深夜。建物の明かりは消え、まるで停止したビデオのように足音ひとつ聞こえない。街が寝静まっている時間帯。 今は空き家となった三階建てのビルの上で、私は寝そべり星空を眺めていた。
「……よし、死ぬか」
吸った息を吐くように、するりと出た。これから私は飛び降りて、そして死ぬ。怖くはなかった。むしろ、嬉しいくらいだ。この世界から解放される。クソみたいな人生から。
地面を見つめながら歩き、落下一歩手前で止まった。下を覗けば、チカチカと点滅する電灯と固そうなコンクリートの地面。しっかりと死ねるだろうか、それが唯一の懸念点だった。
私は必死に言い聞かせた。これしか方法は無いのだと。
「これでいいんだ。これで……」
そして、一歩を踏み出す——。
「そんなことしないでくださいよぉ‼︎」
「だから! 私は死ぬ為にここに来たんです‼︎ あなたに私の自殺を止めさせる権利はないでしょう⁉︎」
「嫌だぁ‼︎ 君が死ぬなんて僕は嫌だぁ‼︎」
「はぁ⁉︎ 何なんですかあなた! いきなり来て泣き出すなんて……‼︎」
なぜこんな事になってしまったのか。数分前、ちょうど私が死のうとした時の事だ。
私が足を前に出した時、男の叫び声がした。
「何してるんですか⁉︎」
驚きで足を滑らせたらどうするのだろうか。肩を跳ねさせる程度で済ませた私は偉いと思う。さすがに私もそんな情けない最期は嫌だ。
「死のうと思ったんです。止めないでください」
「止めないワケないでしょう‼︎ 早くこっちに来てください‼︎」
そこからなぜか口論になり……今に至る。
この男は何なんだ。見たところ知り合いではない。完全に見ず知らずの男だ。なのになぜ、彼はこんなにも必死なのだろう。私にはよく分からない事だらけだった。
「嫌だ……死なないでくれ……頼むから……‼︎」
「はぁ……分かりました。今行きますよ……まったく」
これでは死ぬに死ねない。自殺は明日に持ち越しとしよう。別に焦る必要もないのだから。
「よかっ——」
体が宙に浮く。まさか私、足を滑らせたのか。
「……はぁ。私ってヤツはホントに」
我ながらため息が出る。いつもこうだ。やろうとした事はいつもどこか中途半端で……思うように、うまくいかない。今更悔しいも何もないが、何というか、最期までこうというのは虚しいというか……私らしいというか。 私は目を閉じ、この後すぐに訪れるはずの衝撃に備えた。
そう、『はず』だった。しかし、どれだけ待っても予想した衝撃は来ない。それどころか、落下する際に感じる重力や風を切る感覚も無い。
「死なせない! 絶対に死なせるもんか‼︎ やっと出会えたんだ‼︎」
男が私の手を強く握っていた。痛みを感じる程に。その痛みは、私が今生きているという何よりの証だった。
「君には! 一生の恩がある‼︎ 例え君が覚えていなくても! 僕は君に返したい‼︎ だから! 死ぬなぁぁぁぁっ‼︎」
彼は大きく言葉を吐き出すと、それと同じくらいの力で私を引き上げた。いきなり色んな事を言われて私の頭はすっかり使い物にならなくなっている。私は何をするでもなく、ただ彼の赤くなった目尻を見つめていた。
「どうせ、死ぬくらいなんだ……暇なんでしょ? ちょっとくらい付き合ってくれてもいいんじゃない?」
彼は切れた息を整え、にかりと笑った。