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アレクは、しばらく固まったままだった。
「…………」
(……え。気を悪くした?)
(だって、大きなクマさんにしか見えないんだもん)
信じられないものを見るように私を見つめている。やがて、ようやく口を開いた。
「……飲み過ぎだ。水を飲め」
「はあっ……? いらないわよ」
(うっさいわね、ほっといてよ)
――さて。ここからが本番だ。
この国の貴族社会は、“慎み”にうるさい。ましてベルシュタイン家は、格式を重んじる名門公爵家。
(舞踏会で酔って、自分から婚約者に迫るような女なんて、嫁にはお断りでしょ!)
社交界から白い目で見られようが、処刑されるより100億倍マシ。
(よし。この作戦、いける!)
私はドレスの隠しポケットから、扇を取り出した。
パッ。
左手で開き、口元へ添え、流し目を送る。
(よし。さっそくゲーム知識を活用するわよ)
――扇のサイン。
『あなたとお近づきになりたい』
空いた右手で、アレクの腕へそっと触れた。……いや。そっと、ではない。逃げられないよう、躊躇なく腕を取る。
「なっ……お前、何を……っ!」
《いつも俺を避けていたバイオレッタが、自分から……?》
《落ち着け。これは罠だ。たぶん罠だ》
「褒めているのよ」
腕をすっと撫で、いたずらっぽく微笑んだ。
「さすが、鍛えているだけあるわね。とっても逞しくて、素敵」
身体が、びくりと強張った。
「……酔っているのか?」
「まあ、ほんの少しだけね?」
(ふふっ、反応が分かりやすいわね)
「それに、この手……」
節くれ立った指には、いくつもの古い傷が残っている。
「大きくて、温かいわ」
両手で包み込む。私は半開きの扇を、下唇へ添える。――扇のサイン。
『私にキスしてもいいのよ』
「仮面舞踏会なんて無礼講よ」
「……っ!!」
《これが噂に聞く、恋の駆け引きというやつなのか……!?》
《剣術の訓練では、こんな戦術は習っていない》
《だが……離したくない》
彼は動揺したように視線を逸らし――それでも、私の手を振り払わなかった。それどころか、ぎこちなく握り返してくる。
(よし……押せばいけるわ! もう少しでクロージングね♡)
「ねえ、アレク」
「……なんだ」
「少しだけ、静かなところで話さない?」
迷うような沈黙の後――。
「……ああ」
彼の手を引き、客室棟へと歩き出した。
***
舞踏会の喧騒が遠くなる。人影のない静かな回廊まで来たところで、私は足を止めた。
「……ここなら誰も来ないわ」
アレクはまだ仮面をつけたまま、じっと私を見下ろしている。
「お互い、正直になりましょうよ」
私は先に、仮面の紐へ指をかけた。それを見て、アレクも仮面へ手を伸ばす。
月明かりの下に現れたのは、彫刻のように整った顔。そして首元から鎖骨にかけて走る、古い傷跡。
(やっぱり……顔の作画が良すぎるわ!)
(ゲーム画面でも相当なイケメンだったけど、実物は反則でしょ……!)
「……怖く、ないのか」
「え?」
「この醜い傷跡が」
自嘲気味に口元を歪め、指先で首元の古傷をなぞる。
「……何言ってるのよ?」
私は小さく息を吐くと、背伸びをして、彼の頬へそっと両手を添えた。
「傷があるからって、その人まで怖いわけじゃないでしょう?」
さらに距離を詰め、耳元で囁いた。
「ねえ……もう少し、一緒にいてくれる?」
《これは、夢か?》
《他の令嬢なら、この傷を見れば怯えるだろうに》
《バイオレッタが……俺を受け入れてくれるだと……?》
「…………っ!!」
アレクは耳まで赤くして俯いた。
(ふふっ、戦場の狂犬のくせに、可愛いところあるじゃない)
「……本気なのか」
「冗談に見える?」
「……そうか」
《俺の想いを、もう隠さなくていいんだな?》
「分かった」
「え?」
(……あれ?)
(なんか急に、雰囲気変わってない?)
「ちょ、ちょっと待って――」
視界が揺れて――。
***
その頃。舞踏会の会場では――。
「レオン殿下、次の曲はぜひ私と!」
「まあ、抜け駆けなんてずるいですわ!」
「はは。みんな、順番にね」
レオンは、群がる令嬢たちへいつもの笑顔を振りまいていた。いつもの光景――のはずなのに。
「…………」
ふと、周囲を見渡す。
「殿下?」
「いや……」
いつもなら、この輪の少し外側にいるはずの姿がない。
「……バイオレッタは?」
口にしてから、自分でも首を傾げる。
(僕、なんであの子を探してるんだろう)
ただ、いつもいる人がいない。それだけだ。
「ウィステリア伯爵令嬢でしたら、先ほど少々騒ぎが」
「騒ぎ?」
「エミリア子爵令嬢が誤って、お召し物へ果実水をかけてしまわれたとか」
「ああ……」
(よりによって、バイオレッタに)
フローラは、十七歳で飛び級入学した特待生だ。王家が魔法学院へ出資している関係で、レオンも何度か顔を合わせているが、そのたびにバイオレッタは彼女を鋭く睨んでいた。
「それで? さぞ怒っただろうね」
「いえ。それが……激怒する乳母殿から庇い、怪我の手当てまでされたとか」
「…………え? バイオレッタが?」
「はい」
レオンの笑みが、すっと消えた。
「あれだけ嫌っていたフローラを……?」
「多くの方が目撃しております」
「へえ……」
俄然、興味が湧いた。
「それで、本人は?」
「その後、ベルシュタイン公爵閣下と客室棟へ向かわれたそうです」
「…………誰と?」
「ベルシュタイン公爵閣下です」
「…………」
今度こそ、言葉を失った。バイオレッタは、自分に好意を寄せていたはずだ。そしてアレクとの婚約を、あれほど嫌がっていたはずなのに──。一番嫌っていた男と、二人で消えた?
(……何それ)
なんだか――面白くない。
「殿下?」
「いや」
レオンはすぐに、いつもの柔らかな笑みを取り戻した。
「なんでもないよ」
そう答えながら、視線だけは客室棟へ続く廊下へ向いていた。
(……何があったの、バイオレッタ?)