ちを向けてくる。
「荷物を取りに来ただけ。ここにあるものは処分してくれていいから」
「お前、何を勝手なこと言ってるんだ!」
理解できない芳也の声に、私は呼吸を整えつつ二人を見据えた。
「ねえ、この状況で私にどうしろっていうの? 別に帰ってきたわけでも、やり直しに来たわけでもないわ。離婚届を書いてもらいに来たのよ」
そう言いながら、私はバッグから離婚届を出して芳也に差し出す。
その用紙を見て、芳也は目を見開いた。
「離婚するって俺は許可してないだろ」
「え? 芳也。どうして? 離婚できるのが嬉しいでしょ?」
まさか芳也がそんなことを言うとは思っていなかったようで、美咲さんが声を上げる。それは私も同じ気持ちだった。
「ねえ、芳也。見てよ。沙織さんの服もバッグも。彼女、体を売ってお金を手に入れるような人よ。この家の妻にふさわしくないじゃない」
美咲さんの言葉に、芳也は私の全身に目を配る。
「お前……!!」
芳也はそう言うと、私の方へと来て私の胸ぐらをつかんだ。
「そんなことをしたのか!!」
「やめて!! してないわ」
「じゃあ、その服もバッグもどうしたんだよ!!」
床に置いてあったバッグを芳也は投げつけ、上から怒鳴りまくる。
「お前は俺にだけ尽くすって決まってるんだよ。何勝手なことを」
今まで何も言わず従ってきたが、もうそんなことをする理由などない。
「自分は愛人を家に入れて、そんな格好を妻に見せて、まだそんなことを言うの?! ふざけないで!」
私がきっぱりと言い切ると、美咲さんが「私は愛人じゃないわ!」とわめいている。
「私と離婚をして彼女と再婚でも何でもすればいいじゃない!」
「うるさい!」
叩かれる――そう思った瞬間、体が勝手に動いた。芳也の手が降りてくる前に、私は彼をかわし、そのまま玄関へと走り出した。
「沙織! おい、待て!」芳也の怒声が背中に響く。
玄関のドアを開けて、外の冷たい空気が肌を刺すように感じる。走り出した私の視界に、見覚えのある車が止まっていた。あの黒い高級車――陸翔兄さまだ。
「どうして……」
思わず口に出しながら、私は急いで車の方へと駆け寄った。車のドアが開き、陸翔兄さまの姿が現れる。
「沙織、大丈夫か? お前が出かけたって聞いて、心臓が止まるかと思った……」
陸翔兄さまの低い声が聞こえる。その瞬間、胸に溜まっていた不安が一気に崩れ落ちるような気がした。
「ごめんなさい」
そこへ、芳也が怒り狂って私たちの方へ走って来る。その後ろから美咲さんも出てきた。
「沙織、お前、本当に男に身売りをしてたんだな」
地を這うようなその声に、私はキッと芳也を睨みつけた。それと同時に、芳也が宙を舞った。陸翔兄さまが殴り飛ばしたことがわかる。
「お前……!!訴えてやるからな!」
「好きにしろ」
冷酷な声で言った陸翔兄さまに、驚きすぎて私は動けずにいた。
「芳也、大丈夫!?」
美咲さんが芳也に寄り添っていることなどどうでも良くて、陸翔兄さまの手を取った。
「手痛くない?」
「大丈夫だよ、そんな心配はしなくていい。行こう」
芳也と美咲さんのことなど、どうでもいいと言わんばかりに私を促す陸翔兄さまだったが、数歩歩いて、足を止めて振り返った。
「離婚届、サインしておけ。あとで、取りに行かせる」
「どうせ、お前もホストでもしてるんだろ? 金もないくせに粋がるな!!」
最低な言葉を投げかけている芳也だったが、私は美咲さんがずっと陸翔兄さまを見ていることに気づいた。
「あなたは?」
そんな彼女の問いかけに、もちろん陸翔兄さまは答えることなどしなかった。
ドアが閉まると同時に、芳也が道路の外に飛び出してきたのが、バックミラー越しに見える。
「アイツ、やばいな……」
呟く陸翔兄さまに、私も頷いて見せる。本当に自分の男を見る目のなさに、嫌気がさす。こうして迷惑をかけてしまうなんて。
「どうして、来てくれたんですか?」
「お前こそ、どうして俺に言わない?」
家庭もあり、仕事も忙しい彼にそんな迷惑はかけられない。少し怒っているような彼の声に、私は黙り込んでしまう。
「悪い、責めてるわけじゃない。コンシェルジュに、沙織が出かけたら連絡をもらうようにしていて正解だったな」
最後は独り言のように、陸翔兄さまは呟いた。
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