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アレクは、しばらく言葉を失っていた。
……かなり戸惑っているようだ。黒くて大きくて、ちょっと怖い。でも酒の入った今の私には、巨大なテディベアにしか見えなかった。
私はドレスの隠しポケットから、扇を取り出す。パッと左手で扇を開き、口元を隠した。よし。さっそくゲーム知識を活用するわ。
(――扇のサイン:『あなたとお近づきになりたい』)
空いた右手で、アレクの腕にそっと触れる。……いや、“そっと”ではない。躊躇なく、確かめるように触れた。
「なっ……お前、何を……っ!」
《令嬢に熊扱いされたのは初めてだが……》
《いつも冷たいバイオレッタが、俺に関心を……?》
《落ち着け。これは罠だ。たぶん罠だ》
「褒めているのよ。さすが、鍛えているだけあるわね。……とっても逞しくて、素敵」
私は彼の分厚い胸板を指先で確かめ、いたずらっぽく微笑んだ。途端に、アレクの身体がびくりと強張る。
「……酔っているのか」
「まあ、ほんの少しだけね?」
(ふふっ、反応が分かりやすいわね)
《ひっ……!?》
《やめろ。俺の鼓動がうるさすぎる》
《周囲に聞こえたらどうする……!》
「それに、この手……。大きくて、温かいわ」
私は彼の傷だらけの手を両手で包み込む。指を絡めながら、半開きの扇を唇に添えた。
(――扇のサイン:『私にキスしてもいいのよ』)
「仮面舞踏会なんて無礼講よ♡ ……今夜くらい、ね?」
「……っ」
《これが噂に聞く、恋の駆け引き……!?》
《剣術の訓練では、こんな戦術は習わなかったぞ》
《だが……離したくない》
彼は動揺したように視線を逸らし――それでも、私の手を振り払わなかった。むしろ、ぎこちなく握り返してくる。
(よし……押せばいけるわ! もう少しでクロージングね♡)
「ねえ、少しだけ、静かなところで話さない?」
「……ああ」
私は彼の手を引き、人目の少ない廊下へと歩き出した。
***
静かな廊下の奥。会場の喧騒が遠ざかった場所で、足を止める。
「……ここなら誰も来ないわ」
アレクはまだ仮面をつけたまま、じっとこちらを見下ろしていた。
「お互い正直になりましょうよ。仮面、そろそろ外してもいいんじゃない?」
私が自分の仮面を外してみせると、彼もゆっくりと仮面を外した。
月明かりに照らされて現れたのは、彫刻のように端正な顔立ち。よく見ると、首元から鎖骨にかけて、古い傷跡が走っている。
(やっぱり……顔の作画が良すぎるわ!)
(ゲーム画面でも相当なイケメンだったけど、実物は反則でしょ……!)
「……怖く、ないのか。……この醜い傷跡が」
彼は自嘲気味に、首元の傷を指先でなぞった。
「……何言ってるのよ?」
私は彼の頬にそっと手を添え、至近距離で見つめ返した。
「怖そうな人ほど、誰よりも優しいって……私、知ってるのよ?」
「…………っ!!」
彼の呼吸が、わずかに乱れる。さらに距離を詰め、耳元で囁いた。
「ねえ……もっと、素直になって?」
《これは、夢か?》
《他の令嬢なら、傷跡を見ただけで逃げるだろうに》
《バイオレッタが……俺を受け入れてくれるだと……?》
「……ああ」
アレクは耳まで赤くして俯いた。
(ふふっ、戦場の狂犬のくせに、可愛いところあるじゃない)
「……分かった」
《そうか。俺の想いを、もう隠さなくていいんだな?》
彼の腕が、ぐいっと私を引き寄せた。
「……っ!」
(ちょ、ちょっと待って――)
視界が揺れて――。
***
――翌朝。
「……最悪」
頭が痛い。完全に二日酔いだ。
(昨日……何してたっけ……)
記憶を辿ろうとして、途中で止まった。
(……あれ?)
横を向いた途端、私は固まった。
「…………」
少し離れた場所で、昨日の男が安らかな寝息を立てていた。鋭い殺気はどこへやら。子供のように無防備な顔で眠っている。
(やばい。完全にやらかした……)
いや、待って。これは失敗じゃない。むしろ大成功よ!これでアレクも幻滅して、婚約破棄を切り出してくるに決まっている。
(とりあえず、これ以上面倒なことになる前に逃げなきゃ)
ドレスを拾い上げ、私は早朝の王城から全速力でバックレた。
***
「なんで、あんたがここにいるのよ!!」
私の絶叫は、王立魔法学院の中庭に虚しく響いた。ほとぼりが冷めるまで逃げ切るつもりだった男に、わずか数日で再会するなんて。
(ちょっと待って。学院の入学資格って十八歳からよね? アレク、あの見た目で私と同い年なわけ!? 設定が無理ありすぎでしょ!)
彼が険しい顔でこちらへ歩み寄ってくる。その顔を見た瞬間、私は「チャンス」だと弾き出した。この殺気。この不機嫌そうな顔。
(そうだわ……これって、もしや……婚約破棄イベント!?)
ここで「お前のような女に婚約者の資格はない!」と宣言されれば、処刑ルートは完全回避。フローラはレオンと幸せになれる!
私は、営業成績上位になった時のように完璧なビジネススマイルを貼り付けた。さあ、早く言いなさい!婚約解消を!
アレクが私の目の前で止まる。見上げるほど高い身長。彼は私の肩をガシッと掴み、低い声を絞り出した。
「お前……」
(きたきた! さあ、破棄! 破棄しなさい!)
「……逃がさない」
「…………はあああ!!?」
周囲の空気すら凍りつくような執念を込めた言葉に、私の「勝ち確」プランは粉々に砕け散った。
(なんでよ! なんでそうなるのよ!!)
普通、あんなことがあったら冷たく突き放されて終わるもんじゃないの?それがどうして、朝から「一生そばにいろ」と言わんばかりの重圧で、私の退路を断とうとしているのよ!
「ちょっと待って! この間のこと、私、全然覚えてないんだけど!?」
「……覚えていないのか」
「え?」
押し殺したような声だった。
「……そうか」
彼は私の腕を掴み、引き留めた。
「逃げるな……話がある」
(……もしかして私、やらかした?)
いや違う。私の人生、完全に詰んだ。