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翌日。
わたしが下宿先へと帰ると玄関前に少女がいた。
「なんで窓閉めてんの?」
怖じ気づく様子も、悪びれた様子もなく、部屋に入れなかったと文句を言っている。
「ん」
と、まるで通行証を見せるかのように警報器を見せつけてきた。
中に入れろと言っているのだろう。
脅しの有効性を学習させるのはよくない。
わたしも困るけれど、それ以上に教育的によくなかった。
でも、どう諭さとせばいいのだろう。
脅してはいけません、で止まるとは思えない。
教職に就いたら、こんなふうに自分の弱さを盾にしてくる子とも向き合うことになるのだろうか。
「わかったよ。でも、夕方には帰るんだよ。」
そう部屋に招くと、少女は笑った。
嬉しそうだったけれど、それは無垢な笑顔ではなかった。
渇望していたものをようやく手に入れたかのような、そんな顔だった。
それからというもの、少女は事あるごとに下宿先に遊びに来た。
勝手にやってきて、勝手に本棚をあさり、勝手に冷蔵庫の麦茶を飲んで帰る。
それだけの関係だ。
住所はおろか、名前すら知らない。
言いようのない違和感があるものの、あえて自覚がないかのように振る舞っていたのを覚えている。
「脅されたから、仕方なく従っているだけ」
今思えばそんな消極的な動機に引きずられていたのだろう。
このままお互いに何も知らないまま、互いの名前も知らずに夏休みを終えて、それからだんだん疎遠になって、ゆくゆくは忘れていくものだと、そう思っていた。
しかし、その甘い見通しは大いに外れることになる。
それから一週間もすると、半ば同棲のような状況になった。
少女が私物を持ち込み、やたら臭う服を勝手に洗濯するようになっても、互いに名前も知らない他人のままだった。
それでも生活していればわかることもある。
この少女は、スマートフォンやPCで文字を打つことはできるけど、紙に書くことはできない。
計算は電卓アプリ頼りで、暗算ができない。
小学校低学年で触れるもの、たとえば算数セットやピアニカなどの学習道具の存在を知らない。
きっと、本質的には賢いのだろう。したたかにもスマートフォンの検索履歴や電話帳からは一切の情報を削除していた。
髪は赤みがかった茶髪だし、服も真新しいものが多いから気づきにくいけれど。
この少女は、小学校に通っていない。
小中学校というのは義務教育だ。保護者は子供に普通教育を受けさせる義務がある。
しかし、どうやらこの少女の両親はその義務を果たしてはいないようだった。
一介の大学生には手に余る問題だ。警察に連れて行くべきだろう。
少女が「拉致されていた」と言うだけでわたしは逮捕されそうだけれど、そんなことはどうでもいい。
そして、そんなことより。
小学校に通っていないことよりも大きな問題が、その背景にあった。
その問題がある以上は警察へ連れて行こうとすれば逃げられることも、無理矢理連れて行っても少女に待っているのは地獄しかないことも、わかりきっていた。
最適解を選ぶには、あのとても目立つ服の染みを「見て見ぬふり」する必要があるのだろう。
最適解。
たとえるなら、トロッコ問題の最適解のようなものだ。
問題の意図から外れるので、正確には解でも何でもないのだけれど。
AグループかBひとり、どちらを犠牲にするかを考える。あのいじわるな問題の最適解として、あれ以上のものはないと思っている。
Bひとりを少女と仮定しよう。
少女を犠牲にして、少女以外のすべてを守るなら。わたしはどうすればいいだろう。
そう難しいことではない。
自分の身を守りたいなら、すぐに少女を追い出せばいい。
そうした後、しっかりと鍵をかけて二度と部屋に入れなければいい。
持ち込まれた私物は家の裏にでも放っておけばそれで済む。
少女は怒るだろうけれど、最後には他を探しに行くだろう。
わたしを脅しつけても、住処が元通りになるわけでもないのだ。
新しい住処では気の良いおばさんあたりが世話を焼いてくれて、警察と相談の上、行政が健全に動き、学校に通うようになるかもしれないし。
拉致されて、この世の地獄を味わうことになるかもしれない。この前受講した犯罪心理学の講義で、そうした実例があることは知っていた。
そうすれば自分を守ることはできる、少女を犠牲にして。
正直、わたしの部屋にだけ侵入していたとは考えにくいから、近隣の住民はこの小さな不法侵入者をちゃんと追い出して、無視しているのだろう。
普通の反応だ。
大抵の人はそういう反応をするのではないだろうか。
トロッコ問題とその派生でも人数の多い、もしくはより価値の高いAグループを守ろうとした人がほとんどだった。
他人より自分や家族の生活を優先するのは当然のことだ。
しかし、学校の先生になろうとしているわたしが、自分の身を守るために少女を犠牲にするというのはどうなのだろう。正直、論外だと思う。
ならば、わたしがするべきはBを守ること。
少女以外のすべてを犠牲にして、少女を守ることではないだろうか。
わたしも、レールの上に乗っているわたし以外のすべても。
何もかも犠牲にするべきではないだろうか。
……もっとも、これだけでは最適解にはならないのだが。