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第6章 金曜日の戸惑い
side 藤井香澄
金曜の夜、駅近の裏通りにある居酒屋「円囲炉(えんいろ)」
こちらの会社と、岡崎の所属しているフェリクスプロモーション、そしてもう一社。
今回の合同プロジェクトに関わっている3社の関係者が集まっての、いわば親睦会だった。
予約された座敷席は、すでに満席。
座布団を詰めて、男たちはすでに声を張り上げ、ビールのジョッキがあちこちで音を立てていた。
入り口側の席に腰を落ち着け、ひとまず上司や先輩たちと軽く話をしながら、乾杯のあとのビールを少しずつ飲んでいた。
その視線の先、少し離れた上座側では
岡崎がすっかり輪の中心になっていた。
「いや〜岡崎くん、さすが飲みっぷりも見事!ほらもうグラス空っぽじゃないの?ついでやるから飲みなさい!」
「ありがとうございますっ、でも部長、僕、そろそろ命が……」
「なに言ってんだ、まだまだ若いんだから〜ほら、日本酒もあるからこれも」
「うっ。ちょっと誰かセーフティエリア作ってください、セーフティエリア!」
声を上げながらも、ちゃんとグラスに手を添えて笑っている。
いつものあの笑顔で。
手に持ったグラスの氷がカランと音を立ててハッとする。
目線を戻し、ねえ?藤井さんそう思わない??と隣に座る先輩の話に相槌を打つ。けれど、何を話しているのか、頭には半分くらいしか入ってこなかった。
もう一度、向こうに視線を向けると、岡崎はちょうど誰かに日本酒を注がれているところだった。
顔がだいぶ赤い。
いつもより少しくだけていて、でもやっぱり周囲の空気にきちんと馴染んでいた。
─あれはだいぶ飲まされてるなあ。
そう思った直後、岡崎がスッと立ち上がり、フラフラしながら廊下へと向かっていくのが見えた。
トイレだろうか。
少し心配になったが、数分立てばこちらに戻ってきた。
まだ足元をふらつかせた岡崎は、ワイシャツだけになった袖を巻き上げてから、わずらわしそうに少しだけ襟元とネクタイを緩めている。
そしてなぜか、コソコソとこちらの席に向かって、まっすぐ歩いてきた。
「……あっつい……」
そう言って座敷にしゃがみ込みながら、隣にするりと腰を下ろす。
ふわり、 アルコールの匂いと周りが吸って移ったであろうタバコの匂いがする。
座敷の狭さのせいで肩がぶつかるくらい距離が近くなってすこし緊張する。
姿勢をなんとなく正した。
「…逃げてきた。あそこ、あれ以上いたら、俺、死ぬ」
声が低い。さっきまでの賑やかさとは別人のようなトーン。よく見たら額に汗をかいて前髪が少しはりついている。
「だ、大丈夫ですか?これ、水。飲んでください」
あ、さんきゅ。と受け取って水の入ったジョッキを一気に飲みこんでいる。
ごくごくと飲むたび隣の人の喉仏が上下する。
それを見てなんだかこちらの喉もむず痒い。
「……お疲れさまです。岡崎さんのいた席、大変そうでしたね」
「いやーあそこマジで魔境すよ。空いたグラスが悪みたいなテンションで酒注がれんの。もーおそろしいおそろしい」
ひとしきり嘆いたあと、
ふうと一息つきながら、壁にドカッともたれ、
隣にいるこちらを見た。
目が赤く潤んでいる。これは相当飲んだのだろう。
「藤井さん、壁にさせてもらう。精神的バリケード。俺に、平穏を、どうか」
本気で参っている岡崎を見て、クスッと笑ってしまった。なんだか今日の岡崎は子供みたいだ。
「…どうぞご自由に。見つかったら助けれませんが」
「うわあ冷たいなあ藤井さんは」
そう言いつつも、口調はやわらかく、笑っていた。
グラスに残った氷をかちりとかき混ぜる音が、騒がしさの隙間で小さく響く。
岡崎の隣にいると、会話に余白があるように感じる。
こちらが黙っても、焦らせることなく、勝手に間を埋めようとはしない。
でも、必要なときは、言葉を差し出してくれる。
「藤井さんは、飲んでます?」
両手を伸ばし、グラスを包み込んだ状態で顔だけこちらを見たまま岡崎は言う。
「あーはい。まぁそこそこ。ビールとかハイボールとか。いまはこれ、ウーロンハイ飲んでます」
「いやぁ。さすが。バランスの良い構成だわそれ」
「あははっそんなことないでしょう」
「いや、ほんと素晴らしい構成。酒の楽しみ方を知ってらっしゃる。あっちはもう関係ないから。たそこはもうアルコールだったらなんでもいい輩みたいな人たちしかいないから」
ぱちぱちぱちと軽く拍手をしておどける隣の誰かさん。
「なーんかそれ、別に全然言われても嬉しくないんですけど。」
「あらら。藤井さんのお気に召しませんでしたか」
ククッと笑い声。
こちらもつられて笑った。
向こうの席からはまだ騒がしい声が飛び交っていて、
店員が何かの料理を手にバタバタと動き回っている。
岡崎も同じ方向を見ているのか、
いやあもう、あっちには戻りたくねえや。
と苦笑しながら呟いている。
「あ、そういや気になってたんだけど、藤井さんって、いくつ?あ、今ってこんなん聞いたらダメだっけか?パワハラ?セクハラ?ん?なんだっけ?」
ぶつぶつ首を傾げながら聞くお隣さん。
というか、そうか、同い年なのか。
「いや全然聞いても大丈夫です。29です」
「え、あ、まじか。俺も。 え、ちょっと待って、それならもう、絶対敬語やめたほうがいいじゃん」
「え?」
「もう、タメ口にしません?」
「え、でも……一応社外だし、プロジェクトでは岡崎さんがリード側ですし」
「いやいや。社外とはいえ今はチームだし、年齢も同じだし、それに俺、チームリーダーって名ばかりで、ぜんっぜん、たいした人間じゃないんで。いいように使われてる社畜なんで。ていうか、同い年ってわかった時点でもうだめ。だめだね。タメ口でいきましょう。はいっもう決定事項!俺が今決めた!」
言いながらスッと何かを宣言するようなポーズで岡崎は手を挙げる。
ヘラヘラと笑いながら。
「はい。じゃあ今から練習な。“岡崎、飲みすぎ”って言ってみて」
「え……」
急に。何を言い出すのかこの男は。
「いいから。命令口調で。語尾強めに」
酔っているせいもあるのか、
どこか無邪気なテンションで畳みかけてくる。
なぜ言い方の設定まであるのかは謎だが。
岡崎の強引さに笑ってしまいそうになり、
迷いながらも、小さく声にした。
「……おかざき、飲みすぎ」
言ってしまって。恥ずかしくなる。
ぶわっと顔が熱くなるのがわかった。
「いいね。けどまだ声ちっさい。はい、もう一回!」
「えぇ…言ったじゃないですか」
「ほら、今の“言ったじゃないですか”も敬語!はい減点!」
声が大きい。周りに聞こえそうで、思わず顔を伏せる。
「だって、急にそんな、呼び捨てなんて」
「うん、最初はそう思う。でも慣れる。絶対慣れる。ていうか、俺はもうあなたをこれから“藤井”と呼ばせてもらうから。気安く」
藤井。
「…それ、はいいですけど」
「あ、また敬語使ったね。じゃあもう一回!はい!
」
「……酔ってますよね」
「酔ってる。でも関係ない。ほんとに敬語はだめ。僕は許さない。さあ。かもん。わんもあぷりーず 」
そう言って、岡崎はこちらに耳を近づけてくる。
なにが、わんもあぷりーずだ。
からかっているようで、ふざけているようで、それでもその笑顔に、なぜか逃げ場がない。
「…お、岡崎、飲みすぎ」
「え、ちょっと照れてるでしょ今」
意地悪そうな目とぶつかってすぐに視線を下に向けてしまう。わあーと叫びたくなってしまう。
たぶん、図星だったから。
「照れてませんっ」
「ほら、また敬語」
「……ちがう、ってば」
「いいね、その感じ。だんだん砕けてきた。もっとやってこう」
うれしそうに笑って、グラスの水を揺らす。
真っ直ぐな目。
素直に笑うときの、頬の柔らかさ。
いつもふざけてるようでいて、不意に真剣になるところ。
そんなものを一つ一つ拾い集めるうちに、気づけば、少しだけ息がしにくくなる。
──やっぱり、この男はいちいちずるい。
ふと、また視線が合う。
逸らそうと思ったけど、それよりも早く岡崎のほうがふっと笑った。
「んー敬語じゃない藤井、いいと思うけどな」
「……そうで…そう、かな?」
「うん。こっちのほうが、ちょっと話しやすい。というか、こっちのほうが、藤井らしい気がする」
藤井らしい。
「……」
「じゃあ、藤井。って呼ぶから。あなたもこれから岡崎って呼んでタメ口で返してね?」
「えぇ〜……がんばり……ます」
「はい早速敬語ー!」
「もう!」
こらえきれず笑うと、岡崎は満足そうにうなずいた。
どこまでも無邪気で、まるで空気を撫でるように人の心に入り込んでくる。
不思議な人だと思う。
だけど、そんなふうに笑うその顔が、
眩しく見えて
思わず目をそらした。
そのとき、背中のほうで誰かが店員を呼ぶ声がして、酔いの余韻が静かに割れた。
岡崎が目を細めてそちらを見やる。
「さて……そろそろか?二次会あるらしいよ。カラオケ。行く?」
「…う。行きますよっ」
「ほら、また敬語〜!藤井ちゃん、減点ですっ」
ふははっとふざけたように笑いながら、
上機嫌な隣の酔っ払いさんが立ち上がった。
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