小口朱莉(33) if 吉野航(29)
「こぐっちゃん、こぐっちゃん」
彼の少し掠れた声が耳に心地よく響く。
「ほら、起きな」
気だるそうに伸びをしながら朱莉は隣に座る吉野を見つめた。
「んん……。おはよ」
「———そのエロイ声、わざと出すの止めてくんない?」
目の前には千台総合コミュニティケアセンターと大々的な看板が立っており、その後ろに10階建ての複合ビルが建っていた。
「はーあ。着いちゃったのぉ?やんだなあ」
ムクリと起き上がりながら、倒していた助手席のシートを直すと、運転席に座っていた吉野はエンジンを切った。
「こぐっちゃんって俺と二人の時、ちょいちょい東北弁になるよね」
吉野がそう言いながら笑う。
「当たり前じゃん。気を許してるんだもん」
「そら、光栄なことで」
言いながらビジネス鞄を後部座席から手繰り寄せている。
「あ、やばい電話来てた。一本いい?」
「どーぞ」
「ついでにアイコスも一本いい?」
「どーぞ」
助手席に凭れた朱莉の隣で、吉野が手帳を開きながらアイコスを咥える。
「お世話様です。吉野です。すみませんでした、運転中で。ーーーええ。そうなんですよ。今日から東京で。一泊の予定です。————あ、その件でしたら、うちの清野に申し伝えてありますので、納品も予定通りに大丈夫です。————はい。————はいかしこまりました。よろしくお願い致します」
そう。今日から一泊二日で、朱莉と吉野は、東京で医療器具展覧会に出席する予定だ。
片道二時間かからないのだが、
「通い面倒だったらホテル取ってやるけど、どうする?」
と聞いてきた部長に、つい「泊りで!」と答えてしまった。
「ああ。お疲れ、俺。今、誠心医療の西塚さんから電話あった。胃瘻用シリンジの手配大丈夫だよな?納品日気にしてたから電話してやって。あと追加注文で――――」
アイコスを咥えながら、今度は部下に電話をしている同期の顔を見る。
今年29歳になったばかりの吉野は、朱莉より3つ年下だ。
四年前、同時に入社したはずの彼は、去年、主任になり、今年マネージャーになった。
どんどん出世していく同期に焦らないわけはない。
でも同じ土俵に上がるには、歴然とした差があった。
男と女という差が。
「よし、おまたせ!」
アイコスから短くなった煙草を取り出し、吉野が朝日を浴びながら振り返った。
「行こうぜ、こぐっちゃん!」
後部座席に置いてあるビジネスバックを朱莉も持ち上げた。
その横に置いてあるお泊りバックの中には――――。
一応コンドームも入れてある。
朱莉はそれをチラリと視線の端に入れながら、重い腰をシートから上げた。