テラーノベル
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「キシャァァァァァァァァーーーッ!? 目が、鼻がァァァ!!」
前世がどれほど優秀な害虫駆除業者であろうと、今、奴の魂が宿っているのはアシダカグモの肉体だ。
昆虫や蜘蛛の感覚器官は、人間の何倍、何十倍も繊細にできている。
そこに直撃した大量の一味唐辛子は、奴にとって生物兵器(化学兵器)のガスをモロに食らったも同然だった。
八本の脚をデタラメにバタつかせながら、クモの巨体が壁からボタボタとコンロの上へ落下していく。
(今だ! ここを逃したら、次はない!)
俺は調味料ラックの頂上で六本の脚を限界まで撓(たわ)め、ステンレスの壁を思い切り蹴り飛ばした。
「これで、チェックメイトだぁぁぁッ!!」
カサカサと床を這い回るだけがゴキブリではない。
俺の背中を覆う、あの忌まわしき、しかし今この瞬間においては最高に頼もしい「漆黒の翅(はね)」が、爆音を立てて開いた。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!
深夜の静かなキッチンに、人類を最も不快にさせる狂気の羽音が鳴り響く。
空中へ飛び出した俺は、重力と羽ばたきの推進力を味方につけ、自由落下するクモの脳天めがけて一直線に急降下(ダイブ)した。
ターゲットは、奴の八つの眼が集まる頭部。
自慢の【神速(アクセル)】の慣性をすべてその一点に叩き込む、命懸けの質量攻撃だ。
『が、は……ッ!?』
ドガッ!!!
空中での激突。虫サイズとは思えない鈍い衝撃音が走り、俺の頭部がクモの頑強な外骨格に激しくめり込んだ。
普通のゴキブリなら自重で潰れていただろう。だが、俺にはある。
『ユニークスキル【驚異の生命力】が衝撃を吸収。肉体へのダメージ:ゼロ』
「よしっ!!」
俺たちは二生(にせい)分の質量となって、そのままコンロの五徳(ごとく)の上へと激しく墜落した。
ガシャァァン! と金属音が響き、周囲に火花のような一味唐辛子の赤い粉が舞い散る。
俺は墜落の衝撃を即座に逃がし、バックステップでクモから距離を取った。
コンロの上で、アシダカグモは完全にひっくり返り、八本のトゲだらけの脚を力なく痙攣させている。頭部には、俺が突撃した際のヒビが入っていた。
「はぁ、はぁ……。やったか?」
前世のバトル漫画で最も言ってはいけないフラグの台詞が、思わず口(触角)から漏れ出る。
じりじりと距離を保ちながら、二本の触角をレーダーのように回して奴の様子を窺う。
すると、ひっくり返っていたクモの体が、ピキ、ピキと不自然な音を立てて起き上がり始めた。
『……ハハ、ハ。やるじゃねえか、ゴキブリの分際でよぉ……』
脳内に直接響く、奴の呪わしい声。
まだ生きていた。しかも、奴の八つの眼は唐辛子で真っ赤に充血し、口元の大顎からは、泡立った緑色の毒液がドロドロと溢れ出ている。完全に理性を失った、狂戦士(バーサーカー)の目だ。
『前世の俺はなぁ! お前らみたいな薄汚い虫を、何万匹とこの手で潰してきたんだよ! 薬を撒いて、叩き潰して、粘着シートでじわじわと干からびさせてなぁ!』
クモの全身の毛が、怒りで逆立っていく。
『それを、まさか自分が虫になって、しかも一番見下していたゴキブリに遅れを取るだと!? ふざけるな、認めん、認めんぞぉぉぉッ!!!』
「肉体がクモになっても、中身は人間のエゴのままだな。俺だって、好きでこの姿になったわけじゃねえ!」
『知るかよ! 死ねぇッ! 【秘技:百足縛り(むかでしばり)】ッ!!』
クモが残った力を振り絞り、信じられない速度で大顎を動かした。
その瞬間、奴の口から放たれたのは、ただの毒液ではなかった。超高粘度の、半透明の「糸」だ。
クモの糸が網のように広がり、瞬時に俺の退路を塞ぐようにコンロ全体に張り巡らされる。
(しまっ――!?)
一歩動こうとしたが、右の後ろ脚が、わずかにコンロの縁に張られた糸に触れてしまった。
粘着力は人間用のガムテープの比ではない。引っ張れば引っ張るほど、脚の節々が引きちぎられそうなほどの激痛が走る。
「くそっ、動けない!?」
『捕まえたぞ、害虫がぁ!』
クモがニヤリと大顎を歪めた。奴の八本の脚が地を捉え、動けない俺めがけて、最後の一撃を放つべく跳躍する。
狙いは俺の腹部。あの毒液に満ちた大顎で噛み砕かれれば、いかに【驚異の生命力】があろうとも、溶かされて吸い尽くされるのは時間の問題だ。
迫り来る、死の顎。
絶体絶命のピンチ。
(動け、動け、動け! 俺の脚、千切れてもいいから動け!!)
必死に念じたその時、俺の脳裏に、転生した時に告げられた「世界の声」のリストが閃いた。
『――待てよ。まだ使っていない能力がある!』
俺は深く息を吸い込み(気門を全開にし)、体内の全エネルギーを、背中の翅へと集中させた。
「まだだ! 俺にはこれがあるんだよ! 【翅の怪力変換(メガ・バースト)】ッ!!」
『特殊能力【隙間(スリット)ウォーカー】の応用:骨格の一時的超収縮を開始』
『ユニークスキル【驚異の生命力】:筋肉の瞬間過負荷(オーバードライブ)を許可します』
バギギギギギッ!!!
俺の体全体が、一瞬にして元のサイズの半分以下へと凝縮された。
それと同時に、粘着糸に囚われていた右後ろ脚を、筋肉の爆発的なパワーで強引に引き抜く。
バチンッ! と激しい音を立てて糸が弾け、俺の体は自由を取り戻した。
『な、にいぃぃぃッ!?』
空中でクモが目を見開く。標的を見失った奴の大顎が、空を切る。
「上だよ、前世の駆除業者さん!」
超収縮から一転、俺は体をもとのサイズに戻しながら、クモの頭上へと回り込んでいた。
空中を蹴ることはできない。だが、俺には【神速】がある。速度とは、地上を走るためだけのものじゃない。
俺は近くの換気扇のフードに向けて、渾身の力で【神速】の足踏みを放った。空気を物理的に蹴り、その反動で、落下するクモの背中へと超高速で突撃する。
「これで、本当に終わりだ。前世の怨みつらみも、全部ここに置いていけ!」
『ユニークスキル【驚異の生命力(全力打撃)】』
頭部、胸部、そして六本の脚。俺の肉体の全質量と速度を込めた、文字通りのフルパワー・ドロップキックが、クモの背中の中心(急所)へと炸裂した。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
今度こそ、キッチンのステンレス台が悲鳴を上げるほどの衝撃が走った。
アシダカグモの巨体はコンロの底へと叩きつけられ、バキバキと外骨格が完全に破壊される音が響く。
奴の口から、緑色の液体が激しく噴き出した。
クモはそのままピクリとも動かなくなり、奴の放っていた悍ましいプレッシャーが、霧が晴れるように消えていった。
『対象の無力化を確認しました。経験値を獲得』
『ユニークスキル【捕食・解析】が一時的に解放されます。対象を摂取することで、スキルの一部を継承可能です』
世界の声が、俺の完全勝利を告げた。
「はぁ……はぁ……はぁ……。勝った……。俺、勝ったんだ……」
満身創痍の状態で、俺はコンロの上にへたり込んだ。
六本の脚はどれもガタガタで、自慢の触角も唐辛子と煤(すす)でボロボロだ。しかし、胸の奥から湧き上がる達成感は、前世のどんな仕事の成功よりも大きかった。
最強の天敵を、自分の力だけで打ち破ったのだ。
俺はゆっくりと、動かなくなったクモの巨体に近づいた。
【捕食・解析】のスキルが、奴の死体から淡い光を放っている。これを食べれば、あのクモの糸や、壁を自在に跳ぶ能力が手に入るかもしれない。
「ゴキブリの生命力に、クモの機動力が合わされば、俺は本当にこの家で無敵に――」
そう言って、俺がクモの足に口をつけようとした、その瞬間。
カチッ。
キッチンの入り口の方から、小さな、しかしこの世の何よりも恐ろしい「音」が聞こえた。
それは、暗闇に慣れた俺の視界を、一瞬にして暴力的なまでの白で染め上げるスイッチの音。
パチィィィィィン!!!
「ま、眩しっ……!?」
キッチンの蛍光灯が全開で点灯する。
あまりの光量に、俺の三百六十度の視界が完全にホワイトアウトした。
触角が、空気の激しい揺らぎと、上空から近づいてくる「質量」を敏感に感知する。
「ちょっと、お父さん! 早く起きてよ! キッチンでなんか、ガサガサ物音がするって言ったじゃない!」
「眠いなぁ……。気のせいだろ、ネズミか何か――」
重苦しい、地響きのような人間の足音が、二足分、キッチンへと近づいてくる。
しかも、そのうちの一つの足音は、ペタ、ペタと、あの悪魔の足音をさせていた。
厚手のゴム製、底が平らで、踏み潰すことに特化した形状。
人類の最終破壊兵器――【スリッパ】を履いた、この家の主(お父さん)の登場だった。
「ひえっ!? あなた、見て! コンロのところに、なんかものすごく大きいクモと、あと……黒い悪魔がいるわよ!?」
「うおっ!? なんだこのデカいクモは! よし、お父さんに任せろ!」
バシッ、バシッ、と、お父さんが右足のスリッパを脱ぎ、両手で構える音が聞こえた。
その構え、隙がない。主婦の新聞紙とは比較にならない、大人の男の本気の殺意が、キッチン全体を支配する。
「待て待て待て! 俺は今、激戦を終えたばかりで動けないんだよ!」
満身創痍の俺の六本の脚は、乳酸(のような疲労物質)が溜まりすぎて、一歩も動かすことができない。神速のスキルも、クールタイムに入っている。
目の前には、倒したばかりのクモの死体。
頭上には、振り上げられた巨大なスリッパの影。
「いや、せめてあのカレーのタッパーに隠れることさえできれば……!」
『緊急事態。対象:人間(お父さん)からの破壊衝動を検知。接近まで残り3秒』
世界の声が、俺の脳内でけたたましく警報を鳴らす。
上空を見上げれば、蛍光灯の光を遮るように、巨大な【絶望の影(スリッパ)】が今まさに振り下ろされようとしていた。
満身創痍の六本の脚はピクリとも動かない。
【神速】のスキルも使えない。
カレーのタッパーへ走る時間すら、今の俺には残されていなかった。
(生きる……俺は絶対に、こんなところで踏み潰されて死にたくない!)
俺は、すぐ目の前に転がっているアシダカグモ――元・駆除業者の死体へ、最後の手を伸ばした。
動かない体を、ただ「生への執着」だけで這わせ、奴の千切れた脚の一本に、思い切り顎を突き立てる。
「喰ってやる……! お前の力を、俺にくれぇぇぇッ!!」
『ユニークスキル【捕食・解析】が発動。対象のエネルギーおよび能力の自動吸引を開始します』
バリッ、とクモの肉を噛み砕いた瞬間、脳内が真っ白になるほどの強烈な「濁流」が全身を駆け巡った。
それは、クモが持っていた強靭な筋力、壁を自在に跳ぶ跳躍のイメージ、そして――
『能力の継承に成功しました。特殊能力【粘着性の糸(スパイダー・ライン)】を獲得』
『ユニークスキル【驚異の生命力】により、一時的に全筋肉の疲労が強制回復します』
「キタァァァァァァッ!!」
全身の細胞がバチバチと音を立てて再起動する。
それと同時に、俺の頭上から、お父さんの本気の力で振り下ろされたスリッパが、音を置き去りにして迫り来た。
「死ねぇぇぇ悪魔どもッ!!」
ドガァァァァァァァァンッ!!!!!
キッチンのステンレス台がひしゃげるかと思うほどの、凄まじい衝撃音が爆発した。
お父さんの放った一撃は、コンロの五徳(ごとく)を直撃し、そこにあったアシダカグモの死体を跡形もなくペシャンコに叩き潰した。
「はぁ、はぁ……やったか!?」
息を荒くするお父さん。しかし、そのスリッパの下に、俺の感触はない。
「お、おい……嘘だろ? クモは潰したが、黒い方はどこへ行った!?」
お父さんが驚愕してスリッパを持ち上げたその時、彼らは見た。
コンロの真上にある換気扇のフードから、一本の細い「半透明の糸」が、だらりと垂れ下がっているのを。
「あばよ、お父さん! 駆除業者の力、ナメんじゃねえぞ!」
俺は今、換気扇の天井に張り付いていた。
直撃の寸前、俺は新スキル【粘着性の糸】を口から上空へ向けて音速で射出。その糸を換気扇に固定し、自分自身の体をバンジージャンプの要領で、一瞬にして上空へと引き揚げたのだ。
ゴキブリの神速の反応速度と、クモの機動力が合わさった、奇跡の空中回避だった。
「ひ、ひえぇぇぇ! ゴキブリが糸を吐いて飛んだわよ!?」
下の主婦が、これまでに聞いたことのないような絶叫を上げる。無理もない。人類の常識を超えた「クモ型ゴキブリ」の誕生を目の当たりにしたのだから。
「クソッ、どこだ!? どこにいやがる!」
上を見上げるお父さん。だが、俺はもうそこにはいない。
天井の影に隠れながら、俺はすぐ近くにある換気扇の『排気ダクト』の隙間を見つけていた。
外の世界へと繋がる、暗く狭い、五ミリメートルのスリット。
「ここからが、俺の本当のスタートだ」
俺は【隙間ウォーカー】を発動させ、自らの体を滑らかに縮めながら、換気扇の奥へと滑り込んだ。
背後から「あッ! 逃げられた!」という人間の悔しそうな声が聞こえるが、もう届かない。
ダクトの中をカサカサと進むと、目の前に夜空が広がった。
民家の外壁へと脱出した俺は、屋根の上に立ち、都会の夜景を見下ろす。
『おめでとうございます。第一の試練「民家の脱出」をクリアしました』
『これより世界が拡張されます。広域マップ「深夜の歌舞伎町(カオス・エリア)」を開放します』
「歌舞伎町……だと?」
世界の声に、俺の二本の触角がピクリと震えた。
そこは、この世のあらゆる美味いゴミと、そしてさらなる狂暴な害虫たちが蠢く、本当の魔窟。
コメント
1件
おお…めっちゃ熱いバトルだった!唐辛子の一撃とかスリッパのお父さん登場で笑ったけど、空中での粘着糸回避とか神速使った最後の脱出がめちゃくちゃかっこよかったよ🕷️✨ 人間に見つかってからのピンチからの新スキル発動は鳥肌立った…!次、歌舞伎町とか広がるみたいで続きがもう気になるよ!お疲れさま、🍊好きさん!